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るいが渡良瀬川の渡し船に乗るのは、今回が二回目のことである。
一度目は明野領に向かう時、送って来てくれた父と一緒に乗った。そしてあの時乗ったのと逆方向の渡し船に、今度は別の人と乗っている。
まだ二回目で勝手のわからないるいとは違い、さすがに彼は乗り慣れているらしい。船頭に渡し賃を渡すと、さっさと乗り込んで川を渡る荷が積まれた一角に二人分の場所を確保してくれた。渡良瀬川の渡し船は、船というより大きな筏に近い。人や荷だけでなく、近在の百姓だろうか、紐で繋いだ子牛を連れた人がいて、時折、平和な鳴き声が響き渡る。目を閉じるとここが川の上であることを忘れてしまいそうだった。
季節は春から夏に映り行く途中で、外にいても暑くも寒くもない、ちょうどよい季節だ。よく晴れた空から降り注ぐ陽光が、暖かくて心地よい。川辺の木々から張り出した枝の葉が、穏やかに流れる川面に映って、ゆらゆらと揺らめいている。
「眠くなりそうだな、これ」
「……そうですね」
昨夜は高濱楼に行っていたので、二人とも一睡もしていない。雅勝に言われるまでもなく、るいもそのうち、上瞼と下瞼がくっつきそうになった。もたれていいぞと言ってくれたので、遠慮なく男の左腕に頭を寄せて、そっと傍らの気配をうかがう。高く積まれた船の荷に背を預け、外した刀に右手を添え、雅勝は目を閉じている。穏やかそうな横顔を見つめながら、昨日、お秋に言われたことを思い出していた。
「――おるいちゃんは、樋口様のことが好きなんだね」
高濱楼の一部屋の鏡の前で、るいに髪を梳かれながら、お秋はそう言った。これも病の所為なのか。まだ二十をわずかに超えたばかりだというのに、お秋の髪は細くなっていて、櫛で梳けば梳くほど少なくない量の髪が抜け落ちる。うっかりすると泣いてしまいそうで、必死に感情を抑えていたるいは、どこか楽しげなお秋の言葉に、手にした櫛を取り落してしまいそうになった。
「お秋姉さん、雅勝殿はお武家なんだから、そんなこと」
「お武家っていっても浪人でしょ。浪人が町人の娘と所帯を持つなんて、今時珍しい話でもないんだし。もう寝たの?」
「ちょ、ちょっと、お秋姉さん、何を言って――」
「あの方、優しいもんね。若いお武家様なんて、普通はあたしたちのことを反吐みたいな目で見るのに、あの方はそんなことないみたいだし。……ああ、あたしもあと五歳若かったら、抱いて欲しかったなぁ」
赤くなったるいを見て、無論、からかっているのだろう。だが鏡を見て、唇に紅を指しながらそんなことを言う姿には、何故か色香よりも哀しみの色が強かった。もしかすると彼女の過去にもあったのかもしれない。誰かを想い、誰かに想われ――だけど結ばれなかった、そんな思い出が。
実際には、雅勝は家臣ではないにしろ武智家に仕えており、忍び里出身のるいとは身分が違う。るいが彼に心を寄せたとこで、先に続くものなど何もないし、第一、雅勝の側がるいをどう思っているのかなど、知れたものではない――だけど。
――お前は太夫を人として扱った。割と嬉しいものだぞ、そういうのは。
昨夜、薄暗い妓楼の二階の片隅で、確かに雅勝はるいにそう言った。あの時あの瞬間まで、るいは迂闊にも彼もまた、お秋同様、売られた側の人間であることを忘れていたのだ。
あの言葉が、何もできないと嘆くるいを慰めようとしてくれたものだということはわかっている。だけど恐らく、雅勝の脳裏に浮かんでいたのは出会って間もない頃、陣屋の奥座敷の襲撃があった日の翌日に、るいが彼の傷の手当てをした時のことではなかったか。
あの時、るいは雅勝に対し特別な情を抱いていたわけではなかった。ただ、傷を負いながら、その傷を誰かに案じてもらうことも、庇護を受けられる場所に向かうことすらできない人間の存在に、強い衝撃を感じただけのことだった。
あの日の出来事が、彼にとって「割と嬉しいこと」と認識されているのだとしたら。
それはつまり他でもない雅勝自身が、明野領で暮らす日々の生活の中で、それほどまでに、人として扱われることに飢えているということに他ならない。
優しい人だと思う。同時に心の強い人でもあるのだろう。自分が心と体を傷つけながら生きていて、他人に優しくいられるのは、よほど心が強くなければできることではない。
ならば……。
――わたしはただ人として、この人のことを想おう。
せめて、るいといる時ぐらいは、この人が人の心を持ち続けられるように。これまで負ってきた心と身体の傷が、少しでも癒えるように。
できることがあるのなら、何だってしよう。
るいが瞼を下ろした時、川べりの木から夏椿の白い花が落ちて来て、渡良瀬川の水面に浮かんだ。しばらく水に浮いて流れた後、何の前触れもなく突然、ゆらりと揺れて――やがて暗い川の底に沈んで見えなくなった。
一度目は明野領に向かう時、送って来てくれた父と一緒に乗った。そしてあの時乗ったのと逆方向の渡し船に、今度は別の人と乗っている。
まだ二回目で勝手のわからないるいとは違い、さすがに彼は乗り慣れているらしい。船頭に渡し賃を渡すと、さっさと乗り込んで川を渡る荷が積まれた一角に二人分の場所を確保してくれた。渡良瀬川の渡し船は、船というより大きな筏に近い。人や荷だけでなく、近在の百姓だろうか、紐で繋いだ子牛を連れた人がいて、時折、平和な鳴き声が響き渡る。目を閉じるとここが川の上であることを忘れてしまいそうだった。
季節は春から夏に映り行く途中で、外にいても暑くも寒くもない、ちょうどよい季節だ。よく晴れた空から降り注ぐ陽光が、暖かくて心地よい。川辺の木々から張り出した枝の葉が、穏やかに流れる川面に映って、ゆらゆらと揺らめいている。
「眠くなりそうだな、これ」
「……そうですね」
昨夜は高濱楼に行っていたので、二人とも一睡もしていない。雅勝に言われるまでもなく、るいもそのうち、上瞼と下瞼がくっつきそうになった。もたれていいぞと言ってくれたので、遠慮なく男の左腕に頭を寄せて、そっと傍らの気配をうかがう。高く積まれた船の荷に背を預け、外した刀に右手を添え、雅勝は目を閉じている。穏やかそうな横顔を見つめながら、昨日、お秋に言われたことを思い出していた。
「――おるいちゃんは、樋口様のことが好きなんだね」
高濱楼の一部屋の鏡の前で、るいに髪を梳かれながら、お秋はそう言った。これも病の所為なのか。まだ二十をわずかに超えたばかりだというのに、お秋の髪は細くなっていて、櫛で梳けば梳くほど少なくない量の髪が抜け落ちる。うっかりすると泣いてしまいそうで、必死に感情を抑えていたるいは、どこか楽しげなお秋の言葉に、手にした櫛を取り落してしまいそうになった。
「お秋姉さん、雅勝殿はお武家なんだから、そんなこと」
「お武家っていっても浪人でしょ。浪人が町人の娘と所帯を持つなんて、今時珍しい話でもないんだし。もう寝たの?」
「ちょ、ちょっと、お秋姉さん、何を言って――」
「あの方、優しいもんね。若いお武家様なんて、普通はあたしたちのことを反吐みたいな目で見るのに、あの方はそんなことないみたいだし。……ああ、あたしもあと五歳若かったら、抱いて欲しかったなぁ」
赤くなったるいを見て、無論、からかっているのだろう。だが鏡を見て、唇に紅を指しながらそんなことを言う姿には、何故か色香よりも哀しみの色が強かった。もしかすると彼女の過去にもあったのかもしれない。誰かを想い、誰かに想われ――だけど結ばれなかった、そんな思い出が。
実際には、雅勝は家臣ではないにしろ武智家に仕えており、忍び里出身のるいとは身分が違う。るいが彼に心を寄せたとこで、先に続くものなど何もないし、第一、雅勝の側がるいをどう思っているのかなど、知れたものではない――だけど。
――お前は太夫を人として扱った。割と嬉しいものだぞ、そういうのは。
昨夜、薄暗い妓楼の二階の片隅で、確かに雅勝はるいにそう言った。あの時あの瞬間まで、るいは迂闊にも彼もまた、お秋同様、売られた側の人間であることを忘れていたのだ。
あの言葉が、何もできないと嘆くるいを慰めようとしてくれたものだということはわかっている。だけど恐らく、雅勝の脳裏に浮かんでいたのは出会って間もない頃、陣屋の奥座敷の襲撃があった日の翌日に、るいが彼の傷の手当てをした時のことではなかったか。
あの時、るいは雅勝に対し特別な情を抱いていたわけではなかった。ただ、傷を負いながら、その傷を誰かに案じてもらうことも、庇護を受けられる場所に向かうことすらできない人間の存在に、強い衝撃を感じただけのことだった。
あの日の出来事が、彼にとって「割と嬉しいこと」と認識されているのだとしたら。
それはつまり他でもない雅勝自身が、明野領で暮らす日々の生活の中で、それほどまでに、人として扱われることに飢えているということに他ならない。
優しい人だと思う。同時に心の強い人でもあるのだろう。自分が心と体を傷つけながら生きていて、他人に優しくいられるのは、よほど心が強くなければできることではない。
ならば……。
――わたしはただ人として、この人のことを想おう。
せめて、るいといる時ぐらいは、この人が人の心を持ち続けられるように。これまで負ってきた心と身体の傷が、少しでも癒えるように。
できることがあるのなら、何だってしよう。
るいが瞼を下ろした時、川べりの木から夏椿の白い花が落ちて来て、渡良瀬川の水面に浮かんだ。しばらく水に浮いて流れた後、何の前触れもなく突然、ゆらりと揺れて――やがて暗い川の底に沈んで見えなくなった。
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