悪魔に捧げる鎮魂歌 -Black Cross-

紫月音湖(旧HN/月音)

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第1部

暗色讃美・Ⅰ

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 嗚呼。神よ、どうか私を許して下さい。
 罪深きこの魂を、貴方の手で罰して下さい。



 深い、深い夢の淵でゆっくり目覚めるその瞬間、鋭い断末魔の悲鳴を聞いたような気がする。

「……っ!」

 声にならない叫びを上げて勢いよく飛び起きたその反動で、夢に体力を奪われていた体ががくんと前に倒れ込む。ベッドの上に手をつき辛うじて体を支えたものの、指先はシーツすら掴めないほどがたがたに震えていた。

 部屋中に木霊する荒い呼吸。それに重なる大きな鼓動。額に汗でべったりと張り付いた前髪を掻き上げて、彼はそのまま両手で顔を覆い隠した。

 ぬるり、と手が滑った。
 次に鼻を突く鉄の異臭。

「……はっ」

 慌てて離した彼の両手は、まだ熱を持つ生ぬるい鮮血に濡れていた。それは彼の掌だけでなく全身を赤で汚し、ベッドのシーツにまで侵食している。愕然と見開いた瞳に血塗られた自分の姿を映し出して、彼が悲しみの声をかすかに漏らした。

「……また、だ。また僕は、血に汚れてしまった」

 絶望の色を含んだ声で呟いて、彼は鮮血にまみれた両手で頭を強く抱え込んだ。柔らかな金色の髪が、彼の犯した罪の色に染め上げられていった。



  †     †     †     †



 青く澄み渡った空に、真っ白な雲が泳いでいる。悪戯な風は肌に心地良く、彼女の眩しい金髪を大げさに揺らしていた。
 久しぶりの快晴。しかし、彼女の心はそれとは反対にひどく苛立ち乱れていた。

 行き交う人の目を奪う美しい容姿にも関わらず、淑女にしては不似合いな剣を持つレベッカは自警団の一員である。誰とでもすぐに打ち解けてしまう彼女は町の住民たちからも好かれてはいたが、今日のレベッカに声をかける者は誰ひとりとしていない。
 今日のレベッカは、誰が見ても分かるほど不機嫌に眉を寄せていた。

「ああ、もうっ!」

 押えきれない怒りを声にして、レベッカが大きな溜息を零した。


 事の起こりは数時間前。緊急に開かれた自警団の会合での出来事に遡る。
 比較的平和なこの町エレンシアで、最近になって不気味な事件が連続的に起こっていた。猟奇的殺人にほど遠いこの町はあっという間に恐怖に脅かされ、住人たちは姿の見えない殺人鬼に怯える毎日を過ごしている。

 その事件は、考えられないほど残酷で狂気に満ちたものだった。
 被害者は共通して若い女性。乱暴に犯された後、腹部を切り裂かれ内臓をすべて奪われるという手口もまったく同じだった為、同一犯の連続殺人とされた。
 被害に遭い、命を落した女性は三人。その三人目の犠牲者は四日前、人気の無い路地裏の片隅で発見された。

 一刻も早く殺人鬼を捕まえ、エレンシアに平和を取り戻したい。自警団の願いはひとつに纏まっていた。それなのに、レベッカだけが今回の事件から外されたのだ。

 レベッカは自警団にただひとり存在する女性である。女にしては剣の扱いが驚くほど上手いレベッカだったが、今回の事件は女性が標的となっているのだ。自警団が女であるレベッカを外すのは当然の決断である。レベッカにもそれはわかっていた。

 彼女が腹を立てているのはそんなことではなく、自分の背後にあるクロフォード家の令嬢という肩書きだった。
 自警団の配慮もわかる。しがない地方の一貴族に権力などないにも等しいが、実際レベッカの身に何かが起こればそれは自警団の責任になるのだ。

 手の届く範囲でもいい。町の皆を守りたいと願うレベッカだったが、実際は貴族の令嬢という盾に守られた安全な場所にいることを実感してしまった。そんな自分に嫌気がさし、レベッカはもう一度大きく溜息をついた。

「結局、私は何ひとつ出来ないんだわ」

 町の平和を守りたい。剣を振るうことで誰かの役に立てるのなら、少々の危険など恐れはしない。しかし勝手な行動をして勝手に怪我をしたとしても、その責任はレベッカではなく自警団に降りかかるのだ。

「私、自警団にとって邪魔でしかないのかも」

 呟いた言葉を認めたくなくて、レベッカは唇をきゅっと噛み締めた。



  †     †     †     †



「どうしたんですか。今日は溜息ばかりですね」

 今さっき買ってきたばかりだという紅茶の缶を開けながら、神父が心配そうにレベッカの顔を覗き込んだ。

「うん、ちょっとだけ気が滅入ってた。……けど、もう大丈夫」

「そうですか?」

「神父様の顔見たら、落ち着いたみたい。ありがとう」

 ふわりと微笑んだレベッカに、神父が照れたように顔を伏せた。
 自分の魅力に気付かない女性は、男にとって毒である。その何気ない微笑みだけで心を奪い、たった一言だけで男たちに期待を抱かせてしまう。今のレベッカは、まさにそれだ。

 エレンシアに住む者なら、レベッカのことは誰でも知っている。守られるだけの弱い女ではなく、そのか細い手に剣を持ち、男顔負けの剣技を振るう可憐な美女。そんな彼女が時折見せる女性特有の柔らかい微笑みに、心を奪われている男は少なくない。

 それを、レベッカはまったく自覚していないのだ。それどころか剣を振るう女に寄って来る男なんていないと未だに信じているから、男たちにとってはなお始末が悪い。仮に言い寄った男がいたとしても、レベッカは冗談だと思い簡単にあしらってしまうだろう。現実に神父はその光景を何度か目にした事がある。

 その時のレベッカの対応に、ほっとしたのは言うまでもない。
 神父にとってレベッカは、光。光は誰のものにもなりはしない、なってはいけない。


 ……自分の中の黒い感情に気付いたのは、この頃からだった。


「神父様?」

 小さな声にはっと顔を上げた神父の前で、レベッカが不安げな顔を彼に向けながら軽く首を傾げていた。

「どうかしたの?」

「ああ。……ちょっと考え事をしてました」

 慌てて取り繕った笑顔に、微かな翳りが見え隠れしていた。それを敏感に感じて、レベッカが椅子から立ち上がる。

「レベッカ?」

「いつも私の愚痴ばっかり聞いてるから、神父様疲れちゃったんでしょ」

 そう言いながら、レベッカが神父の手から紅茶の缶を奪い取った。

「今日は私がやるわ。特別においしい紅茶を淹れるから、神父様はそこで待ってて」

 押しかけて来たのは自分だと言うのにレベッカはそれすらも忘れて、楽しそうに鼻歌を歌いながらお湯を沸かしにキッチンへと向かう。その後ろ姿を眺めながら、神父がはにかむような、それでいてどこか悲しげな微笑みを浮かべて静かに瞳を閉じた。
 瞼の裏に焼き付いた、レベッカの眩しすぎる微笑み。手を伸ばすと消える、触れることの出来ない幻影。
 神父が願って止まなかった……それ。

「本当は……レベッカ、貴女に見惚れていたのですよ」

「え? 何か言った?」

「いえ、何でもありません」

 振り返ったレベッカの瞳に、いつもよりも透明な神父の微笑みが映る。それは今にも消えそうな光の残骸。瞬きする一瞬のうちに消滅する、儚い幻影のようだった。




「随分遅くなりましたね」

 六時を告げた時計を見ながら、神父がゆっくりと席を立った。窓の外は薄暗い夕闇に包まれている。

「もう帰った方がいいですね、レベッカ。家族の方が心配します」

「うん、そうね。神父様と話すと落ち着くから、ついつい長居しちゃうのよね。毎回長居してごめんなさい」

「いいんですよ。私も楽しんでますから。……家まで送りましょう。最近はここも物騒ですからね」

 その言葉が意味するものを思い出して表情を硬くしたレベッカの視界から、ふっと灯りが消え失せる。教会の灯りをすべて消し終えた神父が、レベッカに向かってその綺麗な手を差し出した。

「足元に気をつけて下さいね」

 差し出された手に自分の手を静かに重ねて、レベッカが嬉しそうにふわりと微笑んだ。

「神父様と手を繋ぐの、はじめて。何だか緊張しちゃう」

 その言葉に、胸がどくんと跳ね上がる。押し殺した呼吸と強張った表情は暗がりに溶け、レベッカの目に映ることはなかった。



 他愛ない話をしながら夜道を歩く二人の姿は、恋人同士に見えなくもなかった。屈託のない笑顔を浮かべるレベッカと、彼女を守るように見つめる優しい瞳。しかし、二人をそんな目で見る者はただのひとりもいない。
 そして、神父もそれを痛いほどよく理解していた。



 クロフォード家の力を示すような大きな屋敷。この屋敷を見るたびに、神父の心に隔たりが出来ていく。レベッカはクロフォード家の令嬢なのだと、当たり前の現実を再確認させられる。
 心がいつもにまして激しく軋む音を、聞いた。

「送ってくれてありがとう。神父様も気をつけてね」

 別れ際に手を振りながらそう言ったレベッカに振り返って、神父が少し戸惑いながら苦笑した。

「私は大丈夫ですよ。それでは、おやすみなさい。レベッカ」

「おやすみなさい」

 弱々しい街灯の灯りに、ぼうっと照らし出された神父の後ろ姿。不安定にゆらゆらと揺れる神父の黒い影は、やがて夜の闇に滲むように消えていく。
 いつもとは少しだけ様子のおかしかった神父に何か釈然としないものを感じ、レベッカは不安げな瞳を闇に向けたまま神父の後ろ姿を見送っていた。

「神父様。今日はちょっと、変だったわ……」

 ぽつりと呟いた声は闇に吸い込まれて消え、同時に遠くでかすかに揺れていた神父の影も完全にレベッカの視界から姿を消した。
 儚い微笑みと、悲しみを帯びた低い声。それは明らかにいつもの神父と違っていた。自分の大切な友人が何かに思い悩んでいるかもしれないと、レベッカの心がざわざわと騒ぎ立て始める。

「明日、もう一度教会へ行ってみよう」

 胸の不安を打ち消すように言って、レベッカがくるりと踵を返し屋敷の中へと入っていった。
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