茜さす

横山美香

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第二部3

3-2

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 明野領で行われた大規模検地は、終わりに近づいていた。
 君水藩明野領の家臣や役人が手分けして各地を回り、そこで暮らす人の数や土地の広さ、収穫される米の量を記録して行く。それらすべての記録は、本領からやってきた飯野成之が取り纏めていた。あちこちから不規則に上がってくる報告を正確に取り纏め、時には自らもその土地に赴き、短い間で明野領の家中にも随分と馴染んだようだった。
 飯野家の三男である成之は遠縁からの養子であり、当主の実子ではない。
 検地がはじまる前、忠雅は本領にいる影衆達に飯野成之の素性を洗うように命じた。飯野家には嫡男がおり、すでに妻帯して息子を儲けている。次男は他家に婿養子に入っていて、本来ならば養子を得る必要などまったくないにも係らず、飯野家の主は彼を養子とした。その時期が約三年前であり、正室の遠縁にあたるらしいが養子となる前の正確な素性は不明と聞いて、忠雅は正直、どう考えたらよいのかわからなくなった。あの日は急に体調を崩した成之に肩を貸して飯野の邸に送って行ったのだが、無理やりでも着物を引き剥がしてみるべきだったのかもしれない。今となってしまえば、飯野の邸にも清水の邸にも湯殿はあるので、まさか湯屋に誘うわけにもいかず、この若者が死んだ友と同一人物なのか確かめる術はない。明野領に雅勝を知る人間は他にもいるが、忠雅にわからないものが他の人間にわかるとも思えなかった。
 それでなくとも通常の政務の他に検地もあり、忠雅の毎日は忙しい。どうしようもないまま徒に月日だけが経ったある夜――飯野成之が清水の邸を訪ねてきた。


 乱心の領主と口だけは達者でものの役に立たない老臣達。こちらの気も知らず、早く妻帯しろとせっついてくる親戚連中も含め、心労の種ならば売る程持っている忠雅の今の一番の心労の種がこの人物である。それが突然の夜更けの訪問だ。目的をはかりかねながらも、酒でも茶でも好みのものを用意すると告げると、相手は水を所望した。よほど喉が渇いていたらしい。白磁の湯呑に入った白湯を一息に飲み干した客人と、忠雅は自室で向き合っていた。
 行灯の炎がちりりと揺れている。今宵は月のない新月で、障子の向こうには漆黒の闇がわだかまっている。先ほど障子を開けた時には、重たさすら感じる闇が足元から忍び寄って来た。闇と共に現れた客人はやはり、以前、この邸に自由に出入りしていた友とよく似ている。いったいこんな時刻に、何の目的でやって来たのか。そもそもこの男の正体は何者なのか。
 もういい加減、考え過ぎて胃が痛くなりそうなので、いっそ真正面から聞いてみようかとも思う。以前、お前にとても良く似た男がいて、しょっちゅうこの邸にやってきては茶を呑んだり飯を食ったり、時には酒を呑んで泊まって行ったりしたのだが、心当たりはないかと問いただしたならば、この若い男は何と答えるだろうか。
 忠雅が口を開く前に、飲み終わった湯呑を床に置き、客人は要件を切り出した。
「短刀直入に要件を申し上げる。今回の検地に伴って、清水殿には書庫を開放していただきたい」
「それは……」
 明野領清水家の書庫。それはただの書庫ではない。
 清水家は代々影衆を統括しており、影衆にまつわるありとあらゆる書付や記録が保管されている。それ故書庫の中身は門外不出で、かつては立入さえも、清水家の家長と嫡男に限定されていた。
 書庫の中身は、影衆がこれまで行ってきた御役目の内容や、協力者の素性や彼らから取った念書、薬草や武具についてなど多岐にわたる。書庫の中身に用があるたびに、忠雅自身がいちいち取りに行くのは面倒なので、家督を継いた後、雅勝や雅道――影の者達には特別に出入りを許していた。今、書庫に収められている書付の中には雅勝が書いたものもある。影衆・影子達の出身地や長所・短所を書き記したもので、一人前の影衆となって独立した者についてはねぐらの場所や仮の名も記録されている。いわば影衆の名簿のようなものだ。
 影衆は明野領において人として認められていない。徹頭徹尾、駒として扱われて死んで行く。雅勝も雅明も雅晴も他の影衆も――あまりにも軽い、まるで綿毛か羽毛のような命だった。今いる影衆達も、いずれはそうして死んで行くと知っているからこそ、いざその時が来るまで可能な限り守ってやりたかった。駒は駒でも捨て駒にはしない。清水の家督を継いで六年、忠雅はずっとそう考えてきた。
 本領の飯野家は影衆と長らく戦ってきた葉隠衆の元締めである。そんな人物に対して書庫を開放できるわけもない。
「お断り申す。清水家の書庫の中身は門外不出――これは絶対だ」
「清水殿。これは殿のお考えでもある」
「――殿のお考えだと?」
「さよう。殿はこのたび、藩の内情をすべて正確に把握したいとお考えだ。検地とは土地を見るに非ず。人を見るのだとな」
 現藩主・武智雅久は以前明野領主だったので、当然、影衆の存在は知っている。検地とは土地でなく人を見るのだと言った言葉も雅久らしいと思う。だが今、明野領側が影衆の名簿や知識をさらけ出すことに、いったい何の意味があるのだろう。
「これは我が養父・飯野泰之の考えなのだが……雅久候が藩主となった今、一つの藩に二つの隠密が必要であろうか。清水殿、これを期に葉隠衆と影衆を統一することを考えてみてはもらえぬか」
 明野領の影衆と本領の葉隠衆は、元々同一の隠密組織である。今から四代前、初代明野領主・武智道久が明野領にやって来た時に付き従ったのが影衆で、本領に残ったのが葉隠衆である。確かに明野領主が君水藩主となった今、いつまでも隠密が二つに分裂し続ける必要はない。
「……しかし、もしそうなった場合、影衆の人間はどうなるんだ?」
 葉隠衆は世襲制で、子々孫々と隠密の役割を受け継いでいるのだが、明野領の影衆はいつしか困窮した親から子を買い取って、隠密として仕立て上げる組織と変わっていた。正直なところ、影衆をなくすこと自体は忠雅も賛成だ。だが現実問題として影衆がなくなれば、現在影衆・影子である者達に行き場はない。だから忠雅の最終的な目標は、影衆を正式に明野領の家臣にすることだった。
「その為にも書庫を開放してもらいたいのだ。引き続き隠密として使いたい者はこちらで審査する。必要ない者は――処分するしかなかろう」
 ――大方予想はしていたが。よりにもよって……処分とは。
 確かに影衆では、傷を負い、隠密として働けなくなった人間に毒を渡して自害させることがある。忠雅も影衆だった頃、戦いの中でもはや助からない傷を負い、苦しんでいた先輩の首の筋を切って楽にしてやったことがあった。
 影衆の命は軽い。風が吹けば飛んで行く程度のものだ。だがそれでも人の命には違いない。そして人の命は塵や芥のように、処分されてよい物ではない。
「葉隠衆は代々君水藩と武智家に仕える者。しかし影衆は所詮、金で買われた人間の集まりであろう。統一したとして葉隠の者と馴染めるものか。……我が父はその当たりを最も気にかけておられる」
 金で買われた人間の集まり。そう語った口調に嘲りがあった。今、忠雅の目の前にいる男は、金で買われた人間を明確に蔑んでいる。
 ――その顔、その声で、お前が俺にそれを言うのか。
 雅勝もかつて、影衆に金で売られた子どもだった。生家が困窮し、可愛がっていた妹を遊郭に売りたくない一身で自ら身を売った。十歳の歳に明野領にやってきた後、耐え難いものを耐え、割り切れないものを割り切って、必死で生き延びてきた。そしてようやく自分自身の幸せを掴もうとした直前で、捨て駒となって死ぬよう命じられたのだ。
 首を落とされる時、あいつは最後に何を思っただろう。本当は死にたくなどなかったはずだ。生きておるいと所帯を持ちたかっただろう。この部屋で忠雅が死んでくれと告げた時、言葉を失い血の気を失くした顔がどうしても忘れられない。
「……出て行け」
「清水殿?」
「ここから出て行けって言ってんだよ!」
 自分でも感情的になっていることは自覚していた。これは明野領次席家老としての振る舞いではない。だけどどうしても我慢がならなかった。ずっと抑えていた本当の思いが、堰を切った奔流のように溢れ出して止まらない。
 ――もしも死ねと告げたのが忠雅でなかったなら、雅勝は逃げられたのではないか。
 三年前のあの時、雅勝が逃げる機会は実のところ二度あった。一度目はこの邸で忠雅が死んでくれと告げた時。二度目は地下の石牢で最後に会った時だ。
 逃げようと思えば逃げられなかった訳ではない。だが影衆の最年長が御役目を放棄して逃げ出せば清水家の家長である忠雅の立場がない。城の牢から逃がす時には本気で切腹を覚悟していた。あの時、雅勝が抗わずに粛々と死を選んだ背景には、忠雅の立場と命を慮ったという側面が間違いなくあった。
 声を荒げた忠雅に向かって軽く眉を寄せた後、飯野成之は黙って部屋を出て行った。後々この行動が問題になるかもしれないが、今だけはどうしてもあの若者に側にいてほしくなかった。
 障子戸が閉まると同時に、拳で畳を殴りつけた。拳が畳を突き破って、乾いたい草が皮膚に食い込む。大して痛くもないのに出し抜けに瞼の奥に痛みが走って、両の目から涙が溢れ出た。夏の夜の夕立のように激しく滴り落ちて畳に染みを作って行く。
「畜生……」
 お陰で地位と命は守られた。忠雅は君水藩明野領の次席家老であり、今では影衆だけでなく明野領の政さえも取り仕切っている。
 だけど本当はそんなことはどうでもよかった。俺はお前に生きていて欲しかった。死なないで欲しかった。――畜生。このろくでもない人生で初めて得た、たった一人の友だったのに。
 客人が帰った後の夜の片隅で、友を失くして初めて、忠雅は声を上げて泣いた。
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