茜さす

横山美香

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 本領の清水本家との関係を改善しておいてよかった。今回ほどそう思ったことはない。
 本領に辿り着いたその日の夜には、忠雅はおるいと共に城の地下にある石牢にいた。
 今、牢にいるのは藩主武智泰久とその周囲にいた藩士十数人を斬殺し、その場で捕えられた謀反者の大罪人である。明日にでも打ち首にされても不思議ではない。清水本家の当主から罪人のいる場所を聞き出して、牢番に金を掴ませて牢の中に入り込んだ。本当は事が起きてしまう前に逃がしたかったのだが、今さらそれを言っても仕方がない。――ただもう本当に、一刻の猶予もない。
 地下にある牢の夜は結構冷えている。所々の壁に灯火はあるものの、足場が暗くて滑りやすい。忠雅も何度か忍び込んでいるので城の構造は頭に入っている。他にもいくつか牢があるので、今この牢にいる罪人は一人だけのようだ。水はけの悪く苔の生す石牢の一番奥に奴はいた。
「よお」
「忠雅、お前……」
 牢の外の廊下に灯火はあるが、牢の中に炎はない。かなり高いところに格子付きの窓があり、そこから月の光が射し込んでいて、かろうじて中の様子が見て取れた。この気温では相当寒いだろうに、特に震える様子もなく石の床にあぐらをかいて座っていた雅勝は、忠雅を認めて目を見開いた。
 そうだ。驚け。いや、もっと驚かせてやる。懐に大切に収めていた物を牢の格子ごしに見せつけて、忠雅は大きく破顔した。
「往来手形だ。本物だぞ。――雅勝、お前、これ持っておるいと一緒に江戸まで逃げろ」
 いくら頭の回りの早いこの男でも、さすがに今この場に忠雅と――もう一人が現れるとは思っていなかったのだろう。本気で驚いたらしい。言葉もなく唖然としている。捕えられる時に殴られたのか、口の端が切れて血の固まりがこびりついていた。
 千代丸君の江戸行きの準備で大勢の人間の往来手形を取る必要があったので、職権を乱用してそこに何とか二人分の手続きを紛れ込ませた。この往来手形は偽造ではなくれっきとした本物である。どこの関所で検められたって問題はない。男より取るのがはるかに難しい女の往来手形まで手に入れたのだ。あの時、死ねと命じてしまったことを、これに免じてどうか許してほしい。
 忠雅は行ったことはないが、今、江戸にはあちこちから食い詰めた百姓や浪人が集まってきて、大勢の人間が暮らしていると聞いている。無論、今逃げれば追手はかかるだろうが、影衆は本気で追わないし、君水藩の藩士は雅勝の敵ではない。葉隠衆だけ何とか自力で倒してくれれば、江戸で人に紛れて暮らすことは不可能ではないはずだ。
 そしてこれが多分、忠雅が雅勝にしてやれる最後のこととなる。この牢から雅勝を逃がして、おるいと一緒に関所の近くまで送って行く。明野領の影衆の逃亡を手助けしたのとは違い、藩主殺害の大罪人を脱獄させるのだから、明るみになれば切腹だろうが、俺の腹で済むならいくらでも切ってやる。例え雅勝本人が覚えていないにしろ、本気で死にたくなる程辛い時期を救ってくれた相手だ。――せめてそれくらいはさせてくれ。
「さあ、さっさとここから出るぞ」
 ようやく驚きから覚めたらしい雅勝が軽く身を引いた時、その手が血まみれであることに気づいて、忠雅は密かに息を呑み込んだ。
 ――お前、爪を剥がされたのか。
 これは忠雅もうっかりしていた。君水藩で藩主が殺されたのだ。明野領の関与が疑われ、首謀者を吐かせようと拷問が行われたのだ。雅勝が明野領の影衆であると明かさない以上、首を刎ねられるより先に、いっそひと思いに殺してくれた方がマシだと思うような惨い仕打ちを受けたに違いない。
「……まずはどこか身体を休めそうなところを用意する。とにかく早くここから出ろ」
 目が闇に慣れて見えてきた雅勝の状態は、結構本気でまずいと感じられるものだった。爪を剥がされるだけでなく、手の指も何本か折られている。石抱きもあったのかもしれない。闇に隠れてよく見えないが、足も潰されているように見えた。
 現役の影衆だった頃、諜報活動が得意だった忠雅はこの程度の牢の鍵くらい簡単に開けられる。牢の入口の鍵を掴んで金属を動かしかけた時、牢の中の友は静かに首を振った。
「……いや、もういい。忠雅」
「おい、雅勝」
「もう疲れた。これまで散々殺してきたんだ。……今更、自分だけ助かろうというのも虫が良すぎるだろう」
 身体中を散々痛めつけられたのだろうに、声には苦痛の欠片もない。いっそ穏やかとも聞こえる声音だった。
 それは多分、雅勝が既にすべてを諦めているからだった。踏みつけられることに慣れた者だけが出せる、諦念そのものの声だった。
 正直なところ、ここに至るまでに間に、忠雅も雅勝が既に綺麗さっぱりと自分の人生を諦めている可能性は想定していた。だからこそ絶対に諦めきれないものを――奴の女を一緒に連れてきたのだ。雅勝も先ほどからしっかりとおるいの顔を見据えている。明野領を出る時はその名を口に出すのも辛くて出来なかったのに、今はしっかりと女の姿を眼に映し、その上で忠雅に向かって首を振っている。
「もういい。俺は逃げる気はないから、行ってくれ」
 想う男のあまりにひどい有様に声も出なくなっていたらしいおるいが、忠雅の前に出て牢の格子にしがみついた。細い指を必死で伸ばして、血と汗と土で汚れた男の頬に触れようとしている。しかし彼女の指先が触れる寸前、雅勝はうっすら微笑って身を引いた。
「るい、ごめんな」
「えっ……」
「お前の人生、巻き込んですまなかった」
 格子窓から降り注ぐ月光の下、薄暗い牢の中で、それは既にすべてを終わらせてしまった人間の科白だった。
 死にたくない。生きていたい。そう思うからこそ辛くて苦しいのだ。その執着さえ手放してしまえば、恐れるものなどもう何もあるまい。
 少し前まで、おるいの存在は雅勝の生への執着そのものだったはずだ。好いた女と共に生きたいと――もう一度抱きたいと欲する男の本能さえも手放してしまったのか。だから今、これほどまでに穏やかに笑っていられるのか。
 どこかの段階で、もう既に手遅れだった。どこで間違えたのだろう。あの夏の終わりの日、忠雅が清水の邸で死んでくれと伝えた時か。その後、何も言えずに旅立つ背中を見送った時か。いやそれ以前に下手に頭が切れる分、物事の裏まで見抜いてしまう雅勝のような人間には、言われるままに人を斬り続ける影衆の努め自体が耐えがたく辛いものだったのかもしれない。本当はもっと前に、無理やりにでも影衆から引き離して家臣にしておくべきだったのか。
「――どうして!」
 すべてを諦めきった男の言葉に、おるいの口から悲鳴が上がった。もう隠す気も堪える気もないらしく、大粒の涙を零しながら、牢の格子を掴んで揺さぶっている。
 相当悔しいのだろう。雅勝が牢の中にいなければ、本人の襟首を掴んで揺さぶって引っ叩いてやりたいに違いない。それがかなわないので代わりに牢の格子を掴んで揺さぶって、それでも足りずに拳で殴りつけ、おるいは目の前の男に泣きながら訴えかけている。
「何よ、それ。あなたそんなに死にたいの?どうせ命をかけるんなら、自分のしたいことに使えばいいじゃない!」
「……おるい、あまり大声を出すな。外に聞こえるとまずい」
 傍で聞いているだけの忠雅でさえ胸が潰れそうな気がしたので、彼女と惚れ合った男にしてみれば感じるものもひとしおだろう。あまりの剣幕に一瞬、唖然とした後で、涙でも零れそうになったのか、雅勝は斜め上の方角に顔を背けた。
「みんな自分の幸せの為に、自分の人生を生きるんじゃない!何であなただけ!何で、わたしのあなただけ!」
 叫びたい気持ちはものすごくよくわかるのだが、すべての牢番に金を渡して遠ざけるのは物理的に不可能だった。誰かに聞かれて人がやってくると非常にまずいし、多分、そう時間もない。本当はここでもめている余裕など、逆さに振ってもありはしない。
 それでも一抹の期待を持ってしばし待った。おるいの渾身の叫びが雅勝の中の何かを揺さぶって、もう一度生きていたいと思ってはくれないかと。
 おるいの叫びは、雅勝の心を揺さぶるのには成功した。だが揺れる方角が、忠雅の期待とは真逆の方向だった。
 背けた顔を戻してその場に立ち上がり、突然、雅勝が声を張り上げた。爪のはがれた血まみれの手で牢の格子を掴んで、獣のように喚き散らしている。――言葉にならない叫びをただ誰かに聞かせる為だけに。
 捕えられた罪人の突然の叫び声に、どこか頭上の方で人の声がした。誰か来る、まずいと思った時、痛めつけられ過ぎて正気を失ったかと疑った男の目に、理性の光があることに気が付いた。
 承知の上でやっているのだ。今この場で忠雅とおるいを遠ざけるにはどうしたらよいか、わかっていて敢えて人を呼ぼうとしている。
「――雅勝殿!」
 牢にしがみついて離れないおるいの手を無理やり掴んで引き剥がした。もう無理だ。これ以上は手に負えない。今、俺にできることはこの女を無事に生かして戻すことだけだ。
 正直なところ、人の女の身体に手を触れるのは、着物の上からでも気がひける。だが今はもう形振り構っていられない。おるいの鳩尾に拳を入れて、気を失った身体を抱え込んだ。誰か来る前にここから出なければ、この女さえも守れなくなってしまう。
 おるいの身体を脇に抱えて牢の廊下を駆け出した時、不意に背中に強い視線を感じた。足は止めずに肩越しに振り返る。呼ぶ声を聞いたような気がしたのだ。しかし実際に声はなかった。この時、雅勝は口の動きだけで言っていた。その言葉が確かに音になって忠雅の耳にまで届いて来たのだ。
 ――ありがとう。
 それが、十歳で出会い、何度も共に死線をくぐり、十六歳で道を分かった後も友であり続けた忠雅と雅勝の別離だった。
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