『さよなら、彼に依存していた私―30日間の失恋回復ストーリー』

月下花音

文字の大きさ
23 / 31

Day 22:さよなら、「重たい髪」と一緒にうつむいていた私

しおりを挟む
 走ることで身体に自信を取り戻した私は、次なる儀式のために、美容院の予約を入れた。

 彼が「長い方が好きだから」と言ったから、ずっと伸ばし続けていた髪。肩甲骨まで届くこの黒髪には、彼の指が何度も絡み、彼の好きなシャンプーの香りが染み付いていた。

 髪の一本一本に、彼の指の記憶が絡んでいる。

 重たいガラスのドアを開けると、「いらっしゃいませ」という明るい声と、パーマ液のツンとした匂いが迎えてくれた。シャンプー台に案内され、目を閉じる。アシスタントの若い女性の、少し不器用な指が、私の髪を優しく洗っていく。

 頭皮をマッサージされる心地よさに身を委ねながら、私はこの髪と共に過ごした2年間を思い出していた。幸せだった記憶も、辛かった記憶も、すべてこの髪の一本一本に記録されているような気がした。

「今日は、どうされますか?」

 カット席に座り、鏡の前に座る私に、担当の美容師が尋ねた。

 私は、一瞬も迷わずに答えた。

「ばっさりと、切ってください。ショートボブに」

 美容師は少し驚いた顔をしたが、すぐにプロの笑顔に戻り、「わかりました。何か、心境の変化でも?」と軽口を叩いた。

 私は鏡の中の自分を見つめながら、静かに答えた。

「ええ、まあ。新しい自分になりたくて」

 ハサミが、最初のひと束に、入る。

 ジョキリ、という乾いた、しかし決定的な音が、静かな店内に響いた。

 床に落ちていく、黒い髪の束。それは瞬間だった。身体から切り離されていくすべてが、私のいた過去の私、その思い出、彼に縛られてではなかった。彼との、ただの髪の毛

 ハサミの音が、リズミカルに続く。

 髪が短くなるにつれて、頭が、そして心が、どんどん軽くなっていくのがわかった。物理的な重さ以上の、見えない何かが、私から剥がれ落ちていく。

 鏡の中の女の輪郭が、少しずつ変わっていく。隠れていた首筋や耳の形が現れ、見慣れない、しかし紛れもない「私」の顔が、そこにあった。

「どうでしょう?」

 ブローを終え、美容師が鏡を見せてくれる。

 そこにいたのは、別人だった。

 軽やかで、少しだけボーイッシュで、でも意志の強さを感じさせる瞳を持った、知らない女。

 そして、その別人が、紛れもなく、これからの私なのだ。

「すごく、いいです。ありがとうございます」

 心からの感謝を伝えた。

 髪を切るという行為は、失恋した女の常套手段だと、どこかで馬鹿にしていた。でも、違った。これは、過去の自分と決別し、新しい自分として生まれ変わるための、最もパワフルな魔法だったのだ。

 店を出て、ショーウィンドウに映る自分の姿を見る。風が、短くなった髪を優しく揺らす。視界が、驚くほど広い。

 もう、うつむいて歩く必要はない。

 ◇

 軽やかな足取りで歩いていると、家電量販店の前を通りかかった。

 ふと、ポケットの中のスマートフォンに手が触れる。

 あの、ひび割れた保護フィルム。

 別れの日から、ずっとそのままだった。画面を見るたびに、あの日の痛みを思い出していた。

 立ち止まり、店の入り口を見つめる。

 髪を切った。新しい自分になった。

 なら、これも変えてしまおう。

 店内に入ると、明るい照明と、最新機種が並ぶディスプレイが目に飛び込んできた。

「何かお探しですか?」

 店員が声をかけてくる。

「スマートフォン、新しいのに変えたいんです」

 私は、迷わずそう答えた。

 古いスマホを取り出すと、店員は一瞬、ひび割れた画面に目を留めた。

「かなり使い込まれてますね。データ移行のお手伝いもできますよ」

 データ移行。

 彼とのメッセージ、写真、通話履歴。すべてが、この小さな端末の中に眠っている。

 でも、もういい。

「いえ、大丈夫です。必要なものだけ、自分で移します」

 新しいスマホは、驚くほど軽かった。

 傷一つない画面は、まるで鏡のように、新しい髪型の私を映し出していた。

 会計を済ませ、店を出る。

 手の中の新しいスマホと、ショーウィンドウに映る新しい髪型の私。

 すべてが、生まれ変わった。

 私は、この新しい髪で、この新しいスマホで、新しい人生を歩き出すのだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

いちばん好きな人…

麻実
恋愛
夫の裏切りを知った妻は 自分もまた・・・。

俺様上司に今宵も激しく求められる。

美凪ましろ
恋愛
 鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。  蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。  ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。 「おまえの顔、えっろい」  神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。  ――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。

貴方の側にずっと

麻実
恋愛
夫の不倫をきっかけに、妻は自分の気持ちと向き合うことになる。 本当に好きな人に逢えた時・・・

思い出さなければ良かったのに

田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。 大事なことを忘れたまま。 *本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

6年分の遠回り~いまなら好きって言えるかも~

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
私の身体を揺らす彼を、下から見ていた。 まさかあの彼と、こんな関係になるなんて思いもしない。 今日は同期飲み会だった。 後輩のミスで行けたのは本当に最後。 飲み足りないという私に彼は付き合ってくれた。 彼とは入社当時、部署は違ったが同じ仕事に携わっていた。 きっとあの頃のわたしは、彼が好きだったんだと思う。 けれど仕事で負けたくないなんて私のちっぽけなプライドのせいで、その一線は越えられなかった。 でも、あれから変わった私なら……。 ****** 2021/05/29 公開 ****** 表紙 いもこは妹pixivID:11163077

妻の遺品を整理していたら

家紋武範
恋愛
妻の遺品整理。 片づけていくとそこには彼女の名前が記入済みの離婚届があった。

さようなら、初恋

芙月みひろ
恋愛
彼が選んだのは姉だった *表紙写真はガーリードロップ様からお借りしています

処理中です...