あなたの知らない、それからのこと

羽鳥むぅ

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29.二人の知らない、それからのこと

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 故郷から遠く離れた国の、招かれなければ辿り着けないと伝えられている森の奥深くにある古びた小屋。それを前にして、クライヴにようやく好機が巡ってきたのだと、レベッカがいなくなってから初めて胸が躍った。長かった。この国に辿り着くのも、森に招き入れられるのも。入国するためにいくつもの国を経由しなければならなかったし、審査にも時間が掛かった。さらに森には何か術でも掛けられているのか、足を踏み入れてほんの数歩進むと外に出てしまうという不思議な現象が起こる。しかしクライヴはレベッカとの約束を果たすため、何度も何度も、来る日も来る日も森に入っては出ることを繰り返した。
 
 レベッカがこの世から去ってどれほどの時が流れたのか、昨日のことのようにも思えるし、遠い昔にも感じる。美しい庭園の地面におびただしく広がる赤を毎晩夢に見てしまい、ぐっすりと眠れたことはあの日から今まで一度もない。それも今日までだ。サワサワと奇妙な風が、クライヴを誘うように頬を撫でていく。
 ドアノッカーを鳴らすと扉が開き、中年の女が出てきた。彼女こそがクライヴが長年求めた人物なのか?
「珍しいね。こんなところに客人なんて」
「……貴女がメイか?」
「そうだけど?」
「頼みたい、ことがある」
「ふうん。聞くだけ聞こうか。いいかい、気が乗らなければやらないよ」
 目の前の呪術師メイと呼ばれている女は、正にクライヴが長い間探し求めていた人物だったらしい。彼女は一見するとどこでもいるふくよかな中年の女性だった。髭と髪が伸びっぱなしのクライヴのほうが、よっぽど呪術師に見えるほどだ。久しぶりに出した声も随分としわがれている。時折咽ながらクライヴが話しかけると雰囲気は一転して、頭に靄が掛かったように彼女の容貌が分からなくなった。少女にも美女にも、老女にも見えたが、それもクライヴにとってはどうでもいいことだ。願いさえ叶えてくれるならば。クライヴは事の顛末とレベッカとの約束、来世ではエルバートだけでなく、誰にも邪魔されずに一緒になりたいという望み話すために口を開いた。

「――なるほど。妻と来世での再会を、ねぇ。なんともロマンチックじゃないか。ただし妻もそうとは限らないが」
「それでも構わない。約束したのだから」
「大体ここに来る奴は独りよがりだからね。そう言うんだよ。まぁ、でもあたしは目の前のあんたがお客さんだから言うとおりにしてやる。その代り妻だった女に記憶がなくて、縋り付くあんたを気味悪がる可能性も覚えておくんだ」
 ヒッヒと意地悪そうな笑い声を上げるメイに、クライヴは少しだけ不安を覚えた。レベッカに嫌われた記憶がないから想像できないが、それはかなりのショックだろう。だからといって諦める理由にはならないが。
「……分かっている。何と言われようと気持ちは変わらない。対価はここにある宝石と金貨、そして剣と俺の命だ」
「妥当だね。もう少し若けりゃ生かして用心棒にしてやったんだが」
「何を言う。俺の身体は妻のものだから余計なことはしてくれるな」
 クライヴが憮然として言えば、メイは肩を竦めた。メイの元に訪れる人間は大体こういう部類なのだ。勝手で一途で面倒な者ばかり。
「フン、まあいい。じゃあその大切な嫁の大切にしていたものを出してもらおうか」
「こちらを使ってくれ」
「これは……!」
「なにか問題でもあるのか?」
 メイはクライヴが差し出した髪飾りを見て、少し驚いたような声を上げた。ここまできて不備があったのかと不安になる。しかしメイはそれに答えることはなく、首を振ると寝台らしき台を指さした。
「いや、十分だ。じゃあ、あんたはそこの寝台で横になるんだ」
 言われた通りに、板に布を張っただけの硬い台に寝転んだ。暫くして準備が整ったらしく、ブツブツとメイが呪文を唱え始めた。なんとも奇妙な声と匂いが部屋に漂っている。やがて薬指が糸で引っ張られるような感覚とともに、シュワシュワと身体が溶けていく感覚がして、同時に意識が遠のいていく。ああ、やっと終われる。レベッカのいないこの世界になんて未練はないし、命が終わることになんの感慨もない。本当に会えるのかという一抹の心配はあるけれど、あの公爵家に伝わっていた薬を作ったとされている女だ。それに賭けるしかない。
 瞼の裏には共に歩んできたレベッカの姿が浮かぶ。赤い髪にパッチリとした瞳と長い睫毛、小さな鼻と唇。あれほど愛した美しい人を絶対に忘れはしない。もし例え見た目が変わっていても、大勢の中からだって絶対に見つけてみせる。
 
 いつの間にか若い頃のように身体が軽くなって、クライヴは走り出していた。左手の薬指から伸びている光のような糸に導かれるように。どれだけ走ったのかは分からないが、果てしなく遠く、糸の先にいたレベッカが少し驚いてから嬉しそうに手を伸ばし、ようやく掴めたのがクライヴとしての最期の記憶だった。

  * * *

 男が横たわっていた寝台は、誰も訪れていなかったかのように元通りだった。ただ宝石と金貨が入った布袋と、使い込まれた剣があるだけ。その剣には先ほどの男の技術と彼が愛した女の血液が染み込んでいるから、呪物としても価値があるだろう。それよりも。
「またこれを手にできるなんてねぇ」
 メイが優しく髪飾りをなぞると、パチパチと小さな火花が起こり黒い靄が立ち上る。禍々しい念が込められていたが、勝手に人間が施した類いのものなんぞ簡単に消してやった。彼の妻はあの男だけでなく、他にも随分と厄介な執着に捕らわれていたらしい。メイにとってはどうでもいいことだが、この髪飾りに付したのは面白くない。込めた人物は既に生きてはいないようだが、二度と彼らに縁ができないように呪文を唱えておいた。
 
 この髪飾りは昔々、メイがまだ女神メーデイアと呼ばれていたころに、父である主神からいただいた大切な物とそっくりだった。人間界に身を置きすぎて俗世に塗れてしまい、いつしか女神としての地位をはく奪されたときに消えてしまったもの。今さらあのころに戻りたい気持ちはないけれど、それでも懐かしむ気持ちは残っていたらしい。
「本来なら相手には記憶を残さず、知らない誰かが縋り付いてきて困惑させるのが好きなんだが」
 髪を括っていた紐を解いて髪飾りを付けると、なんとも言えない気持ちになるのは父への情なのか。普段は魔女だの悪魔だの言われているが、たまにはいいことをするのも悪くない。今日はそんな気分だった。メイは剣を鞘から抜くと男にしていたように話しかけた。
「いいものを貰った礼だよ。特別にあんたとのことを良いように思い出すようにしてやろう。言ってた通りの関係ならハッピーエンドになれるだろ。まぁ、嘘をついていたら知らないけどね」
 今回に限っては、呪術というよりも祝福だ。既に女神ではない自分にどこまで与えられるかは分からないが、悲しい結末を迎えた二人が誰にも邪魔されることなく幸せになれるように、遠く離れたところから祈ってやることにした。
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