【完結】かなしい蝶と煌炎の獅子 〜不幸体質少年が史上最高の王に守られる話〜

倉橋 玲

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最終章 伝説の最果てで蝶が舞う

悲しい蝶

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 ばしゃりと勢いよくかけられた冷たい水に、少年は意識を取り戻した。途端、酷い眩暈と吐き気が彼を襲う。
 愚鈍な頭では事態を飲み込むことができなくて、彼は反射的に身を起こそうとした。が、思うように身体に力が入らず、床に這いつくばり続けることしかできない。
 冷えきった水が広がる石造りの床は、一面に光輝く紋様が描かれている。少年にはその紋様の意味など判らなかったが、なんとなく、魔法陣のようなものなのではないかと思った。
 そのあたりで、彼はようやく自分が置かれている状況を思い出す。
 謁見の間のような場所で皇帝やウロと会話をしたあと、始めに目覚めたときにいた部屋と似た部屋に閉じ込められて、そして明け方頃、ここに連れて来られたのだ。
 城の構造はよく判らないが、この場所は吹き抜けになっており、周囲を高い壁が覆っているものの、真上には空が広がっている。きっと、天気の良い昼間ならばさぞ日当たりが良いことだろう。だが今は生憎の曇り空で、太陽の在処すら窺えない状況だ。
 自分が何故ここに連れてこられたのかは判らない。ただ、明け方から今に至るまで、少年は絶えずずっと暴行を受け続けていた。殴る蹴るを基本とし、ときに焼鏝を押し当てられたり、ときに水盆に頭を押さえ付けられたり。その内容は多岐に渡ったが、一貫していたのは、どれも致命傷にはなり得ない点だ。いや、致命傷どころか、身体機能の面で回復不可能なほどの怪我は、一切負わされていない。まるで何かを窺うように、慎重に痛め付けられているようだ、と少年は思った。
 ただし、だからと言って容赦されているのかというと、そうも考えられない。絶え間ない暴力に何度も意識を飛ばした少年は、その度に水を掛けるなり頬を張られるなりして叩き起こされた。そしてまた、生温い拷問のような時間が続くのだ。手加減はしているのかもしれないが、容赦してくれているわけではないだろう。
 ぼんやりとそんなことを考える少年の髪を、兵の一人が掴み上げた。そして、既に青紫に腫れ上がっている少年の頬を、剣の柄で殴り飛ばす。
「っ、」
 悲鳴は上げず、ただ息を詰まらせただけの少年に、兵が忌々しそうな舌打ちをする。少年はずっとこの調子で、悲鳴らしい悲鳴を漏らすことはなかった。それがどうにも、気に食わなかったのだろう。
 別に、少年が悲鳴を上げないのは、意地でもなんでもない。これくらいの暴力なら物心ついた頃からずっと受け続けていたせいで慣れている上、少年の泣き声を嫌う母のために悲鳴を押し殺すのが癖になっているから、反応をしない癖がついているだけだ。
 身体中がずきずきと痛むし、指一本動かしたくないくらいに酷く気怠い。けれど、この程度では人は死なない。少年は、その事実を身を以て知っている。だから、今優先すべきは、少しでも身体を休めることだ。暴力は止まないが、だからといって抵抗すれば、その分余計に体力を消耗する。この場合の最適解は、ただひたすらに耐えることなのだ。動かず、声も上げず、じっとする。そうすることが一番生存確率を上げるのだと、少年は学んできた。
 ときにそれが相手の神経を逆撫ですることもあるようだったが、ずっと続けていればいつか飽きがくる。いつだってそうやって、少年は理不尽な暴力を受け流してきた。
 だが、今回は少し事情が違うのだろう。今少年が受け続けている暴力は、恐らく、理不尽ではあるが無意味なものではない。だから少年の行いは、己の体力を温存する上では役には立っても、暴力の終わりを迎えるためのものにはならない。
 ともすれば絶望の底に叩き落とされそうな少年は、しかし首に巻いたストールの奥がふわりと熱を帯びる度に、励まされるようにして心を奮い立たせていた。
 やんわりと肌に届く、優しく撫でるような温もりは、あれからずっとストールの中に隠れているトカゲのものだ。彼は、少年が暴行を受ける度、自分がいるから恐れなくても良いのだとでも言うように、優しい熱を発して少年にそれを伝える。
 だが、ここに連れて来られる前も、ここに来てからも、トカゲは一切ストールの中から出てこようとはしなかった。温もりで存在の主張はするものの、今までのように、少年に危害を加えるものを排除しようとはしなかった。
 恐らく、したくてもできないのだ。いや、それは多分正確な表現ではない。正しくは、今はそのときではないから身動きが取れない、とでも言えば良いのだろうか。
 トカゲは強い。自分の想像など遥か越える強さを持っているのだと、少年は知っている。だが、それでもきっと、ウロを倒すことはできない。もしもトカゲがウロを倒せるのなら、逃亡の末に見つかったあのときに、既に実行していたはずだ。しかし、あのときトカゲはストールの中に隠れた。それは、トカゲでさえもウロには敵わないことを意味している。
 だから、きっと迂闊に姿を見せることができなくなったのだ。今ここにいる兵たちを倒し、この場からの逃亡を図ったところで、どうせ結局ウロに連れ戻されてしまう。それを避け、最も適したタイミングで少年を助けるために、トカゲは潜伏を続けているのだろう。
 根拠はないが、少年はそれを確信していた。
(だって、ティアくんはあの人に僕のことを頼まれてる。これが僕の頼みだったら、僕を見捨てて逃げることもあるのかもしれないけど、僕を守れっていうのはあの人の頼みだ。だから、ティアくんが僕を見捨てるなんてことは有り得ない)
 その確信があるからこそ、少年はまだ頑張れる。ずっとひとりだった少年は、ひとりぼっちでないことがこれほど心強いとは思わなかった。
 何度目になるか判らない蹴りをその身に受けながら、少年はただひたすらに耐えた。そうして、どれだけの時が経っただろうか。
 少しずつ変化する気温から判断するに、恐らく昼を随分過ぎた頃、さすがに朦朧とし始めた意識の端に、聞き覚えのある声が飛び込んできた。
「はーい、ご苦労様ー」
 ぱんぱんと手を打って近づいてきた声に、少年の背筋が凍る。同時に、ストールの中の温もりがびくりと小さく震えたのを感じた。
「あららー、後遺症とか残らない程度に適度にゆるーく痛めつけておいてって言ったけど、それにしても随分温い拷問だったんだねー。勢い余って足の一本くらい潰しても良かったのにー」
 まあそんなことしたら僕が君たちのこと殺してたけど、と、朗らかな声が兵士たちに語り掛ける。
 昨日今日で、嫌と言うほど聞かされてきた声だ。だからこそ、地面に伏した顔を上げてはいけないと、本能が叫ぶ。どうせそこに誰がいるかは判っているのだから、わざわざその絶望を目にする必要はないではないか。だというのに、か弱い少年の心は目を背け続けることを許さず、結局彼は、その顔を声の方へと向けてしまった。
「……ぁ、」
 小さな声が、青褪めた唇から漏れる。それはまったく悲鳴ではないのに、どんな叫びよりも悲痛な響きを持って零れ落ちた。
「こんにちは、エインストラ。喜ぶと良いよ、ここからは僕が君の相手だ」
 少年の視線の先、心底から楽しそうな声でそう言ったのは、仮面の男だった。
「ああ、そこまで警戒しないでよ。ちゃんと段階は踏むから。ほら、物事にはタイミングってものがあるでしょ? どうせなら、役者には最高の舞台で最高に輝いて貰いたいんだ」
 大げさに両手を広げてそう言ったウロに、少年は何も言わない。いや、言えない。
 その代わりに、ウロの後ろからやや苛立った声が投げ掛けられた。
「条件は揃っているのではなかったのか。だから私を呼んだのだろう」
 その声を聞いて、そこで初めてウロの後ろにいる人物に意識がいった少年は、声の持ち主の姿を認め、ますます絶望したような表情を浮かべる。
 本当は、目にしなくてもうすうす判っていた。この城で過ごした時間は短いが、ウロに対してこんな口の利き方ができるのは、恐らく一人しかいない。
 そう、帝国の頂点に立つ人物。皇帝である。
 皇帝がこの場に来たということは、恐らく準備が整ったのだ。何の準備かなんて、今更言われなくても判っている。どういう手順を踏み、自分がどういう目に合うのかまでは知らないが、以前デイガーが血がどうこう言っていたことを思うと、少年には悲惨な末路しか思い描けなかった。
「条件はまあ申し分ないと言えばないんだけど、もう少しだけ待ってよ。どうせ未来は決まっているんだから、それならできるだけ長く楽しみたいでしょ?」
「それはお前だけだろう。私は一刻も早く悲願を成就させたいのだ」
 鋭い刃物のような皇帝の言葉に、しかしウロは一切怯むことなく、笑って手を振った。
「まあそうピリピリしないでよ、皇帝陛下。心配しなくても、もうあとちょっとだと思うよ。取り敢えずは、四つの結果を確認してみよっか」
 そう言ったウロが、懐から掌サイズのガラス球を取り出して、その表面を覗き込む。
「……うん、青と緑はまあ、予想通りかな。赤の王様、ああ、今は元王様か。まあいいや。彼の覚醒があんなに早いと思わなくて赤に全振りしちゃった分、どうしても他は限界があったし。で、その赤と橙は……、ああ! 酷い! 折角僕が頑張って創ったタマちゃんが!」
 ガラス玉を見て叫んだウロが、心底残念そうな声で唸る。
「うう……、思った以上にあの微特殊個体、粘り強かったんだなぁ。と言うより、これは橙の功績かぁ。あんまり警戒してなかったけど、やっぱりリアンジュナイルの王様は総じて厄介だな。あわよくば信仰に溺れて潰れてくれるかと思ってたのに……」
 そこはつまらない結果に終わっちゃったなぁ、と溜息をついたウロが、つるりとガラス玉を撫でる。
「格下を抑え込めなかったって考えると残念な結果だけど、最終的にエアルスが出てきたんじゃ、タマちゃんに勝ち目はないや。複数属性付与するほどの天秤の余裕もなかったし、頑張った方かな。で、その後は……、うんうん、まあ死ななかったらそうなるよね。いやぁ、総力戦だなぁ。わくわくしちゃうね」
 そう言ってウロは皇帝を振り返ったが、皇帝は眉間の皺を深めただけで、彼に同意することはなかった。そんな皇帝に肩を竦めてから、ウロが床に伏したままの少年を見下ろす。
「さて、大体の状況は掴めた。いよいよこれから終盤って感じだ。それじゃあエインストラ、少し僕とお話をしようか」
 まるで全身に潜りこんで内部を這いずり回るような、酷く不愉快な声が、少年の耳朶を舐める。声自体は寧ろ耳心地良くすら感じるほどに爽やかで美しい音色なのに、一方でそれを覆すほどに、粘つく汚泥のような不快さを孕んでいて、そのちぐはぐさに吐き気がしそうだった。
「まずは、なんで君をこの場所に連れてきて、なんで暴力に晒し続けたか、なんだけど、前半はそれが絶対に必要だったからで、後半はその方が多少効果的になるかもしれないと思ったから」
 相変わらず、人を馬鹿にしたような要領を得ない言葉を並び立てる男だ。疲労と怪我とで痛む少年の頭では、尚更理解できるはずがない。
「床の模様は、僕が長い時間をかけて描き上げた魔導陣なんだ。実行するなら空が見える場所が良いと思ってたから、ここを選んだ。この魔導陣の役目は二つ。召喚と、使役。元々帝国が開発していた魔導システムに、僕が更に独自プログラムを組み込んで仕上げた代物だよ。これに関して、実は僕は一切の手抜きをしていない。天秤のバランスと今の僕の力とを考慮した上で、ここに至るまでに出来得る最高の魔導を用意した。……だから、ここからどれだけ上手にこの陣が働くのか、僕もとても興味深い」
 ウロの背後で、皇帝が苛立ったようにブーツを鳴らしたが、やはり彼は気にしないまま、未だ話を呑み込めずにいる少年に語り続ける。
「ひとつ、良いことを教えてあげよう。君がここの兵隊さんたちに虐められている間に、リアンジュナイルからこの帝都を落とすための精鋭部隊が送り込まれているんだ。そして、皇帝陛下に怒られることを覚悟で言うなら、正直戦況はとても芳しくない。勿論、帝国側にとってね。さっき確認した状況を見るに、もう暫く待っていたら、多分黄色の王様あたりが君を助けにここにやってくるだろう。今はまだ中央に帝国兵や魔物が多く残っているから単独行動ができないんだろうけど、彼が魔法を駆使して本気で走れば、ここまではあっという間だ。現在位置から見ても黄色の王様が一番ここに近いし、やっぱり彼が大本命だろうね。タイミングとしては、四大国の王様が全員中央部隊に合流したところで、ってとこかな」
 さすがに円卓の戦力をあそこまで集結させられると、打つ手がなくなってくるよねぇ、と言ってウロは笑った。
 話の内容自体は、帝国側のウロにとって笑えるようなものではないはずだ。少なくとも、少年はそう思った。だが、それでもウロは楽しそうな笑い声を上げている。まるで、今言った事態など大したことではないと言っているようだ。それとも、自分には関係ないとでも言いたいのだろうか。どちらにせよ、朗報を聞かされたはずの少年の心には不安しか残らなかった。
「じゃあ、次に悪いことを教えてあげる」
 少年の前にしゃがみこんだウロは、やわく撫でるような優しさで、自分を見上げる少年の頭に手を置いた。
「円卓の助けは間に合わない。何故なら、その前に僕が目的を達成するから」
 その言葉に少年が反応を返す前に、ウロの手が彼の頭を床へと叩きつけた。
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