68 / 99
最終章「適当がいつの間にか愛に変わる時」
5
しおりを挟む
季節は冬だというのに、やけにむわっとした空気が流れ込んでくる。この廊下の向こう側には、旦那様の部屋がある。まさか自分がここを通る日が来ようとは、屋敷を訪れた初日には想像もしていなかった。
「それにしても、つくづくおもしろい発想よね。扉一枚じゃなくて、廊下で繋げようだなんて。旦那様のお祖父様以外には絶対に出来ないわ」
夫婦の部屋が隣接している屋敷は珍しくないけれど、これだけの距離を内廊下にするのはきっと大変だっただろう。試しに一歩足を踏み出してみると、えもいわれぬ感情が私に襲いかかってきた。
一筋の光すら差し込まない暗闇を、一歩ずつゆっくりと進んでいく。無意識のうちに歩くリズムがだんだんと早まり、目が慣れるよりも先にほとんど小走りのように駆けていた。部屋からランプを持ってくるという発想はなんてなくて、頭の中は彼のことしか考えられない。
恥ずかしいのに、会いたいと思う。はしたないと分かっていても、足が勝手に前に出る。旦那様が今、私のことで頭をいっぱいにしているかもしれないと考えただけで、胸が詰まって上手く息が出来ない。
――少しでも早く、オズベルト様の顔が見たい。
不意にふわりと甘い香りが鼻をくすぐったと思ったその瞬間、どん!と軽く体がぶつかる。このがちがちの胸筋には覚えがあって、自分が誰と鉢合わせたのかすぐに分かった。というか、ここを通れるのは私を含めてたった二人だけ。
「フィ、フィリア!大丈夫か!?」
旦那様は上擦った声を上げながらも、その逞しい両腕でしっかりと私を受け止める。気付けば暗闇に目が慣れて、ぼんやりとしたシルエットがこちらを見下ろしているのが分かった。
「だ、旦那様……。すみません、勢いよくぶつかってしまって。お怪我はありませんか?」
無我夢中で気付かなかった自分が恥ずかしくて、思わず一歩後退りをする。彼は首を左右に振りながら、私の腰元を優しい手付きで支えてくれた。
「君がいるかもしれないと思ったから、慎重に歩いていたんだ。そこまで激しくはなかったと思うが、君こそ平気か?」
「あれ、そういえば……」
私はほとんど走っていたのに、さして衝撃を感じなかった。ぶつかったというより受け止められたといった方が正しいような気がするし、私がここにいることにも大して驚いていない雰囲気を感じる。
「……香りがしたんだ」
腰元に添えられた彼の指先が、恥ずかしそうにぴくりと反応を示す。
「僕が君からずっと感じていた、甘い香りがしたから。その後足音に気付いて、声を掛けようか迷っていたところにちょうど君が飛び込んできた」
「そ、そうだったんですね……」
足音に注視している余裕なんてなかったから、私はちっとも分からなかった。なんだか自分だけ余裕がないみたいで、さらに気恥ずかしい。
「ランプを持ってくればよかったです」
「ああ、僕もそう思う」
そういえば、私と同じように旦那様も手ぶらだ。
「……そこまでの余裕がなかったんだ」
再び彼の声が上擦って、あまりの可愛らしさに私の胸がきゅんきゅんと音を立てる。
「だが、フィリアの香りだけはすぐに感じられた」
「わ、私臭いですか?」
「まさか、そんなことあるはずがない」
くいっと遠慮がちに腰を引かれ、ただでさえ視界が悪い中で彼と触れ合っている部分に意識が集中してしまう。
「君の方こそ、僕が気持ち悪くはないか?」
「まさか!そんなことあるはずありません!」
二人で同じような台詞を連発して、お互いにふふっと噴き出した。
「先ほど顔を合わせたばかりなのに、もう会いたくてたまらなかった」
「わ、私も……です」
ランプを忘れてよかったと、心底安堵する。今の私はきっと、全身真っ赤に染まっているはずだから。いくら恋愛のあれこれに疎くても、夫婦がどんな風に愛を伝え合うのか、知識としては心得ている。
それを自分に置き換えて想像することはとても無理だけど、相手の顔だけは鮮明に浮かんだ。
「部屋を訪ねようとしてくれたのか?」
「居ても立っても居られなくて」
「ははっ、僕と同じだ」
耳に心地良い笑い声と一緒に、私の左手が優しい温もりに包まれる。
「一緒に行こう、フィリア」
「……はい、オズベルト様」
並んで歩くには少し狭い廊下を、私達はぴたりと身を寄せ合いながら彼の部屋に向かって歩みを進めたのだった。
「それにしても、つくづくおもしろい発想よね。扉一枚じゃなくて、廊下で繋げようだなんて。旦那様のお祖父様以外には絶対に出来ないわ」
夫婦の部屋が隣接している屋敷は珍しくないけれど、これだけの距離を内廊下にするのはきっと大変だっただろう。試しに一歩足を踏み出してみると、えもいわれぬ感情が私に襲いかかってきた。
一筋の光すら差し込まない暗闇を、一歩ずつゆっくりと進んでいく。無意識のうちに歩くリズムがだんだんと早まり、目が慣れるよりも先にほとんど小走りのように駆けていた。部屋からランプを持ってくるという発想はなんてなくて、頭の中は彼のことしか考えられない。
恥ずかしいのに、会いたいと思う。はしたないと分かっていても、足が勝手に前に出る。旦那様が今、私のことで頭をいっぱいにしているかもしれないと考えただけで、胸が詰まって上手く息が出来ない。
――少しでも早く、オズベルト様の顔が見たい。
不意にふわりと甘い香りが鼻をくすぐったと思ったその瞬間、どん!と軽く体がぶつかる。このがちがちの胸筋には覚えがあって、自分が誰と鉢合わせたのかすぐに分かった。というか、ここを通れるのは私を含めてたった二人だけ。
「フィ、フィリア!大丈夫か!?」
旦那様は上擦った声を上げながらも、その逞しい両腕でしっかりと私を受け止める。気付けば暗闇に目が慣れて、ぼんやりとしたシルエットがこちらを見下ろしているのが分かった。
「だ、旦那様……。すみません、勢いよくぶつかってしまって。お怪我はありませんか?」
無我夢中で気付かなかった自分が恥ずかしくて、思わず一歩後退りをする。彼は首を左右に振りながら、私の腰元を優しい手付きで支えてくれた。
「君がいるかもしれないと思ったから、慎重に歩いていたんだ。そこまで激しくはなかったと思うが、君こそ平気か?」
「あれ、そういえば……」
私はほとんど走っていたのに、さして衝撃を感じなかった。ぶつかったというより受け止められたといった方が正しいような気がするし、私がここにいることにも大して驚いていない雰囲気を感じる。
「……香りがしたんだ」
腰元に添えられた彼の指先が、恥ずかしそうにぴくりと反応を示す。
「僕が君からずっと感じていた、甘い香りがしたから。その後足音に気付いて、声を掛けようか迷っていたところにちょうど君が飛び込んできた」
「そ、そうだったんですね……」
足音に注視している余裕なんてなかったから、私はちっとも分からなかった。なんだか自分だけ余裕がないみたいで、さらに気恥ずかしい。
「ランプを持ってくればよかったです」
「ああ、僕もそう思う」
そういえば、私と同じように旦那様も手ぶらだ。
「……そこまでの余裕がなかったんだ」
再び彼の声が上擦って、あまりの可愛らしさに私の胸がきゅんきゅんと音を立てる。
「だが、フィリアの香りだけはすぐに感じられた」
「わ、私臭いですか?」
「まさか、そんなことあるはずがない」
くいっと遠慮がちに腰を引かれ、ただでさえ視界が悪い中で彼と触れ合っている部分に意識が集中してしまう。
「君の方こそ、僕が気持ち悪くはないか?」
「まさか!そんなことあるはずありません!」
二人で同じような台詞を連発して、お互いにふふっと噴き出した。
「先ほど顔を合わせたばかりなのに、もう会いたくてたまらなかった」
「わ、私も……です」
ランプを忘れてよかったと、心底安堵する。今の私はきっと、全身真っ赤に染まっているはずだから。いくら恋愛のあれこれに疎くても、夫婦がどんな風に愛を伝え合うのか、知識としては心得ている。
それを自分に置き換えて想像することはとても無理だけど、相手の顔だけは鮮明に浮かんだ。
「部屋を訪ねようとしてくれたのか?」
「居ても立っても居られなくて」
「ははっ、僕と同じだ」
耳に心地良い笑い声と一緒に、私の左手が優しい温もりに包まれる。
「一緒に行こう、フィリア」
「……はい、オズベルト様」
並んで歩くには少し狭い廊下を、私達はぴたりと身を寄せ合いながら彼の部屋に向かって歩みを進めたのだった。
181
あなたにおすすめの小説
俺の婚約者は地味で陰気臭い女なはずだが、どうも違うらしい。
ミミリン
恋愛
ある世界の貴族である俺。婚約者のアリスはいつもボサボサの髪の毛とぶかぶかの制服を着ていて陰気な女だ。幼馴染のアンジェリカからは良くない話も聞いている。
俺と婚約していても話は続かないし、婚約者としての役目も担う気はないようだ。
そんな婚約者のアリスがある日、俺のメイドがふるまった紅茶を俺の目の前でわざとこぼし続けた。
こんな女とは婚約解消だ。
この日から俺とアリスの関係が少しずつ変わっていく。
突然決められた婚約者は人気者だそうです。押し付けられたに違いないので断ってもらおうと思います。
橘ハルシ
恋愛
ごくごく普通の伯爵令嬢リーディアに、突然、降って湧いた婚約話。相手は、騎士団長の叔父の部下。侍女に聞くと、どうやら社交界で超人気の男性らしい。こんな釣り合わない相手、絶対に叔父が権力を使って、無理強いしたに違いない!
リーディアは相手に遠慮なく断ってくれるよう頼みに騎士団へ乗り込むが、両親も叔父も相手のことを教えてくれなかったため、全く知らない相手を一人で探す羽目になる。
怪しい変装をして、騎士団内をうろついていたリーディアは一人の青年と出会い、そのまま一緒に婚約者候補を探すことに。
しかしその青年といるうちに、リーディアは彼に好意を抱いてしまう。
全21話(本編20話+番外編1話)です。
愛人令嬢のはずが、堅物宰相閣下の偽恋人になりまして
依廼 あんこ
恋愛
昔から『愛人顔』であることを理由に不名誉な噂を流され、陰口を言われてきた伯爵令嬢・イリス。実際は恋愛経験なんて皆無のイリスなのに、根も葉もない愛人の噂は大きくなって社交界に広まるばかり。
ついには女嫌いで堅物と噂の若き宰相・ブルーノから呼び出しを受け、風紀の乱れを指摘されてしまう。幸いイリスの愛人の噂と真相が異なることをすぐに見抜くブルーノだったが、なぜか『期間限定の恋人役』を提案されることに。
ブルーノの提案を受けたことで意外にも穏やかな日々を送れるようになったイリスだったが、ある日突然『イリスが王太子殿下を誘った』とのスキャンダルが立ってしまい――!?
* カクヨム・小説家になろうにも投稿しています。
* 第一部完結。今後、第二部以降も執筆予定です。
【完結】幼な妻は年上夫を落としたい ~妹のように溺愛されても足りないの~
綾雅(りょうが)今年は7冊!
恋愛
この人が私の夫……政略結婚だけど、一目惚れです!
12歳にして、戦争回避のために隣国の王弟に嫁ぐことになった末っ子姫アンジェル。15歳も年上の夫に会うなり、一目惚れした。彼のすべてが大好きなのに、私は年の離れた妹のように甘やかされるばかり。溺愛もいいけれど、妻として愛してほしいわ。
両片思いの擦れ違い夫婦が、本物の愛に届くまで。ハッピーエンド確定です♪
ハッピーエンド確定
【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ
2024/07/06……完結
2024/06/29……本編完結
2024/04/02……エブリスタ、トレンド恋愛 76位
2024/04/02……アルファポリス、女性向けHOT 77位
2024/04/01……連載開始
結婚結婚煩いので、愛人持ちの幼馴染と偽装結婚してみた
夏菜しの
恋愛
幼馴染のルーカスの態度は、年頃になっても相変わらず気安い。
彼のその変わらぬ態度のお陰で、周りから男女の仲だと勘違いされて、公爵令嬢エーデルトラウトの相手はなかなか決まらない。
そんな現状をヤキモキしているというのに、ルーカスの方は素知らぬ顔。
彼は思いのままに平民の娘と恋人関係を持っていた。
いっそそのまま結婚してくれれば、噂は間違いだったと知れるのに、あちらもやっぱり公爵家で、平民との結婚など許さんと反対されていた。
のらりくらりと躱すがもう限界。
いよいよ親が煩くなってきたころ、ルーカスがやってきて『偽装結婚しないか?』と提案された。
彼の愛人を黙認する代わりに、贅沢と自由が得られる。
これで煩く言われないとすると、悪くない提案じゃない?
エーデルトラウトは軽い気持ちでその提案に乗った。
【完結】転生したぐうたら令嬢は王太子妃になんかになりたくない
金峯蓮華
恋愛
子供の頃から休みなく忙しくしていた貴子は公認会計士として独立するために会社を辞めた日に事故に遭い、死の間際に生まれ変わったらぐうたらしたい!と願った。気がついたら中世ヨーロッパのような世界の子供、ヴィヴィアンヌになっていた。何もしないお姫様のようなぐうたらライフを満喫していたが、突然、王太子に求婚された。王太子妃になんかなったらぐうたらできないじゃない!!ヴィヴィアンヌピンチ!
小説家になろうにも書いてます。
婚約者を譲れと姉に「お願い」されました。代わりに軍人侯爵との結婚を押し付けられましたが、私は形だけの妻のようです。
ナナカ
恋愛
メリオス伯爵の次女エレナは、幼い頃から姉アルチーナに振り回されてきた。そんな姉に婚約者ロエルを譲れと言われる。さらに自分の代わりに結婚しろとまで言い出した。結婚相手は貴族たちが成り上がりと侮蔑する軍人侯爵。伯爵家との縁組が目的だからか、エレナに入れ替わった結婚も承諾する。
こうして、ほとんど顔を合わせることない別居生活が始まった。冷め切った関係になるかと思われたが、年の離れた侯爵はエレナに丁寧に接してくれるし、意外に優しい人。エレナも数少ない会話の機会が楽しみになっていく。
(本編、番外編、完結しました)
婚約破棄を希望しておりますが、なぜかうまく行きません
Karamimi
恋愛
公爵令嬢のオニキスは大好きな婚約者、ブラインから冷遇されている事を気にして、婚約破棄を決意する。
意気揚々と父親に婚約破棄をお願いするが、あっさり断られるオニキス。それなら本人に、そう思いブラインに婚約破棄の話をするが
「婚約破棄は絶対にしない!」
と怒られてしまった。自分とは目も合わせない、口もろくにきかない、触れもないのに、どうして婚約破棄を承諾してもらえないのか、オニキスは理解に苦しむ。
さらに父親からも叱責され、一度は婚約破棄を諦めたオニキスだったが、前世の記憶を持つと言う伯爵令嬢、クロエに
「あなたは悪役令嬢で、私とブライン様は愛し合っている。いずれ私たちは結婚するのよ」
と聞かされる。やはり自分は愛されていなかったと確信したオニキスは、クロエに頼んでブラインとの穏便な婚約破棄の協力を依頼した。
クロエも悪役令嬢らしくないオニキスにイライラしており、自分に協力するなら、婚約破棄出来る様に協力すると約束する。
強力?な助っ人、クロエの協力を得たオニキスは、クロエの指示のもと、悪役令嬢を目指しつつ婚約破棄を目論むのだった。
一方ブラインは、ある体質のせいで大好きなオニキスに触れる事も顔を見る事も出来ずに悩んでいた。そうとは知らず婚約破棄を目指すオニキスに、ブラインは…
婚約破棄をしたい悪役令嬢?オニキスと、美しい見た目とは裏腹にド変態な王太子ブラインとのラブコメディーです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる