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第二部2
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保月庵を去って陣屋に向かうと、そこではちょっとした騒ぎが起こっていた。
前領主であった武智雅久が本領入りした後、明野領主となったのは弟の武智行久である。武智雅久の異母弟であり、雅久の嫡子千代丸君亡き後、順当な相続であったのだが、この行久本人に大きな問題があった。
「――あ、清水様!よいところにお出でになりました!どうか殿をお止め下さいまし!」
夏も終わりが近くなり、明野領では既に赤蜻蛉が飛ぶ季節がやって来ていた。浮かぶ雲は薄っぺらい秋雲に変わり、庭木の先も少し色褪せてきている。暑い夏が終わり過ごしやすい秋へと移り変わる季節の狭間で――若い男が諸肌脱ぎになって蜻蛉を追い駆け回している。
「待て、行くな。こら、待てと言っておろうが!蜻蛉の分際でわしの言うことが聞けぬというのか!」
「殿、お待ちくださいませ、殿!」
武智行久は元々領主の弟でありながら自室から一歩も出ないという引きこもり気質で、次席家老の忠雅ですらほとんど顔を見たことがなかった。領主となった直後、儀式や政務の為に無理やり部屋から引きずり出したのが悪かったのか、元々変人として名の通っていた行久の精神は完全に壊れた。奇怪な言動が目立ち、下手に諌めると刀を抜いて振り回すので手に負えない。一部の老臣達は早く行久に妻帯させろと忠雅にせっついて来るのだが、とてもでないがそんなことはできなかった。今の行久に女を近づけるなど、人身御供を出せと言っているようなものである。
今日もまた側仕えの人間を振り切って、裸足で庭を駆けまわったのだろう。素足が切れて血が滲んでいるのに痛がる様子もない。しかも刀を抜いて振り回し始めたので、忠雅も急いで庭に下り立った。何しろ身分が身分なので、乱心者として斬り捨ててしまうわけにはいかない。剣筋も剣技もあったものでなく、闇雲に真剣を振り回す相手を取り押さえるのに、忠雅の影衆として培った能力が役に立つというのは、いったい何の皮肉だろうか。
振り回された白刃を身をかがめてかわし、相手の懐に入って足払いをかける。本当なら刀を抜いて相対したいところだが、次席家老が領主に対して刀を抜けばそれだけで謀反となる。足払いをかけて均衡を崩したところを手刀で打って刀を取り落させる――というのがいつもの手だったのだが、右足で足払いをかけようとした時に、忠雅の左足が一瞬、小砂利の中に呑まれた。充分な踏ん張りがきかずに忠雅の側の体勢が崩れる。本能的に刀の柄に手をかけそうになって慌てて押しとどめた時、振り回された白刃が思いのほか近いところにあった。
――まずい。
これまで何度かこのように乱心した領主から刀を奪ってきたので、慢心があったことは否めない。とっさに利き腕で身体を庇ったが、この距離、この勢いの刃を腕で受け止めたならば、忠雅の右腕は斬り落とされて地に落ちるだろう。
本気で覚悟を固め、来るべき苦痛に備えて体を固くする。雅道が言っていたのはこのことか――と身をもって実感した時、どこかから飛んできた拳台の石礫が、忠雅の頬をかすめて武智行久の手の甲を打った。
領主がうっ……と呻いてその場に棒立ちになったので、身体ごとぶつかって当て身を食らわせた。意識を失くした身体が地面に叩きつけられないよう片手で支え、もう一方の手で危険極まりない刀を取り上げる。駆け寄ってきた側仕えの人間に刀と領主を渡して、ようやく、ほっと息を吐き出した。
「清水様!お怪我はありませんか?」
「ああ。あの石は……誰が投げたんだ」
陣屋の縁側に十徳姿の医師の姿が見えた。武智行久はいったんこうなってしまうと数日は落ち着かないので、精神が落ち着く薬草を飲ませて寝かせてしまうしかないのだが、いったいいつまで、こんなことを続けていればいいのだろうか。
つるつる頭の医師のすぐ近くに、旅装束の武士の姿があった。到着して間もないのだろう。手甲脚絆姿に編み笠を被っているので人相は定かではないが、身体つきからまだ若いことはわかる。位置と角度から考えて、石礫を投げたのはあの武士だと想像がついたのだが、彼は明野領の家臣ではない。今日、忠雅が陣屋に来たのはこの為だ。本領からの客人――現藩主・武智雅久が藩主となって三年が経って藩政も少しは落ち着いたので、君水藩全体で大規模検地が行われることになり、その為にやってくる人間と対面する予定だったのだ。
お陰で非常に助かったのは事実なのだが、この距離から石を投げて刀を持った手に当てるなど並みの技ではない。少なくとも藩校や郷校や剣術の道場では絶対に習わない。忍びや隠密――影衆や葉隠衆ならともかくも。
「あの石を投げたのはそなたか。――ありがとう助かったよ」
忠雅が近づいていって礼を言うと、若い武士は笠を取った。
咄嗟、息を呑む。そこにいたのはつい先ほど、保月庵で菊乃と語り合った人物に他ならなかったからだ。
「お怪我がなくてようござった。清水殿には以後お見知りおきを。――それがしは、飯野成之と申します」
友とよく似た男はそう言って、忠雅に向けて一礼した。
前領主であった武智雅久が本領入りした後、明野領主となったのは弟の武智行久である。武智雅久の異母弟であり、雅久の嫡子千代丸君亡き後、順当な相続であったのだが、この行久本人に大きな問題があった。
「――あ、清水様!よいところにお出でになりました!どうか殿をお止め下さいまし!」
夏も終わりが近くなり、明野領では既に赤蜻蛉が飛ぶ季節がやって来ていた。浮かぶ雲は薄っぺらい秋雲に変わり、庭木の先も少し色褪せてきている。暑い夏が終わり過ごしやすい秋へと移り変わる季節の狭間で――若い男が諸肌脱ぎになって蜻蛉を追い駆け回している。
「待て、行くな。こら、待てと言っておろうが!蜻蛉の分際でわしの言うことが聞けぬというのか!」
「殿、お待ちくださいませ、殿!」
武智行久は元々領主の弟でありながら自室から一歩も出ないという引きこもり気質で、次席家老の忠雅ですらほとんど顔を見たことがなかった。領主となった直後、儀式や政務の為に無理やり部屋から引きずり出したのが悪かったのか、元々変人として名の通っていた行久の精神は完全に壊れた。奇怪な言動が目立ち、下手に諌めると刀を抜いて振り回すので手に負えない。一部の老臣達は早く行久に妻帯させろと忠雅にせっついて来るのだが、とてもでないがそんなことはできなかった。今の行久に女を近づけるなど、人身御供を出せと言っているようなものである。
今日もまた側仕えの人間を振り切って、裸足で庭を駆けまわったのだろう。素足が切れて血が滲んでいるのに痛がる様子もない。しかも刀を抜いて振り回し始めたので、忠雅も急いで庭に下り立った。何しろ身分が身分なので、乱心者として斬り捨ててしまうわけにはいかない。剣筋も剣技もあったものでなく、闇雲に真剣を振り回す相手を取り押さえるのに、忠雅の影衆として培った能力が役に立つというのは、いったい何の皮肉だろうか。
振り回された白刃を身をかがめてかわし、相手の懐に入って足払いをかける。本当なら刀を抜いて相対したいところだが、次席家老が領主に対して刀を抜けばそれだけで謀反となる。足払いをかけて均衡を崩したところを手刀で打って刀を取り落させる――というのがいつもの手だったのだが、右足で足払いをかけようとした時に、忠雅の左足が一瞬、小砂利の中に呑まれた。充分な踏ん張りがきかずに忠雅の側の体勢が崩れる。本能的に刀の柄に手をかけそうになって慌てて押しとどめた時、振り回された白刃が思いのほか近いところにあった。
――まずい。
これまで何度かこのように乱心した領主から刀を奪ってきたので、慢心があったことは否めない。とっさに利き腕で身体を庇ったが、この距離、この勢いの刃を腕で受け止めたならば、忠雅の右腕は斬り落とされて地に落ちるだろう。
本気で覚悟を固め、来るべき苦痛に備えて体を固くする。雅道が言っていたのはこのことか――と身をもって実感した時、どこかから飛んできた拳台の石礫が、忠雅の頬をかすめて武智行久の手の甲を打った。
領主がうっ……と呻いてその場に棒立ちになったので、身体ごとぶつかって当て身を食らわせた。意識を失くした身体が地面に叩きつけられないよう片手で支え、もう一方の手で危険極まりない刀を取り上げる。駆け寄ってきた側仕えの人間に刀と領主を渡して、ようやく、ほっと息を吐き出した。
「清水様!お怪我はありませんか?」
「ああ。あの石は……誰が投げたんだ」
陣屋の縁側に十徳姿の医師の姿が見えた。武智行久はいったんこうなってしまうと数日は落ち着かないので、精神が落ち着く薬草を飲ませて寝かせてしまうしかないのだが、いったいいつまで、こんなことを続けていればいいのだろうか。
つるつる頭の医師のすぐ近くに、旅装束の武士の姿があった。到着して間もないのだろう。手甲脚絆姿に編み笠を被っているので人相は定かではないが、身体つきからまだ若いことはわかる。位置と角度から考えて、石礫を投げたのはあの武士だと想像がついたのだが、彼は明野領の家臣ではない。今日、忠雅が陣屋に来たのはこの為だ。本領からの客人――現藩主・武智雅久が藩主となって三年が経って藩政も少しは落ち着いたので、君水藩全体で大規模検地が行われることになり、その為にやってくる人間と対面する予定だったのだ。
お陰で非常に助かったのは事実なのだが、この距離から石を投げて刀を持った手に当てるなど並みの技ではない。少なくとも藩校や郷校や剣術の道場では絶対に習わない。忍びや隠密――影衆や葉隠衆ならともかくも。
「あの石を投げたのはそなたか。――ありがとう助かったよ」
忠雅が近づいていって礼を言うと、若い武士は笠を取った。
咄嗟、息を呑む。そこにいたのはつい先ほど、保月庵で菊乃と語り合った人物に他ならなかったからだ。
「お怪我がなくてようござった。清水殿には以後お見知りおきを。――それがしは、飯野成之と申します」
友とよく似た男はそう言って、忠雅に向けて一礼した。
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