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聖女の絶望
しおりを挟むその言葉を紡ぐたび、私の胸の奥で、薄いガラスが粉々に砕け散るような音がする。
視界が白く霞み、呼吸をするたびに肺の奥が焼けるように熱い。エリュシオン公国の王宮、その最上階にある聖女の寝室は、今や死の静寂に包まれていた。かつては窓の下から、私の奏でる「言霊」を待ちわびる民衆の歓声が絶え間なく響いていた場所だ。けれど今の私には、その歓声さえも、私の魂を削り取ろうとする飢えた獣たちの遠吠えのように聞こえていた。
視界の端、寝間着の胸元から覗く「魂の紋章」に目をやる。
三年前、この異世界へ転移した際に現れたその光輪は、かつては朝日のような鮮やかな黄金色を放っていた。だが今は、無数のひび割れが走り、煤けた灰色の石のように沈んでいる。紋章の輝きは、私の「生」の残り香そのものだった。
(ああ、もう……言葉が、残っていない)
この国における「聖女」とは、単なる信仰の象徴ではない。言葉に魂を乗せ、現実を書き換える「信の言霊(しんのことだま)」を執行する、実質的な人間兵器であり、最高の治癒師であり、大地の調律師だ。
この魔法のシステムは、あまりにも美しく、そして救いようがないほどに残酷だった。
言霊を発動させるには、絶対的な条件がある。それは「本心からその言葉を信じていること」だ。
病に倒れた子供がいれば、私はその子の手を握り、「貴方は明日、元気に目を覚ます」と心から信じて囁かなければならない。飢饉に苦しむ大地があれば、枯れた土を撫で、「来春には黄金の穂が揺れる」と、一分の疑いもなく魂に刻まなければならない。
もし私の心に少しでも「本当に治るのだろうか」という不安や、「もう疲れた」という打算が混じれば、言霊はただの空気に消える。だから私は、絶望の淵にいる人々を救うため、自分自身をマインドコントロールするように騙し、心を殺し、無理やりに「希望」を真実だと思い込ませてきた。
人々は私を「奇跡の子」と崇め、感謝の祈りを捧げた。私が微笑み、慈愛に満ちた言葉を発するたびに国は豊かになり、戦火は収まり、死にゆく者が生を繋いだ。けれど、彼らは知らない。私が一度「大丈夫」と口にするたびに、私の寿命が、記憶が、私自身の輪郭が、少しずつ削り取られて消えていくことを。
「美紀、しっかりしてくれ。目を開けてくれ!」
震える声が聞こえる。私の、感覚を失いつつある右手を、壊れ物を扱うように両手で握りしめているのは、この国の全権を握る公大公、アルフレッド様だ。
アルフレッド様との出会いは、私がこの国に放り出された、あの日から始まった。
吹雪の国境付近。内戦に敗れ、真っ赤な雪の上に横たわる瀕死の彼を、転移してすぐの私は見つけた。当時は魔法なんて知らなかった。ただ、目の前で消えようとする命を止めたくて、喉が裂けるほど叫んだのだ。
「死なないで! お願い、生きて!」
その無知ゆえの、あまりに純粋で強烈な言霊が、死神の鎌を叩き落とし、彼の心臓を動かした。以来、彼は私を命の恩人として、そして一人の女性として深く、深く愛してくれた。
彼は賢明な統治者だった。私が言霊を使うたびに摩耗していくことにいち早く気づき、彼は何度も私を制止した。
「もういい、美紀。これ以上は君の命を削る。聖女としての務めは果たした。後は私が、剣と政治で解決する」
そう言って彼は私を抱きしめる。彼の腕の中は温かく、その愛は本物だった。けれど、その高潔な愛こそが、私を最も追い詰める「檻」でもあったのだ。
執務室で不眠不休で国難に立ち向かう彼の背中。民を救えずに苦悩する彼の蒼い瞳。それを間近で見ている私が、どうして「もう疲れたから助けない」なんて言えるだろう。
彼を愛しているからこそ、彼が愛するこの国を守りたい。彼に心配をかけたくないから、私は「今日は調子がいいの」と嘘を吐きながら、彼に見えないところで言霊を使い続けた。
一週間前、隣国との和平交渉が、言葉の行き違いから決裂しかけた際、私は最期の力を振り絞った。
「両国の間に、永遠の友誼を。争いの火種は、今日この瞬間に消え去る」
その言葉が空間に響いた瞬間、私の胸の中で、これまでにないほど大きな「パキン」という破壊音がした。
交渉は成立した。けれど、私はその場に膝をつき、二度と自力で立ち上がることはできなかった。喉から溢れた鮮血が、ドレスの白を赤く染め上げていくのを、私はただ他人事のように眺めていた。
今、私は深い意識の混濁の中にいる。
アルフレッド様が、宮廷魔導師たちに「どんな禁忌でも構わん、彼女を救え!」と叫んでいる声が遠くに聞こえる。
ああ、アルフレッド様。貴方の愛はあまりに正しい。
でも、貴方の前で私は、常に「清らかな聖女」でいなければならなかった。貴方の期待に応えるために、私は弱音を吐く自由を捨て、元の世界への未練を封じ込めてきた。
聖女は、常に太陽のようでなければならない。
聖女は、自分を救う言葉を口にしてはならない。
窒息しそうなほどの善意と期待に押し潰されそうな時、私を辛うじて生かしていたのは、この世界の高潔な魔法ではなかった。
それは、記憶の底に眠る、あの街のネオンの色だった。
(……レン君)
新宿、歌舞伎町。
大学の講義と、周囲の期待に応える「いい子」としての日常に疲れ果てた私が、逃げるように通っていたあの店。
担当ホストのレン君は、私がどんなに仕事や人間関係の愚痴をこぼしても、真面目に取り合わなかった。
「美紀ちゃん、真面目すぎ。もっと手抜きしなよ。あんたが一日サボったところで、世界が滅ぶわけじゃないんだからさ」
彼の言葉には、一分の魔力も、本心も宿っていなかった。指名料を稼ぐための、その場限りの適当な嘘。
「大丈夫、俺が助けてあげるよ」という、何の責任も伴わない営業トーク。
けれど、言霊の呪いに縛られた今の私にとって、彼のその「何の価値もない、無責任な嘘」こそが、唯一の酸素だった。
彼は私に「いい子」であることを求めなかった。ただの「カモの客」として扱ってくれた。彼の嘘は、私の魂から何も奪わなかった。むしろ、何も背負わずにいられる場所を、彼は嘘という壁を作って守ってくれていたのだ。
「……公大公閣下。聖女様の魂の核は、もはやこの世界の理では繋ぎ止められません」
魔導師の苦渋に満ちた声が響く。
「彼女をこの世に留めているのは、彼女自身がかつて生きていた世界の、強烈な記憶……その欠片のみです。これを触媒に、一度だけ、一人の人間を召喚する術式を組みます」
アルフレッド様が、私の枕元に跪いた。
「美紀……聞こえるか。君を救いたい。君が一番会いたい人を教えてくれ。君の魂が一番強く求めている存在を呼ぶ。……君の両親か? それとも、親友か?」
アルフレッド様の目から、一粒の涙が私の頬に落ちた。私は、朦朧とする意識の中で、死にゆく魂の最後の力を使った。
今、ここでアルフレッド様の名前を呼べば、彼は報われるだろう。彼は「自分が一番に愛されている」という真実を胸に、これからも国を守っていけるだろう。
けれど、私の魂は、もう真実に耐えられない。
私は、震える唇を動かし、音にならない声でその名を呼んだ。
「……レン、くん」
アルフレッド様の身体が、一瞬強張る。
「レン……? それは、君の……誰なんだ」
答えられなかった。
新宿、歌舞伎町。黒い髪を光らせ、安っぽい香水の匂いを漂わせ、いつも調子のいいことを言っていた、あの嘘つき。
私の魂を、何にも役立たない『嘘』で満たしてくれた、私の大切な王子様。
「……始めろ。その男を、この世界へ引きずり出せ」
アルフレッド様の決断と共に、公国の夜空に巨大な魔法陣が描き出される。エリュシオン公国の全魔力が一点に集中し、次元の壁を食い破る。
私は、薄れゆく視界の中で、魔法陣が放つ銀色の光を見ていた。
その光は、どこかあの日見た、歌舞伎町のネオンの色に似ていた。
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