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第1章 左遷と「雇用を守る」嘘
休憩室
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休憩室は、昼休みの終わりかけの時間帯で、人が引いた後の湯気だけが残っていた。電気ポットの小さな沸騰音。インスタントコーヒーの甘い匂い。けれど、空気は甘くない。
向かいのテーブルに座った夫婦は、二人とも目の下に薄い影を抱えていた。奥さんの方が先に口を開く。声が、乾いている。
「……私が、辞めます」
その言葉が落ちた瞬間、隣の旦那さんの肩がぴくりと跳ねた。怒鳴らない。机を叩かない。だけど、怒りが“押し殺された音”で伝わる。
「それだけは、ダメだろ」
低い声。いつもなら譲る人が、譲れないところまで来たときの声。奥さんは笑おうとして失敗し、唇を噛んだ。
「じゃあ、どうするの。片道三時間よ? 二週間で? 保育園の送迎、誰がやるの。熱出したら? 実家、頼れないって言ったよね」
「俺が……」
「“俺が”って何。あなたが会社を辞めるの? それとも、私が子ども連れて引っ越すの? 二週間で?」
言葉が互いの喉に刺さって、抜けない。
私は、二人の間に置かれた紙を見た。総務が配ったらしい「勤務地変更の打診書」。きれいな書式。きれいな嘘。
この書式を作った人は、子どもの発熱に振り回されたことがあるだろうか。保育園の空き待ちを経験したことがあるだろうか。――たぶんない。だから“二週間”と書ける。
奥さんが視線を上げた。私の名札を読んで、表情が固まる。
「……本社の、人事……ですよね」
警戒。嫌悪。期待。全部が混ざっている。火消し屋に向けられる目だ。
「はい」
私は息を吸って、言葉を選ぶのをやめた。選ぶと遅れる。遅れると、誰かが壊れる。
「辞めないで済む道は、私が作ります」
奥さんが目を見開く。旦那さんが、ほんの少しだけ希望の形をする。でも次の瞬間、私は続けた。続けなきゃいけない。
「……でも、あなた達にも戦ってほしい。声を上げないと、“都合のいい数字”にされます」
旦那さんの喉が鳴った。奥さんは一度、俯いてから、ゆっくりとうなずいた。
「戦うって……具体的には?」
「今、何が起きているか。誰が何を言ったか。メールでも、メモでも、記憶でもいい。『二週間』が現実に無理だって、生活の形で示してください」
私はテーブルの端に置かれた子ども用の小さな水筒を見た。キャラクターのシールが剥げかけている。生活は、ここにある。
奥さんがバッグからスマホを取り出し、震える指で画面を開いた。
「……昨日、課長から来たんです。『家庭の事情は考慮するが、統合方針は変わらない』って」
“考慮する”――この言葉ほど、人を孤独にする曖昧さはない。
「それ、保存してください」
言った瞬間、休憩室のドアが開いた。冷たい外気が一筋、入り込む。背の高い男が立っていた。作業着の上にコートを羽織り、腕まくりしたままの癖が残っている。現場の匂いを連れてきた人。彼は私たちを見て、視線を奥さんの水筒に落とし、次に私の名札へ移した。
「……本社の人事?」
声が低い。問いかけなのに、どこか守る側の重さがある。私は立ち上がり、椅子の背が小さく鳴った。
「統合PJの担当です」
男は一拍、私を見つめてから、言った。
「なら、まず“現場の生活”を見てくれ。――話は、それからだ」
休憩室の空気が、少しだけ動いた。そして私は直感した。この男が、子会社社長だ。
向かいのテーブルに座った夫婦は、二人とも目の下に薄い影を抱えていた。奥さんの方が先に口を開く。声が、乾いている。
「……私が、辞めます」
その言葉が落ちた瞬間、隣の旦那さんの肩がぴくりと跳ねた。怒鳴らない。机を叩かない。だけど、怒りが“押し殺された音”で伝わる。
「それだけは、ダメだろ」
低い声。いつもなら譲る人が、譲れないところまで来たときの声。奥さんは笑おうとして失敗し、唇を噛んだ。
「じゃあ、どうするの。片道三時間よ? 二週間で? 保育園の送迎、誰がやるの。熱出したら? 実家、頼れないって言ったよね」
「俺が……」
「“俺が”って何。あなたが会社を辞めるの? それとも、私が子ども連れて引っ越すの? 二週間で?」
言葉が互いの喉に刺さって、抜けない。
私は、二人の間に置かれた紙を見た。総務が配ったらしい「勤務地変更の打診書」。きれいな書式。きれいな嘘。
この書式を作った人は、子どもの発熱に振り回されたことがあるだろうか。保育園の空き待ちを経験したことがあるだろうか。――たぶんない。だから“二週間”と書ける。
奥さんが視線を上げた。私の名札を読んで、表情が固まる。
「……本社の、人事……ですよね」
警戒。嫌悪。期待。全部が混ざっている。火消し屋に向けられる目だ。
「はい」
私は息を吸って、言葉を選ぶのをやめた。選ぶと遅れる。遅れると、誰かが壊れる。
「辞めないで済む道は、私が作ります」
奥さんが目を見開く。旦那さんが、ほんの少しだけ希望の形をする。でも次の瞬間、私は続けた。続けなきゃいけない。
「……でも、あなた達にも戦ってほしい。声を上げないと、“都合のいい数字”にされます」
旦那さんの喉が鳴った。奥さんは一度、俯いてから、ゆっくりとうなずいた。
「戦うって……具体的には?」
「今、何が起きているか。誰が何を言ったか。メールでも、メモでも、記憶でもいい。『二週間』が現実に無理だって、生活の形で示してください」
私はテーブルの端に置かれた子ども用の小さな水筒を見た。キャラクターのシールが剥げかけている。生活は、ここにある。
奥さんがバッグからスマホを取り出し、震える指で画面を開いた。
「……昨日、課長から来たんです。『家庭の事情は考慮するが、統合方針は変わらない』って」
“考慮する”――この言葉ほど、人を孤独にする曖昧さはない。
「それ、保存してください」
言った瞬間、休憩室のドアが開いた。冷たい外気が一筋、入り込む。背の高い男が立っていた。作業着の上にコートを羽織り、腕まくりしたままの癖が残っている。現場の匂いを連れてきた人。彼は私たちを見て、視線を奥さんの水筒に落とし、次に私の名札へ移した。
「……本社の人事?」
声が低い。問いかけなのに、どこか守る側の重さがある。私は立ち上がり、椅子の背が小さく鳴った。
「統合PJの担当です」
男は一拍、私を見つめてから、言った。
「なら、まず“現場の生活”を見てくれ。――話は、それからだ」
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