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最終章 未来に希望はあるか
20-7 黒き御方――NYARLATHOTEP
しおりを挟むかつてダンテが巡った地獄旅。第9圏谷コキュートス――カイーナ、アンテノーラ、トロメア、そして最下層のジュデッカで目撃した悪魔王。
苦しみと嘆きに包まれた王国から飛び出してきた巨躯は、全身が溶岩のように赤黒く、剛毛が覆う毛深い皮膚に覆われた下半身を南シナ海に浸しながら、その後右腕でもぎ取った戦艦大和の最上甲板から舷側装甲を一瞥もせずに遥か遠くへ放り投げた。
駿河湾沖で遭遇したダゴンよりも巨大で、戦艦大和の艦橋ほどもあろうか……。悪魔王の左肩に、ポツンと人が乗っている。
――いや、怪異だ。
黒いスーツに白いシャツ。真っ赤なネクタイがいつも目を引く。それでいて背中からは天使の羽根が煌々と後光を有しながら自由に風を切っている。
シニカルな笑みと真っ赤な瞳。先程の甲板を溶断したのは……サリエルの邪眼か。衝撃の幕間を経て、僅かばかりの沈黙の後、堰を切ったように脳内が念話の洪水に見舞われた。
『――隊長ッ! あぁ、もう訳が分かんねぇぞッ! 天使と悪魔が一緒にいるぜ!』
『あ……、あれはどう見ても』
『サタン、――だな』
『攻撃許可を! すぐに対空砲で攻撃可能です』
『待って! まだウラベとヒノエが見つかってないのよ!』
『えぇい、くそ! せっかく砲弾の爆破準備が出来たってのによぉ――!』
全員が全員、巨大なルシフェルに気を取られている。辺り一帯に何かの轟音が響き渡る中、視線を横に移せば、黒い男すらルシフェルを見つめている。呆然とは違う。目に見えぬ張り詰めた緊張の糸がハッキリと感じられる。
ルシフェルが大仰に右手を振りかぶり、ゆっくりと掌が私達に迫る。空を覆う程に巨大な肉塊が、ずんずんと大きくなっていく。黒い男を再度見て――、毛のない眉をピクリと動かしているのを私は見逃さなかった。
――今ならッ!
その横顔、油断しきった真っ黒なモアイ像の横っ面目がけて殺気を放つ。
さっきまでの憎悪を練りに練り、電光一閃の如く『爆ぜろ』――と。不可視の銃弾が、まるで光線のように空気を切り裂き光を歪ませ、真っ直ぐに黒い男のこめかみに突き刺さった。
――捻れ、穿ち、爆ぜる。
『ぐッ――!』
今まで泰然と全てを見下し、唆し、誘惑していた端倪すべからざる怪異は、初めてその威勢と体勢を大きく崩した。ぐらりと黒い男の身体が揺れ、捕まっていたヒノエがその場に膝を突く。
「ヒノエさんッ――!」
全身の筋肉全てが壊れても良い。僅か2間程度の距離を、あらん限りの力を脚に込めて飛び跳ねた。
ささくれた鋼鉄の床がフィールドジャケットと私の皮膚をザリザリと削り、激しい痛みが走るが気にならない。その手で彼女を掴めれば、何がどうなろうと構わない――。
数瞬の浮遊と激痛の対価は彼女の柔らかな肌。
意識を失っているようだが死んではいない。
『お、おのれ――』
黒い男が穿たれた側頭部を掴みながら相対する。
『逃がさぬぞ』
迫り来るルシフェルの右手の影が私達を覆わんとする寸時、力無く蹌踉めいていた黒い男のローブが大きく揺れた。
――早い!
黒い身体がローブの残影を浮かび上がらせ、艦首方向に向かって後ろ向きに飛び退く。岸壁を駆け上がる鹿や虎のように、後ろ向きのまま非人間的な早さで切り裂かれた甲板に飛び移る。
「『待てッ!』」
ヒノエを抱えて立ち上がるが既に黒い男の姿は見えない。俄に歯がみする中、近づいてきた肉塊がぐるりと回り掌が天に向けられた。
『乗れ、人の子よ』
頷く間もなく、巨大な手に足を掛けて身体を委ねる。僅か数米、長官公室から最上甲板までの、たったこの高さを一飛びに越えることが人間には出来ないのだ。
觔斗雲とまでは言えないが、僅か数秒で私はヒノエを抱えたまま最上甲板に飛び降りた。第二主砲塔横の甲板はほとんどが黒い結晶で覆われ、着地の衝撃がそのまま身体に返ってくる。
ルシフェルとサリエルは膝を突いた私達を一瞥すると、巨大な翼をはためかせ豪風を纏いながら海から飛び出て艦首方向へ向かっていく。見れば――、黒い男は誘うように第一主砲塔先の甲板で佇んでいる。
――何処までも巫山戯た奴だ。
誘っているんだ。
怪異と怪異の殺し合いの予感が脳裏を過りながらも、私もすぐに追いつかねばならない。意識が混濁しているヒノエを優しく甲板に横たえたところで、艦尾方向から声が響いた。
「『ウラベッ――!』」
頼もしき仲間達の声。
深淵に孤絶した中でこそ聞きたかった、戦友の声が脳裏に響く。見ればスティグラー博士を筆頭に、クラウディアとミエコが必死の形相でこちらに向かって走っている。
『二人とも、怪我はありませんか?!』
『私は大丈夫だが、ヒノエさんが……』
『ヒノエが?! まさか――』
『大丈夫です。息はある。博士かデービッドの救護を頼みます』
『……ウラベ、聞こえるか? こちらは予定の行動は全て終わった。後は第一主砲塔に残っている神聖化された砲弾、炸薬を遠隔で起爆するだけだ』
『道中、海軍軍人の幽霊に遭遇したけどよぅ――、なんとか協力してもらったぜ』
牧野さんの動揺が目に浮かぶ。彼らの無念も如何ばかりか。
『――ウラベ。彼らの助けが間に合ったようだな』
僅かに間を置いて、黒いバッグを持ったスティグラー博士が、――きっと私だけに向けて念話を発しているのだろう、安堵した声色で話しかけてきた。
『なんとかね。しかし、黒い男は取り逃がしてます』
『……大丈夫だ。隊長達と合流し、彼らと協力して奴を船首に追い詰める』
――誘われている。
一抹の不安が脳裏を掠める。でも、今更立ち止まれない。
合流したデービッドにヒノエの治療を頼みつつ、船首方向に佇む黒い男を睨みながら、艦尾方向から合流したクラウディア達、第二砲塔脇から現れた隊長達と合流し、――力強い足取りで船首へ向かうことにした。
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