年上彼女と危険なバイト

月下花音

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第5話:データに残らない気持ち

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火曜日の夕方、俺は階段を上っていた。胸が、重い。

時給1200円のバイト、5回目。あの高槻の顔が、頭から離れねえ。こころさんの涙も。

あれ以来、LINEで「大丈夫?」って送ったけど、返事は「実験楽しみにしてて」で終わった。演技か、本気か。境界が、ますます曖昧だ。

この一週間、俺は心理学の本を読み漁った。図書館で借りた「恋愛心理学入門」「感情の測定方法」「研究倫理ガイドライン」。難しい内容だったが、こころさんの研究を理解したくて必死に勉強した。

特に印象に残ったのは、「感情の客観的測定の限界」という章だった。心拍数や皮膚抵抗で感情の強さは測れても、その質や意味は数値では表現できない。愛情と興奮、不安と期待、それらは同じような生理反応を示すことがある。

つまり、データだけでは本当の気持ちは分からない。

空を見上げると、雲が厚い。雨が降りそうだ。



ドアをノック。声が、少し弱々しい。

「どうぞ」

中に入ると、こころさんは白衣姿で窓辺に立っていた。夕陽が、彼女の横顔を赤く染める。眼鏡を外してて、瞳が少し腫れてる?いや、気のせいか。

部屋の空気は、いつもより湿ってる。雨の匂い?

机の上には、いつもの測定機器に加えて、見慣れない書類が散らばっている。「研究継続審査結果」「実験プロトコル変更申請」といった文字が見える。

「ゆうや、来てくれて……ありがとう。今日は、休憩多めのテストにしましょう。会話中心で、心拍だけ測るわ」

彼女の声が、かすれる。座る椅子を引く手が、震えてる。

俺は隣に腰を下ろし、距離を縮めた。30センチ。センサーを貼る指が、冷たい。

「こころ、どうした?前回の続き?高槻のせいか?顔色、悪いよ」

恋人モードで、ストレートに聞いた。彼女は小さく首を振り、モニターを起動した。ピッと鳴る音が、虚しい。

「ええ、少しね。でも、気にしないで。じゃあ、始めよっか。ゆうやの話、聞かせて。……幸せなこと、とか」

幸せなこと?テストのテーマか?

俺は彼女の瞳を見た。潤んでる。無理してる。

「その前に、俺からも質問があるんだ」

俺は借りてきた本を取り出した。

「この一週間、心理学の勉強してたんだ。こころの研究を理解したくて」

彼女の目が、わずかに見開く。

「あなたが?どうして?」

「共同研究者になるって言ったろ?だから、基礎から学んでる。で、分からないことがあるんだ」

俺は本のページを開いた。

「感情の測定について。心拍数や皮膚抵抗で感情の強さは分かるけど、その質は分からないって書いてある。愛情と興奮、不安と期待、同じような数値になることがあるって」

こころさんは驚いたような表情を見せた。

「よく勉強してるのね。その通りよ。生理的指標だけでは、感情の内容は特定できない。だから、行動観察や内省報告と組み合わせる必要がある」

「つまり、データだけじゃ本当の気持ちは分からない?」

「そう。だから研究は難しいの。特に恋愛感情は複雑で……」

彼女の声が、小さくなる。

「俺?まあ、最近は……このバイトかな。時給いいし、こころに会えるし。嘘じゃねえよ」

本気で言った。センサーがピッと反応。心拍、90。彼女は微笑んだ。でも、すぐに視線を落とす。指が、膝の上で絡まる。

「ふふ、ありがとう。私もよ、ゆうやに会えるの、楽しみ。でも……データに残らない気持ちって、あるよね」

データに残らない?彼女の声が、低くなる。部屋に、沈黙。夕陽が沈み、影が伸びる。

「こころ、何かあった?話せよ。俺、恋人役だろ?聞くよ」

手を伸ばし、彼女の指に触れた。温かくない。冷たい。彼女はびくっと震え、でも離さない。

涙が、ぽろりと落ちた。白衣の袖に、染みる。

「ごめん、ゆうや。……私、弱いところ、見せたくなかったのに。あなたに、こんな姿」

涙?俺の胸が、締め付けられる。センサーがピーッと警告。心拍、110。

彼女は息を吐き、ぽつぽつと話し始めた。声が、震える。

「前回の、高槻さん。あの人と、付き合ってたの。心理学の同僚で、私の研究を手伝ってくれて……最初は、完璧だった。恋愛感情の生理反応を、一緒に実験してたのよ。私が被験者で、彼が観察者。心拍測ったり、手繋いだり、キスしたり……データ、綺麗に取れてた」

実験で恋?元カレが、対象?頭が、ぐらつく。嫉妬が、またチクッと刺す。でも、今はそれどころじゃねえ。

「それが、どうして失敗に?」

俺が聞くと、彼女は眼鏡をかけ直し、涙を拭った。指が、震える。

「彼は、最初から本気じゃなかったの。『お前の感情、面白いデータだな』って。キスしても、視線合わせても、私の心拍だけ上がって……彼のは、平坦。最後、論文の共同執筆で揉めて、別れた。『お前みたいな感情厨、研究に向かねえ』って言われて。……私、恋をデータにしちゃったの。失敗した、恋愛実験」

失敗した恋。こころさんの瞳が、曇る。夕陽が、涙をキラキラ光らせる。

胸が、痛い。彼女の脆さ、初めて見た。研究者じゃなく、ただの女の子。

「でも、それだけじゃないの」

彼女は続けた。

「研究倫理委員会から警告を受けたの。高槻さんが告発したのよ。『水無瀬は被験者と不適切な関係を持っている』って」

「不適切な関係?」

「あなたとのこと。実験者と被験者が感情的に関わることは、研究の客観性を損なうって。最悪の場合、研究停止になるかもしれない」

俺は彼女の言葉を聞いて、愕然とした。俺たちの関係が、彼女の研究を危険にさらしている?

「それって、俺のせいか?俺が感情的になりすぎたから?」

「違うわ!」

こころさんは強く首を振った。

「私も同じよ。あなたに対して、研究者として保つべき距離を越えてしまった。でも、それは……」

「それは?」

「本物の感情だから。データじゃない、生の気持ちだから」

「バカ野郎だな、あいつ。こころの気持ち、データじゃねえよ。本物だろ。俺、知ってる。あの震え、手の温もり……全部、本気だって」

俺は彼女を抱き寄せた。白衣の感触が、柔らかい。彼女の肩が、震える。嗚咽が、漏れる。

「ゆうや……ありがとう。あなたは、違うの。私を、データじゃなく見てくれる。心拍、測らなくても、伝わるわ。この気持ち」

彼女の顔を上げ、目が合う。潤んだ瞳に、俺の姿が映る。距離、10センチ。唇が、震える。

「こころ、俺も同じだ。最初は時給1200円のバイトだった。でも、今は違う。お前に会いたくて、お前を守りたくて、お前と一緒にいたくて……これ、データで説明できるか?」

彼女は小さく笑った。涙の中に、初めて本当の笑顔が見えた。

「できないわね。愛情は、数値化できない」

キス?いや、今は。

センサーが、乱れまくる。心拍、140。モニターに、波形が暴れる。データに残らない、ってこれか。

「こころ、泣くなよ。俺が、守るから。高槻なんか、忘れろ。俺たちの実験、続けようぜ。本物の、恋で」

彼女は頷き、俺の胸に顔を埋めた。香りが、包む。甘くて、切ない。

部屋に、雨音が混じる。外、降り始めた。

「でも、問題があるの」

こころさんは俺から少し離れた。

「研究を続けるには、新しいアプローチが必要。従来の実験者・被験者の関係じゃなく、対等なパートナーとして」

「どういうこと?」

「あなたを正式な共同研究者として登録する。そうすれば、倫理的な問題はクリアできる。でも、それには条件がある」

彼女は机の上の書類を見せた。

「心理学の基礎単位を取得して、研究方法論を学んでもらう。大変よ?」

俺は彼女の提案を聞いて、胸が熱くなった。

「やる。こころと一緒なら、何でも」

「本当に?経済学部なのに、心理学も学ぶの?」

「ああ。お前の研究を理解したいし、お前を支えたい。それに……」

俺は彼女の手を握った。

「俺たちの関係も、ちゃんと研究したい。本物の恋愛がどういうものか、科学的に証明してやる」



「今日は、テスト中止。データ、いらないわ。ゆうやと、ただ話せてよかった」

彼女はメモ帳を閉じ、俺を送り出す。廊下で、強く抱きついてきた。涙の跡が、頰に残る。

「来週も、来てね。……心の、続きを」

「ああ、絶対に」

階段を下りながら、雨に打たれた。胸が、熱い。こころの過去、知った。脆い心、守りたい。

バイトじゃ、ねえ。本気の恋だ。

帰り道、大学の学務課に寄った。心理学部の聴講生申請書をもらうためだ。来学期から、正式に心理学を学ぶ。

家に帰って、濡れた服を脱いだ。鏡に映る俺の目、強い。

机の上に、心理学の本を並べた。これから本格的な勉強が始まる。でも、苦じゃない。こころのため、俺たちのためだ。

スマホに、こころさんからメールが届いた。

『今日はありがとうございました。あなたの言葉に救われました。来週から、新しい研究が始まります。一緒に、本物の愛を証明しましょう。- こころ』

本物の愛を証明する。科学的に、データで。

でも、一番大切なのは、データに残らない気持ち。それが、恋だろ。
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