【完結】かなしい蝶と煌炎の獅子 〜不幸体質少年が史上最高の王に守られる話〜

倉橋 玲

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最終章 伝説の最果てで蝶が舞う

囚われの少年

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 小さく呻いて少年は目覚めた。何度か瞬きをしてから、はっとして身を起こす。
 手をついたそこはやけに柔らかなベッドで、慣れない感触に彼は戸惑った。次いで右目の眼帯と首元を覆うストールとを確認してひと息吐き出した少年は、そこでようやく、自分が置かれた状況を思い出す。
 赤の王が倒れて、少年は攫われて、ここに連れてこられた。それが全てだ。
 あのとき、胸を穿たれた王の姿を見て半狂乱になった少年は、うるさいと顔を顰めたウロに何をされたのだったか。詳細は思い出せないが、直後に気を失ったのは確かだ。
 ベッドからは出ず、上半身を起こした状態で、少年は首を巡らせて部屋の様子を窺った。
 随分と広い寝室だ。天蓋付きのベッドは明らかに高価な品で、しかしリアンジュナイル大陸では見たこともないような装飾が施されている。高い天井は木彫りの見事な細工で覆われており、少なくとも一般庶民が使う部屋ではないだろうことが窺えた。
 更に視線を動かした先、開きっぱなしのカーテンの向こう側は真っ暗で、すでに日が沈んで暫く経っているのであろうことを知った少年は驚いた。
 一体自分は、どれくらい意識を失っていたのだろうか。ウロに捕らえられたのは昼前のことだったから、少なくとも半日近く、酷ければ数日が経過している可能性もある。
(…………違う。そんなことはどうでも良いんだ)
 きゅっと唇を噛んだ少年は、血の気の薄い顔を両手で覆った。
(あの、人は……、)
 あの何よりも美しい王は、無事なのだろうか。
 あんなにも力強い生命の輝きが消えるはずがないという思いを、しかし目に焼き付いている光景が強く否定しようとする。確かに彼は胸を深く穿たれ、地に倒れ伏した。あんな状態で、人は生きられるものなのだろうか。
(……伝えなきゃいけないこと、まだ、伝えてないのに。……僕はまだ、何も返せてないのに)
 たくさんのものを貰った。たくさんの罪を赦してくれた。たくさんのことを受け入れてくれた。そして、たったひとつ少年が欲しくて、ずっと手に入れられなかったものを、与えてくれた。
「…………あの人が死んじゃったら、どうしよう……」
 ぽつりと零れた言葉は静かな部屋の中ではやけに大きく聞こえ、自分で口にしたその音が含むあまりの重さに、少年は絶句した。
 ようやく与えられたものが消え去るかもしれないという恐怖は、何も得られなかったあの頃よりも遥かに深い絶望を少年にもたらした。
 だが、そこでふと彼は思い出す。
(…………死んだら困る、って、言ってた……)
 確かに、そう聞いた。こんなところで死なれては困るのだと、仮面の男はそう言っていた。ならば、王がまだ生きている可能性は高いのではないだろうか。
(……そうだ、きっとそうだ。あの人は、死んでなんかいない)
 そう思った少年は、幸いなことに自己の防衛に長けていた。僅かでも希望が見えたならば、無理矢理にでもそれを真実だと思い込むことができる。そうやってようやく少し落ち着きを取り戻した少年は、顔を覆っていた手をそっと外した。
 と、そのとき、不意に部屋の扉が開く音がして、彼は反射的にそちらの方に目を向けた。
「あ、ようやく起きた? ちょっと気絶して貰おうと思っただけだったんだけど、思いのほか良く寝てたねぇ」
 入ってきたのは、赤の王を穿ち少年を攫った仮面の男、ウロだった。
 思わず身を固くした少年に、しかしウロは気にした様子もなく、すたすたと歩み寄ってきた。そして、そのまま少年がいるベッドに腰掛ける。
「ベッドふかふかでしょ? ここ、僕の部屋なんだー」
 ぺちりとベッドを叩いたウロがそう言ったが、少年は言葉を返すことができず、ただ黙っている。
「あはは、ビビってるビビってる。哀れだなぁ」
 楽しそうな笑い声を上げたウロが、するりと少年の頬を撫でた。思いのほか優しい手つきだったが、酷く冷たい指先は、まるで蹂躙されているかのような不快感と恐怖を感じさせた。
 喉の奥で引っ掛かったような引き攣った悲鳴を上げた少年に、また笑い声を上げたウロが、その頬をぺちぺちと叩く。
「そんなに怖がんないでよ。僕はただちょっと、実験前のお話をしに来ただけ。だから今は何もしないよ」
「…………は、なし……」
 喉に張り付く澱みを無理やり剥がすようにして声を出せば、ウロは満足そうに頷いた。
「そう、お話。ほら、実験にも色々と手順ってものがあってさ。君を手に入れたから、はいじゃあすぐさまドラゴンを召喚しましょう、って訳にもいかないんだよ。あ、もしかして、あれからどれだけ時間が経ったかも判ってない? 安心して、今はまだ、君を攫ってきた日の夜って言っても良い時間だ。まあ、もう少ししたら次の日になるけど。だから、君が寝てたのは大体半日くらいだよ」
 ウロの言葉に、少年は内心で少しだけ安心する。無為に過ごした時間は、想定し得るうちの最低限で済んだようだ。しかし、だからと言って危険な状況であることに変わりはない。
 実験の準備。ドラゴンの召喚。
 少年はあまり賢い方ではないが、それでもこの二つが意味することくらいは判る。
(僕を使って実験をして、ドラゴンを召喚するつもりなんだ)
 少年に異次元から何かを喚ぶ力があるのかどうかは知らないが、この得体の知れない男の言葉は、気味が悪いほどに自信に満ち溢れている。
 あの赤の王を圧倒するほどの力の持ち主なのだから、ドラゴンの召喚も成し遂げてしまうのではないだろうかと少年は思った。
(…………それなら、僕がやるべきことは、ひとつだ)
 このままここに居れば、実験に利用され、竜種が召喚されてしまう。自分の存在が、この世界全てに災いをもたらしてしまう。そんな事態に耐えられるほど、少年の心は強くはない。
「…………話、って、何なんですか……?」
 ウロを見ているだけで襲う不快感は声すら奪うほどだったが、少年は無理矢理に言葉を吐き出した。そんな彼にウロは、ただの世間話だと笑って返した。
「半端とは言え、君は一応神の目エインストラだからね。それも、先祖返りの仕方がとても強烈な個体だ。純血の神の目エインストラと違って完全体ではないけれど、半端者の癖に限りなく完全体に近い。だから、一番世間話がしやすいんだ。君となら、天秤への影響がほとんどないからね」
「……意味が、判りません」
「うん。判らなくて良いんだよ。判られるよりは判られない方が影響はないし。ほら、僕って退屈なのも馬鹿の相手も苦手なんだけどさぁ、この国ってそういうのしかいないんだよ。神を殺して神になるとか、天地が引っ繰り返ったって無理なことを言い出す愚帝がトップなんだから、国全体が馬鹿でもおかしくはないんだけどね。とにかく、かれこれ十年もそんな環境にいたものだから、もう苦痛で苦痛で仕方なくて。だから、多少天秤を揺らがせることになっても、色々お喋りしたい気分なんだよねぇ」
 相変わらずウロの言葉は理解できないが、今の少年にとって彼と会話をすることは望ましい状況ではあった。もしかすると、会話の中にここから脱出するためのヒントがあるかもしれない。
「君はさ、赤の王様のことどう思ってる?」
 唐突に向けられた問いに内心で面食らった少年は、少しの間を置いたあと、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「……とても優秀な王様だと、思います」
「ああ、うん。そうだね。それはとても正しいと思うよ。彼は良王であることを自分の存在意義として定義しているから。自分が存在するためなら、どんなことだって完璧にこなしてみせるだろうさ。……でも、それは本質じゃあないなぁ」
 そう言ったウロが、堪えきれないといった風に喉の奥で笑った。
「僕は彼のこと、この世で最も醜い生き物のうちの一つだと思ってるんだ。まあ種としての性質上ある程度は仕方がないことなんだけど、それにしたってあまりにも酷い。多分だけど、魂と器がちぐはぐだから、ああいう風に変質したんじゃないかなぁ? 生への執着は性質だけど、存在への執着は完全にキメラの副作用だ。あ、キメラって判る? この世界にある言葉だっけ? まあいいや。ようはごちゃまぜってことね。元来の生への執着が起点にあって、その結果存在が希薄になったのが運の尽き。希薄になった分をどうにかしようとして躍起になった結果が、あのこの上なく優れた王様なんだよ。……だから、ロステアール・クレウ・グランダは本質的には良王なんかじゃない。良王のように見える振舞いの数々は全て、異質な生物が自分の存在と価値を担保するためだけに取った行動に過ぎないんだ」
 その言葉に、少年は思わず、違う、と声を出してしまった。はっとした彼はすぐに口を閉じたが、ウロが見逃す筈もない。
 仮面をしていても判るほどに楽しそうな素振りを見せたウロは、少年の顔にずいっと自分の顔を近づけた。
「違うときたかぁ! でも、何がどう違うの? 僕が言ってることはぜーんぶ事実だ。あの醜悪な生き物は、いつだって自分のためにしか動いたことがない。誰かのために何かをしたことなんて、ただの一度もないんだよ?」
 責めるような言葉たちに怯んだ少年だったが、一度俯きかけた彼は、しかしぐっと唇を噛んでから顔を上げた。
「た、たとえ、あの人の行動があの人のためのものだったとしても、それでも、国民にとって素晴らしい王だという事実は変わりません。それなら、あの人は、間違いなく優れた王です」
 震える声でそういった少年は、浅く息を吐き出した後、それに、と言葉を続けた。
「……あの人は、とても綺麗な人です。醜くなんか、ない」
 明らかな怯えの混じった表情で、しかしはっきりとそう言い切った少年に、ウロは暫くの間、時が止まったかのように身動きひとつ取らなかった。だが、短くはない沈黙の後、彼は仮面の内側で噴き出したような笑い声を上げた。
「あっははははは! 君、本当に馬鹿だねぇ! 綺麗!? あれが!? そりゃあ君の右目にあの魂はさぞ輝いて見えることだろうけど、だからといってそのものが綺麗だとは限らないじゃないか」
「み、見た目も、とても綺麗ですけど、あの人は、中身も全部含めて、あの人自身が、綺麗だと、思います」
 気圧されてもなお反論をやめない少年に、ウロは肩を震わせてひとしきり笑い倒したあと、こてりと首を傾げてみせた。
「うーん。君はさ、それとなーくやんわりと伝えるだけじゃ、発言の意図を汲み取れないのかなぁ? うん、きっとそうなんだね。頭悪そうだもん」
 馬鹿にしきった声でそう言ったウロが、すっと手を伸ばす。そして、そのしなやかな指先が少年の胸を軽く押した。
「判らないなら、はっきり教えてあげる。僕はね、君はあの王様にとっての一番ではないんだよって言いたいの」
 羽のように軽やかでいて、しかし鉛のように重い不思議な声が、少年の耳朶を舐めた。
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