年上彼女と危険なバイト

月下花音

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第9話:0cmの距離、測定不能

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火曜日の夕方。階段を上るたび、胸の奥で小さな爆発が起きていた。心臓の鼓動が、体の中心を熱く貫く。

再契約、二回目。センサーのない実験の日。彼女の唇までの距離、5cm。その記憶だけで、夜ごと眠れない。講義中もノートに数字ではなく「こころ」という文字を書いてしまう。田中に見つかって、「お前、恋してるな」と笑われた。否定しようとして、口が動かなかった。

昨日読んだ心理学書の一節が、頭を離れない。視線 → 手 → 抱擁 → 接吻 → それ以上。俺たちは確かにその階段を登っている。でも――どこまでが実験で、どこからが恋なのか。その境界線は、とうに溶けていた。

今日は測定器なしの日。データではなく、感覚だけが頼り。それがどれほど危険で甘美なことか、俺の体は既に知っている。

ノックの音がやけに大きく響いた。ドアの向こうから返る声が、喉の奥をくすぐる。

「どうぞ、ゆうや」

入った瞬間、空気が変わる。白衣。外した眼鏡。乱れた髪。夕陽がカーテンを透かして、部屋を桃色に染める。

机の上にはセンサーが並んでいる。けれど今日、それは使わない。代わりに、瞳が俺を測定していた。

「今日の実験は、距離ゼロ。測定不能の心理効果よ」

測定不能――その言葉で、喉が鳴る。彼女の声が耳の奥で響く。低く、湿って、甘い。

俺は椅子を無視して、ゆっくりと近づいた。10センチ。8センチ。6センチ。白衣の隙間から覗くブラウス。鎖骨の白いライン。香りが鼻腔を満たし、思考を溶かしていく。

「その前に、少し話をしましょう」

こころさんは俺を見つめた。

「今日の実験は、従来の心理学研究では測定できない領域に入る。感情の質的変化、愛情の深化プロセス、そして……」

「そして?」

「身体的親密度が心理的結合に与える影響。これまでのデータでは捉えきれない、微細な感情の変化を観察したいの」

「こころ、俺、もう止まらないかも」声が震える。「再契約してから、ずっと君のことしか考えてねえ」

彼女は唇を噛み、指先を胸元で組む。「私もよ。理性で抑えようとしても、あなたを見ると全部崩れるの」

距離が、ゆっくりと縮まる。10cm。8。6。5。息が、交わる。

「でもね、ゆうや。今日の記録はデータじゃなくて、感覚。あなたの心がどう動くか、全部覚えておいて」

俺は頷いた。実験でも研究でもない。これは、心の解剖だった。

彼女の指先が、俺の手首に触れる。脈拍を確かめるように。その瞬間、電流のような何かが走り抜ける。彼女も同じものを感じたのか、わずかに身を震わせた。

腰を抱いた。白衣の布地が、指先で音を立てて滑る。胸と胸が重なる瞬間、世界の音が消えた。

体温が、混ざる。呼吸の速さが、ほとんど同じになる。

「ゆうや……近い。もう、息ができない」彼女の声が、熱に溶ける。

「それでも離れたくない。君の体温、測りたい」

その言葉の直後、俺の手が彼女の背中をなぞった。薄い生地の下で、筋肉がわずかに反応する。彼女の爪が俺の肩に食い込む。甘い痛み。

「背中……そこ、だめ。ぞわぞわするの」

彼女の声がかすれる。唇が近づく。1cm。ピンクの唇が、微かに震えている。夕陽が彼女の肌を照らし、首筋に汗の粒が光る。

俺の理性が、完全に溶けた。

「測定不能、だろ?こころ、キス……していいか?」

息で囁く。彼女の瞳が閉じる。睫毛が微かに震える。小さな頷き。

「ええ……ゆうや。0cmの距離で、感情を爆発させて」

唇が、重なった。

柔らかい。甘い。だけど、焦げそうなほど熱い。

彼女の唇は、少し震えていた。舌先がかすかに触れると、彼女の体がわずかに跳ねる。互いの呼吸が、相手の口の中で混ざる。

時間が歪んだ。もう、何分経ったかわからない。

彼女の指が俺の髪を掴む。俺の手が、彼女の背中をなぞる。薄い生地の下で、筋肉が微かに反応する。

二人の間にあった"距離"という概念が、完全に消えた。

「ん……ゆうや」彼女の声が唇の合間に漏れる。「データじゃない……これ、恋よ」

キスが深くなる。舌が絡み合い、甘い音が部屋に響く。恥ずかしいのに、止められない。

この瞬間、俺は確信した。これは実験を完全に超えている。純粋な愛情の、生の表現だった。

唇を離した瞬間、彼女の瞳が潤んでいた。頰は真っ赤で、肩が小刻みに震えている。

「ゆうや……初めてなの、こんなに息が苦しいの」

俺は答えられなかった。代わりに、彼女の指先を握る。手のひらから、鼓動が伝わる。それだけで、胸が痛くなる。

「感情の波、今ここにあるのね」彼女は微笑む。「データには残せないけど、心には刻まれたわ」

俺の手が、彼女の背中をゆっくりとなぞる。薄い生地の下で、彼女の体温を感じる。彼女の息が、わずかに乱れる。

「ゆうや……そこ、敏感なの」

彼女の声が震える。俺の指先が、彼女の背骨のラインを辿る。細くて、しなやか。彼女の体が、わずかに弓なりになる。

「こころ……君の体、正直だな」

「あなたもよ」彼女の手が、俺の胸に触れる。「心拍、こんなに速い。私のせい?」

その瞬間、俺たちの間に流れる電流のような何かを、二人とも感じていた。

もう一度、唇が近づく。でも彼女がそっと止めた。

「ゆうや……ここまでよ。今止めないと、研究じゃなくなる」

その声は震えていたけれど、確かな意志を感じた。俺は静かに抱きしめた。

「いいよ。俺は、君を壊したくない。測れない愛でも、俺には本物だ」

彼女は小さく頷き、俺の胸に顔を埋めた。彼女の髪の香りが、体中を満たした。

「でも、私たちの感情は確実に記録されたわ」彼女は俺を見上げる。「心の奥で、何かが変わった。それは間違いない」

俺は彼女の頬に手を当てた。まだ熱い。

「ああ。俺も感じてる。これは実験を超えた何かだ」

「測定不能な領域に、私たちは足を踏み入れたのね」

彼女の瞳に、涙と笑顔が同時に宿っていた。

「今日の実験、どうだった?」

「測定不能。でも――幸福だった」

二人で笑った。白衣を整え、ドアの前で軽く唇を触れ合わせた。一瞬だけのキス。だけど、それが世界の中心のように感じた。

「ゆうや、今日記録されたのは数値じゃない。感覚よ」

彼女は俺の手を握る。

「あなたの体温、呼吸のリズム、心拍の変化。そして私の反応。全部、心に刻まれた」

「俺も同じだ。君の震え、声の変化、瞳の潤み。データなんかより、ずっと鮮明に覚えてる」

「これが、新しい研究手法ね。主観的記録による感情の解析」

彼女は微笑む。

「次回は最終実験。でも、もう結論は出てるわ」

「どんな?」

「恋は測定不能。でも、それこそが愛の証明よ」



帰り道、階段の手すりに手を滑らせながら、指先に残る温もりを確かめる。彼女の唇の柔らかさが、まだそこにある気がした。

コンビニで店長に会った。

「結城くん、なんか今日、顔が違うな。いいことでもあったか?」

「まあ、ちょっと」

「恋でもしてるのか?」

恋?そうだ、これは確実に恋だ。

「そんなところです」

家に帰って、ベッドに横になる。体がまだ火照っている。彼女の体温、息づかい、震える声。すべてが鮮明に蘇る。

机の上の心理学書を開く。「恋愛における身体接触の心理的効果」の章。理論は理解できる。でも、実際に体験すると、理論なんてちっぽけに感じる。

スマホが震えた。こころさんからのメッセージ。

『今日はありがとう。初めてのキス、頭から離れません。次回、最終実験。私、本気であなたを愛してます。 ― こころ』

画面の文字が、心臓より熱かった。測定不能な愛。それが、俺たちの結論だった。
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