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犬脇峠を越えるとそこにはまだ雪が残っていた。
斜面には雪、木々の枝先にはまだ緑と呼べないような薄い色の若葉が芽吹いている。峠のむこうの里では既に桜の蕾も見え始めていたというのに、峠のこちら側では、まだ春は先のようだ。
遠州国から犬脇峠を越え、西濃見に向かう街道の途中に位置する明野領は、遠見二万石君水藩の飛び地領である。初代藩主である武智智久が幕府から遠見の一角を拝領した際に、その弟道久がこの土地をたまわったことに由来する。
もともと智久と道久は同母同腹で同日に生を受けた双子の兄弟であり、出生順は智久・道久の順だった。一般的に双子は後から生まれた子どもを兄とするのが常だが、幕府ではどういうわけか先に生まれた智久を嫡男として扱った。本来、嫡男でありながら部屋住みを余儀なくされ、果ては飛び地に追いやられた道久の本家に対する恨みは深く、それから藩主三代の代替わりを経た今でも本家と分家の仲はあまりよろしくない。
その日、二か月あまりにおよぶ本領での勤めを終え、明野領に帰り着いた樋口雅勝は明野領の街並を眺め歩いていた。
明野領は山と海に囲まれた小さな土地で、本領の石高とは比べものにもならないが、遠州から加賀へ抜ける街道と蝦夷地から荷が付く港を持ち、決して貧しくはない土地柄であった。否、参勤交代や幕府へのお手伝い普請で支出の嵩む本領より支出が少ない分、財政的には裕福だともいえる。
雪が溶け、荷が活発に動き始める時期を迎え、街には商人や作物を売りに来た農民達の市が立ち並んでいる。商いにいそしむ人と人のざわめき、その周囲を駆けまわる子ども達の甲高い声――生家が没落し、明野領にやってきてもうすぐ十年になるが、雅勝はこの街の活気が嫌いではない。
上役であり、幼馴染でもある清水忠雅には本日正午過ぎの帰還をすでに伝えてあった。まだ時間はあるのでどこかで蕎麦でも一杯食っていこうかと袖に手を入れた時、それは起こった。
先ほどから雅勝の少し前を歩いていた少年が、不意に立ち止ったかと思うと、唐突に駆け出した。駆け出し際にその斜め前にいた若い侍の袖に手を伸ばし、引き抜いたと思うと向きを変え、後方に――つまりは雅勝のいた方向に駆け抜け抜けようとする。
――巾着切りか。
あきれるほど素早く、そして洗練された手際だった。恐らくあの若侍は袖に手を入れられたことすら気づいていないのではあるまいか。考える先に地面を蹴り、細い腕を掴んで取った。勢いに乗って駆け出そうとしたところで腕を掴まれ、少年はほとんどつんのめるようにして雅勝の腕の中に倒れ込んだ。
「なっ、何をするんだ!離せ!」
「何をするんだではなかろうが。今ならまだ番屋に突き出しはしない。素直に取ったものを出せ」
肩を掴んで向き直らせると、思いの他、色の白くて綺麗な顔立ちをした少年だった。長い黒髪を頭の上で一つに結わえている。雅勝に男色の好みはないが、その手の男が見たら喜んで稚児にして囲いそうな風貌である。
「何も取ってなんかいない!」
「そんなわけないだろう、俺は確かにお前があいつの袖に手を入れるところを見たんだ」
往来のど真ん中での少年と男のやりとりに、周囲に人の目が集まって来る。できるだけ穏やかに済ませたかったが、これはもう仕方ないかと少年の袖を探ってみたが、わずかばかりの小銭以外に出てくるものはない。ならば懐か――と考えて着ているものの襟を力任せに引き剥がした時、
「きゃあ!」
想像を絶する甲高い声が、少年の唇から響き渡った。
――きゃあ?
怪訝に思って見やった先で、きつく巻かれた晒しの上からでも明らかにそうとわかる、白い胸がはみ出していた。
斜面には雪、木々の枝先にはまだ緑と呼べないような薄い色の若葉が芽吹いている。峠のむこうの里では既に桜の蕾も見え始めていたというのに、峠のこちら側では、まだ春は先のようだ。
遠州国から犬脇峠を越え、西濃見に向かう街道の途中に位置する明野領は、遠見二万石君水藩の飛び地領である。初代藩主である武智智久が幕府から遠見の一角を拝領した際に、その弟道久がこの土地をたまわったことに由来する。
もともと智久と道久は同母同腹で同日に生を受けた双子の兄弟であり、出生順は智久・道久の順だった。一般的に双子は後から生まれた子どもを兄とするのが常だが、幕府ではどういうわけか先に生まれた智久を嫡男として扱った。本来、嫡男でありながら部屋住みを余儀なくされ、果ては飛び地に追いやられた道久の本家に対する恨みは深く、それから藩主三代の代替わりを経た今でも本家と分家の仲はあまりよろしくない。
その日、二か月あまりにおよぶ本領での勤めを終え、明野領に帰り着いた樋口雅勝は明野領の街並を眺め歩いていた。
明野領は山と海に囲まれた小さな土地で、本領の石高とは比べものにもならないが、遠州から加賀へ抜ける街道と蝦夷地から荷が付く港を持ち、決して貧しくはない土地柄であった。否、参勤交代や幕府へのお手伝い普請で支出の嵩む本領より支出が少ない分、財政的には裕福だともいえる。
雪が溶け、荷が活発に動き始める時期を迎え、街には商人や作物を売りに来た農民達の市が立ち並んでいる。商いにいそしむ人と人のざわめき、その周囲を駆けまわる子ども達の甲高い声――生家が没落し、明野領にやってきてもうすぐ十年になるが、雅勝はこの街の活気が嫌いではない。
上役であり、幼馴染でもある清水忠雅には本日正午過ぎの帰還をすでに伝えてあった。まだ時間はあるのでどこかで蕎麦でも一杯食っていこうかと袖に手を入れた時、それは起こった。
先ほどから雅勝の少し前を歩いていた少年が、不意に立ち止ったかと思うと、唐突に駆け出した。駆け出し際にその斜め前にいた若い侍の袖に手を伸ばし、引き抜いたと思うと向きを変え、後方に――つまりは雅勝のいた方向に駆け抜け抜けようとする。
――巾着切りか。
あきれるほど素早く、そして洗練された手際だった。恐らくあの若侍は袖に手を入れられたことすら気づいていないのではあるまいか。考える先に地面を蹴り、細い腕を掴んで取った。勢いに乗って駆け出そうとしたところで腕を掴まれ、少年はほとんどつんのめるようにして雅勝の腕の中に倒れ込んだ。
「なっ、何をするんだ!離せ!」
「何をするんだではなかろうが。今ならまだ番屋に突き出しはしない。素直に取ったものを出せ」
肩を掴んで向き直らせると、思いの他、色の白くて綺麗な顔立ちをした少年だった。長い黒髪を頭の上で一つに結わえている。雅勝に男色の好みはないが、その手の男が見たら喜んで稚児にして囲いそうな風貌である。
「何も取ってなんかいない!」
「そんなわけないだろう、俺は確かにお前があいつの袖に手を入れるところを見たんだ」
往来のど真ん中での少年と男のやりとりに、周囲に人の目が集まって来る。できるだけ穏やかに済ませたかったが、これはもう仕方ないかと少年の袖を探ってみたが、わずかばかりの小銭以外に出てくるものはない。ならば懐か――と考えて着ているものの襟を力任せに引き剥がした時、
「きゃあ!」
想像を絶する甲高い声が、少年の唇から響き渡った。
――きゃあ?
怪訝に思って見やった先で、きつく巻かれた晒しの上からでも明らかにそうとわかる、白い胸がはみ出していた。
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