【完結】かなしい蝶と煌炎の獅子 〜不幸体質少年が史上最高の王に守られる話〜

倉橋 玲

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第2.5章 小話2

【リクエスト】師匠との出会い

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 それは、今から十年程前。冷たい冬の風が吹き散らしているような日のことだった。



 この世界においてエトランジェたる蘇芳は、とある島国の辺境へと遊びに来ていた。空には重苦しい雲が立ち込めており、今にも雪が降り出しそうな様子である。そんな空を見上げて、このまま雪が降ったら雪見酒だな、と彼女は思った。
 彼女がこの世界に来てどれ程経っただろうか。偶発的に次元のはざまに迷い込み、聞いたことだけはあった別世界に飛ばされたときは、流石の蘇芳も驚いたものだ。なにせ言語は全く通じないし、自身に半分流れているみずちの力もまともに使えないような有様で放り出されたのだから、驚かない筈がない。
 だが幸いなことに蘇芳はヒトよりも強い力を持っていたので、言葉を介さずとも実力を示せる用心棒や傭兵紛いのことをして生計を立てることができた。金さえ手に入れば、あとはのんびりと言葉や習慣を覚えれば良いだけである。
 もともと悲観的な性質ではないのも相まってか、彼女はすぐさまこの世界に順応していき、言葉を覚えてからは、元の世界でやっていた刺青も生計の一端に加え、のんびりと世界を放浪していた。
 今いる島国は蘇芳の本来の世界と言語や文化などが似ていて割と気に入ったので、ここ数年はこの国に滞在し、観光がてらに各地を回るという生活をしているのだ。
 そんな彼女が辺境の田舎くんだりまで足を運んだのは、偏にここの地酒が美味いという話を耳にしたからであった。酒の話を聞いたその日にすぐさま自宅を出発するあたり、無計画と称するのがふさわしい。
 とにかく、お目当ての酒を確保した彼女は上機嫌だった。購入した十数本の瓶の内の一本をお供に、やや浮かれたような足取りで帰路を歩む。しかしそんな最中、彼女はふと、進んでいく先の道端に何かが転がっていることに気づいた。
(なんだありゃ?)
 遠目にもみすぼらしいと判るそれに近付いてみれば、転がっていたのは汚いボロ布のような衣服を纏った子供だった。
(……餓鬼?)
 なんでこんなところにこんなものが転がっているのだろうか、などと思いつつ眺めてみるが、勿論目の前の光景に変化はない。
(しかし、酷い格好だな)
 季節は冬だというのに子供が着ているのは薄手の服な上、ところどころ擦り切れて肌が露出してしまっている。悪臭と言って良いだろう饐えた臭いも、この子供から発されているものだ。大方、長いこと風呂に入っていないのだろう。蘇芳はヒトよりも過敏な鼻を持っていたので、その臭いに盛大に顔を顰めた。
 極めつけは、衣服の切れ目から覗く青白い肌だ。ただでさえ温度を失って酷い色になっているというのに、それ以外にも肌を変色させる酷い痕が多く付いている。そしてその細枝のような腕の先は、鉄錆の臭いが漂う赤黒いもので汚れていた。
 殆ど死体のように見える少年は、しかしどうやら辛うじて生きているらしい。静かな空気を僅かに揺らす呼吸の音が、その証拠だ。
 細かい経緯は判らないが、この子供がどういう環境で生きてきたのか、察するに余りある様相である。
(さて、どうするかな)
 別にこのまま放置しても特に問題はない。随分と衰弱しているから、放っておけば明日の朝までに小さな死体が出来上がるだろうが、それだけだ。蘇芳にとって利にはならないが、害にもならない。
 逆に、拾っていくという選択肢もある。だが、一度拾ったからには最低限面倒を見るべきだ。そしてそれは正直面倒くさい。害があるとまでは言わないが、利が欠片もない割に面倒しかないな、と蘇芳は思った。
 とは言え、上質な酒を手に入れた蘇芳は今、とても気分が良い。多少の面倒事なら酒と共に腹に収めてもいいか、と思う程度には上機嫌だった。
 子供の体の下に足を差し入れて仰向けにひっくり返してみる。蘇芳の力が人外のものであるというのを差し引いても、随分と軽い力で転がった。どうやら肉の薄い身体をしているらしい。
 転がされたことでようやく露わになった子供の顔も、酷いものだ。子供らしい丸みなどどこにもなく、ともすれば気味が悪くなるくらいにやつれている。
 特段感慨を持つこともなく少年を観察していた蘇芳は、そこで彼の細い首に赤黒い痕があるのを見咎めた。大人が子供の首に手をかけたら丁度こんな風な痕になるだろうか、と思うような、そんな痕だ。
 その痕をしげしげと眺めていると、不意に子供の目蓋が震え、ゆっくりと持ち上がった。そして、うっすらと開かれた瞼の隙間から現れたものに、蘇芳は僅かに目を見開いた。
(……異形の目、か)
 黒と金で彩られた、ヒトならざる目。
 少年が弱々しく押し上げた瞼の奥、その右目だけが、普通ではなかったのだ。
「……、ぁ……」
 少年のひび割れた唇が、何かを紡ごうと震える。それをただ黙って眺めている蘇芳の前で、彼は掠れ切った音を零した。
「…………ぉ、か、ぁさ……」
 酷く小さなその呟きは、しかし人外たる蘇芳の耳にはしっかりと届いた。だが、焦点が定まらない少年の視線は、再び下ろされた目蓋に断ち切られてしまった。
 それを見届けてから、蘇芳は白い息を吐き出した。
 少年の右目は、まさしく異形のものだ。だが、この子供からそういった類の力は感じない。だとするならば、一体どういうことなのだろうか。
 僅かな時間、そう思案した蘇芳だったが、すぐに考えるのをやめてしまった。この子供の目のことなど大して興味もないのだし、考えるだけ時間も無駄だと思ったのだ。
 いずれにせよ、子供の呟きと異形の目で、おおまかな事情は想像できた。
「まぁ、これも縁って奴だろう」
 そう言った蘇芳が、右腕を伸ばして子供を小脇に抱える。右腕にかかった重みは、左肩に下げた酒瓶たちよりよっぽど軽いものだった。
(さて、取り敢えずは宿をとって、この餓鬼を風呂にぶち込まなきゃな)
 そんなことを考えつつ、子供の垢や脂やらで汚れてしまった己の衣服を見下ろして、蘇芳は足を速めたのだった。




 やっぱ面倒臭いことをしたな、と蘇芳は思った。
 あのあと適当な宿を取り(小汚い荷物に一瞬嫌な顔をされたが、宿代を多く積めば問題なかった)、丁稚に小遣いをやって子供服の調達に行かせ、風呂で小汚い身体をがしがしと洗った。その間も子供はピクリともせず気を失ったままで、結局目を覚ましたのは、新しい服を着せて布団に突っ込んでから暫く経ったあとだった。
 そこまでは、何の滞りもなく進んでいたのだ。だが、そこからが問題だった。
 目覚めた子供は、自分が置かれている状況に酷く混乱し、引き攣った悲鳴を上げたかと思うと逃げ出そうとしたのだ。
 その首根っこを捕らえることは容易だったが、子供が暴れようとしたため、不本意ながら低い声で、逃げるな、と脅す羽目になってしまった。これでは人攫いだ。命の恩人だというのに。
 取り敢えず大人しくなったのはいいが、子供はすっかり蘇芳に怯えて縮こまってしまった。
(……腹に食い物突っ込めば少しはマシになるか?)
 風呂に入れるためひん剥いた服の下には、大量の傷跡で覆われた身体が隠されていた。傷跡には、打撲、火傷、切り傷などが多く、それらは新しいものから古いものまで様々であった。また、身体自体もやせ細った不健康そのもので、まともな食事とは程遠い生活をしてきたのだろうことが察せられた。
 手負いの小動物を拾ったようだ、と思いながら、蘇芳は何か消化に良い物を作ってもらおうと部屋を出た。一瞬、自分が部屋を空けている間に逃げやしないかと思いはしたが、あの子供にそれを実行できるほどの余力はないだろう。それに、陽が落ちた外では雪が降り始めている。よほどの馬鹿でもない限り、今この宿を出るのが自殺行為であることくらいは判る筈だ。
 そう考えて厨房で粥と酒のつまみを調達してきた蘇芳は、部屋に戻って眉を顰めた。
 子供がいなかった訳ではない。いるにはいるが、別物だから・・・・・不審に思ったのだ。
 卓上に粥とつまみを置き、蘇芳はつかつかと子供に近寄って、真正面からその顔を覗き込んだ。びくりと肩を跳ねさせて怯えを露わにした子供に対し、蘇芳は数度瞬きをした後、にやりと笑って見せた。
「なんだ。よく判らないが、さっきの餓鬼よりは幾分話が通じそうじゃあないか」
「……な、なに……?」
 怯えの中に戸惑いを滲ませた少年に対し、蘇芳が笑みを深める。
「雰囲気も違うが、特に目が違う。お前はアタシを警戒していても、怯えてはいない。お前の怯えはさっきの餓鬼と違って、表面上繕ったものに過ぎない」
 途端、子供の表情が引き攣り、強張る。それを見て、蘇芳はやはりと思った。
 一見すると同じように見えるこの少年は、しかし蘇芳が部屋を出る前とは異なる何かだ。蘇芳の前のこれは、怯えて震えることしかできない小動物ではなく、手負いながらも油断を見せたら喉を食い破ってやろうとでも言いたげな肉食動物だ。
 どういう理屈なのか、蘇芳にはさっぱり判らない。けれどどうやらこの子供は、中に二人・・いるらしい。
 表面の怯えはそのままに、黒い瞳の奥に宿っている警戒の色が濃くなったのを認めて、蘇芳はやれやれと首を横に振った。
「アタシは仮にも命の恩人だぞ。もう少し礼節を持った対応したって罰は当たらないと思うが?」
「……」
「ま、話さえできればいいさ。……ほら」
 いったん子供から離れ、卓に置いた粥を盆ごと子供へと差し出す。食え、という意図だったのだがしかし、面喰らったように目を見開いた子供は粥をじっと見るばかりで受け取ろうとしない。その様子に面倒臭そうな顔をした蘇芳は、殆ど子供の胸に押し付けるようにしてぐっと盆を突き出した。
 盆に胸を押された子供は、物言いたげな目を蘇芳へ向けてくる。何がしたいのかと問いたいようでもあり、施されてたまるかと言いたいようでもあった。
 そんな様を、蘇芳は鼻で笑う。
「今の状態で他人ひとの施し拒絶できる余裕があるたぁ驚きだな。死にたいんなら話は別だが、どうなんだ? まぁ、お前のその自尊心が命より重いってぇんなら余計なことか。謝ってやるよ」
 そう言いながら盆のふちで何度か胸を小突いていると、子供はようやく盆を受け取った。と言っても、食べる意思の下受け取ったというより、小突かれるのを止めるために奪い取ったと言った方が正しいようだ。
 枯れ枝のように骨ばった手は盆を握ったまま、食器に手を伸ばす気配はなく、黒い目は相変わらず蘇芳へと向けられている。
 そこに浮かんでいる猜疑の色に、蘇芳はもう一度笑った。それから、盆の上から器と木の匙を取って粥を一口食べる。どろどろで半ば糊状になっている米は、優しい味と言えば聞こえが良いが、味気がなさ過ぎる。病人食として頼んだのだから当然ではあるのだが、蘇芳は素直に不味いなと思った。
「お前なんぞに毒を盛って何の意味があるのか気になるところだが、このアタシに毒見役をさせるなんて大層なご身分だな。満足したならさっさと食え、冷めるだろうが」
 とはいえがっつくと死ぬからがっつくなよ、と言いながら、蘇芳が食器を盆の上に戻す。それでもなお子供は躊躇っている様子だったが、少ししてから器と匙を手に取った。
 恐る恐るといった風に子供が粥を口にし始めたのを確認し、蘇芳も口直しの酒とつまみを口に運ぶ。
 暫くして、子供が盆に食器を置いた。器の中にはまだそれなりの量の粥が残っていたが、不味くて食べきれないわけではなく、縮んでいる胃では容量に限界があるのだろう。
 盆を卓の上に取り上げ、改めて子供と向き合った蘇芳が口火を切る。
「腹は膨れたな? それじゃあ話をするとしようか。まず現状を確認させてやる。お前が落ちてた。アタシはそれを拾った。汚かったから風呂に入れて、服も酷い有様だから替えて、飢えてるお前に餌をやった。何か質問は?」
「……」
「無いなら次だ。お前が落ちてた時の状況を鑑みると、どうせ帰る場所もなけりゃ行く宛てもないんだろう。というわけで、拾った以上お前の所在と生活の責任は、アタシが最低限持つ。気に入らないなら出てってもいいが、小汚くて非力な餓鬼を拾うような人の良い奴を探してるうちに、お前の限界が来るだろうな。それを理解した上で出て行けよ」
 すっぱりとそう言い切った蘇芳に、しかし子供はやはり黙ったままである。愛想のない餓鬼だな、と思いつつ、蘇芳は話を進めた。
「あとは……ああ、名前聞いてないな。アタシは蘇芳。で、お前ともう一人、中にいるあの餓鬼の名前は?」
 蘇芳がそう尋ねても、子供は相変わらず黙ったままだ。それを辛抱強く待ってやると、長く続く沈黙に耐え難くなったのだろうか、ようやく小さな口が開いた。
「…………何がしたい」
「あ?」
「何をねらってる」
 子供は取り繕うのをやめたのか、じろりと蘇芳を睨みつけた。その態度に蘇芳は感心する。この状況で、質問に答えるどころかこちらを問い詰めに掛かるときた。蘇芳と子供ではその力量差は圧倒的だと判っているだろうに、それでもなお食いついてくる気があるらしい。
「逆に訊くが、何を狙えって言うんだ? まさかそんなことするような価値がお前にあるとでも言うのか? 馬鹿馬鹿しい」
「何もなくて、きたない子どもをひろって、めんどうをみるって? なんにもたくらんでなくて? それこそ、ばかみたいな話だ」
 その言葉に、蘇芳は顔に浮かべていた笑みを消し、すっと目を細める。
「……アタシは寛大だから今のところ許してやるが、目上への口の利き方は気を付けろよ。そこら辺の躾もしないといけないみたいだな」
 やや低くなった声に、子供の肩が一瞬揺れた。やはり、どちらが上であるかの理解はできているようだ。
 それでも、子供は蘇芳を見据えることをやめはしなかった。色の違う二つの目が真っ直ぐに蘇芳を見つめている。
 しばしの睨み合いが続き、その均衡を破ったのは蘇芳の方だった。
「……ふっ、ははっ、ああ、やめだやめ。弱いもの虐めは好きじゃあないんだよ、アタシは」
「なに?」
「いっちょ前に歯向かってくる気概は認めてやるけど、もう少し相手は選んどきな。アタシは今ので怒り狂うほど気が短くないが、世の中そういうのばっかじゃあないんだ。早死にはごめんだろう?」
 にんまりと蘇芳が笑って見せれば、子供は不愉快そうな顔をしたものの、反論することはなかった。
「それで、魂胆見せろって話だったか? 魂胆も何もありゃしないが、お前を拾った理由は単に、この地酒が美味かったからだ」
「……は?」
「アタシは酒が好きだからなぁ。今日は良い酒を飲んで気分が良かった。面倒臭そうだったけど、まぁ美味い酒に免じて拾ってやっても良いかと思ったんだよ。この酒を造った杜氏に感謝しときな」
 卓上の酒瓶を指差し言うと、子供は呆気にとられたように間の抜けた顔をしたが、次いでその表情が怒りに染まっていく。どうやらからかわれたと認識したようだった。蘇芳としてはごく真面目に事実を言っただけなので、何が気に食わないのやら、甚だ心外である。
 正直、理由がそんなにも重要なものなのかというところから理解できない。理由はどうあれ、あとは朽ちるだけの命を幸運にも掬われたと、ただそれだけがそんなにも納得のいかないものなのだろうか。とにかく、やたら細かいことを気にする餓鬼だなぁ、と蘇芳は思った。
 また噛みついてきそうな様子の子供を手で制し、仕方ないなと片眉を上げる。
「そんなに酒を理由にするのが気に食わないんなら、じゃああれだ、料理とかも教えてやるから色々やれ。その代わりに衣食住やらを提供する。それでいいだろ、面倒臭い。それとも他に生きる道が現状のお前にあるのか? 無いだろ? だからこれでこの話はお仕舞いだ」
 本当に心底から面倒臭いという顔で話を終わらせれば、子供は何とも言えない表情をして、はぁと小さく息を吐いた。そして俯き目を閉じて黙っていたかと思うと、暫くしてから顔を上げ、小さな声でぼそりと呟いた。
「グレイ」
「あん?」
「オレは、あまがや、グレイ。さっきのはきょうや。他にあとまだいる。アレクサンドラと、じん、……ちよう」
「…………あー、取り敢えずお前がまとめ役ってぇことで良いか?」
 こくりと子供が頷いた。言わないまでも、存外面倒臭い感じだな、と蘇芳は思った。最初に見たのと今見ているのと、それ以外にもまだ三人、合計で五人もこの体の中に人格が共存しているらしい。
 それから子供は、まだ警戒が抜けきらないまでも、これから世話になるのならと“天ヶ谷ちよう”という存在について語り出した。各人格の存在理由と、死にかけで道端に転がるまでの経緯。親の虐待は想像していても、まさか母親を殺してきたとまでは思っていなかった蘇芳はそのくだりで流石に驚いたが、大人しく最後まで聞いていた。
「いちおう、表に出てるべきなのはきょうやだから、あとでオレは引っこんできょうやにかわる。アレクサンドラが、オレが聞いたことをいいようにすりこんでるから、さっきみたいにはこわがらないはずだ。まったくこわがらないのはムリだろうけど」
 そう言いつつじとりとした目を向けてきたのは、“きょうや”とかいう最初の子供を蘇芳が脅したのを思い返したからか。とはいえ蘇芳はするべきことをしただけだと思っているので、どんな目を向けられたところで悪びれるつもりは欠片もなかった。
「しかし、そんだけ“きょうや”が精神的に危ないんだったら、これはさっさとお前に言っておいた方が都合が良いか」
 言って、蘇芳は自らの右手を差し向けた。向けられた手の甲を見て訝しそうにする子供の前で、その日に焼けた肌がぞろりと鱗に覆われ、五指の爪が長く伸びる。
「見ての通り、アタシは人間じゃあない。普段の見た目だけならヒトとそう大差ないが、まぁ所謂化け物ってぇ奴だな」
 つい数瞬前とは違って蛇のようになった目を細めて、蘇芳はひらひらと手を振った。
 蘇芳はヒトならざるものの中では割合ヒトに似た感覚を持っているものの、根本的にヒトでない以上どうしても人間とは齟齬が生じるところがある。一緒に暮らしていくことになるからには、前提としてそれを認識していないと不便だろう。どちらにせよ驚くだろうが、後々からヒトではないことを知られて変に怯えられる方が面倒だ。
 そう考えてまとめ役の方へと開示したのだが、子供は人外の手に目を丸くしたものの、そう間もなく落ち着いて頷いた。
「わかってる」
 す、と小さい指が蘇芳の頭を指差した。その指先の指し示す辺りに本来ならば何があるのか、思い至った蘇芳はぱちりと異形の目を瞬かせる。
「ツノ、見える。それに、アンタの周りに見えるの、ふつうの人といろいろちがう」
「……見えてるのか」
「こっちの目だと、他のには見えてないのが見えたりする。アンタだと、ツノがふたつぼんやりしてるし、首のあたりとか、手のとこもざらざらしたのが見えてる。周りのは、ふつうの人にもいろいろあるけど、アンタのはとくにちがうかんじがする。いろとか、カタチ? とか。みんなだいたいもっとふわふわしてるけど、はっきりしてるし、いろもつよいし」
 周りの、というのは、もしかすると魂とか気とかそういう類のものだろうか。まあ根本の存在が違うのだから、自身のそういった諸々が人間のものと違っていてもおかしくはない。
 やはりこの子供は、先祖のどこかに視ることに長けた人外が混ざっているのだろう。最初に子供が過剰に怯えた理由は、気づいたら見知らぬ女がそこにいた、というだけではなかったのかもしれない。
 便利な目だ、と蘇芳は感心した。だが同時に、これはただの人には過ぎたものなのだろうと察しがつく。群れで生きる動物は、群れの中の異物を好まないものだ。見た目がこれで、さらにヒトが持ち合わせない力を持っているとなれば、歓迎はされるまい。
「……そろそろ、きょうやにかわる。あんまりずっとオレが出てるの、よくないから」
「そうか。……ああいや、ちょっと待て。その前に、あー……」
 きょろきょろと辺りを見回して、丁度良いものが酒瓶を包む風呂敷しかない。少し悩んだが致し方なしと、蘇芳は風呂敷を解いて端の方を少し幅広に裂いた。細長い布切れになったそれを子供へ放り、自身の右目を指差す。
「それで隠しておけ。“アレクサンドラ”とやらが記憶の辻褄合わせても、実際に自分で認識するとまた違うかもしれないしな」
「わかった」
 素直に頷いた子供は、濃い緑の布で右目を隠し、頭の後ろで適当に結んで固定した。簡単にずり落ちてこないのを確認して、そのまま子供が目を閉じる。
 次に子供が目を開けた時には、完全に纏う空気が先ほどまでとは別のものになっていた。陰気の強い、隅に追い詰められた小動物のような、世界の全てが自分を脅かすのだと言わんばかりの目の色をした、卑屈そうな子供だ。
 相変わらず怯えた様子ではあるものの、逃げ出そうとはしない。なるほど、確かに『いいように』してあるらしい。
「取り敢えず今日はここで一晩過ごして、明日はアタシの拠点に帰る。お前の布団は今座ってるそれだから、寝たい時に好きに寝るといい。つっても明日は結構歩くことになるからな。ある程度は休んでおけよ」
 子供の首が微かに縦に振られたのを見て、蘇芳はようやっと落ち着いたと息を吐く。当座の面倒ごとは多分過ぎたはずだ。あとはまぁ、どうとでもなるだろう。
 改めて座卓前の座布団を陣取り、上等な酒に舌鼓を打つ。おまけ的に変な拾い物をしてしまったが、この酒が飲めたのだから許容範囲だ。
 そうやって蘇芳が酒に集中していると、いつの間にか子供は布団から離れ、部屋の隅で丸くなって眠っていた。畳の上で膝を抱えるように丸まって寝ている体勢は、大層窮屈そうに見える。そもそも外は雪が降っているような有様なのだから、肉もへったくれもない子供には寒いだろう。
 布団はそれを使えといったにも関わらず、なんだってわざわざ部屋の隅で寝ているのやら。これもあまりまともではなかったらしい生活環境のせいだろうか。
 蘇芳は立ち上がり、子供を抱き上げると布団の中に押し込んだ。その温かさに安心でもしたのか、強張った身体が少しだけ解ける。割と雑に扱った割に目を覚まさなかったあたり、よほど疲れていたのだろう。
 眠りに落ちてもなお他人を窺うような小さな寝息に、蘇芳が目を細める。
「まあ、取り敢えず今は、夢も見ずに寝な」
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