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仁野(にの)が花奈(はな)から電話を受けたとき、すでに生ビールを三杯空けていた。
ふだんは監督の目もあって、チームでは飲酒厳禁。だが今日は特別、試合の勝利を祝う打ち上げだった。監督も黙認していたせいか、誰もが酒をあおって盛り上がっていた。
ビールに焼酎、日本酒まで入り乱れて、宴会は夜十時半を過ぎても終わらない。個室の中では誰かがくだを巻いて、大騒ぎだった。
仁野は酒には強い方だったが、さすがに頭がぼんやりしてきた。スマホが鳴り、震える指で何度か画面を押して、ようやく通話を受けた。
「……もしもし」
「お兄ちゃん……」
電話の向こうから聞こえてきたのは、今にも泣き出しそうな花奈の声だった。声が震えている。
「ヨウマが……別れようって……」
仁野は意外そうに眉をひそめ、こめかみを押さえたが、深刻には受け取らなかった。
ヨウマと花奈は三年以上付き合っていて、関係も安定していたはずだ。ただ、恋人同士の問題に外野が口を出すのも違うと思い、酔った頭で壁にもたれながら、なるべく優しくなだめた。
「泣くなよ。帰りにうまいもん買ってくからさ、な?」
だが花奈は返事をせず、電話も切らなかった。ただ、泣き続けていた。
妹に甘い仁野は、どうにもできずにそのまま電話を耳に当てながら、声を抑えて言った。
「どうした、なあ……泣くなって」
しばらくすると、急に泣き声が止んだ。電話の向こうが静まり返る。
ようやく落ち着いたのかと思い、仁野が口を開きかけたそのときだった。
花奈が低く落ち着いた声で言った。
「お兄ちゃん……でも、私、妊娠してるの」
仁野の目が見開かれた。
酔いと怒りが一気に吹き上がり、こみ上げる吐き気に襲われながら叫んだ。
「は? なんだって?」
返事も待たず、すぐに怒鳴る。
「ふざけんな、ヨウマのクソ野郎……畜生が……」
仁野は電話を切ると個室に戻り、「家に急用ができた」と無理やり説明して席を立った。監督だけはまだ冷静だったようで、心配そうに声をかけてきたが、仁野は首を振るだけで背中にバッグを背負って、部屋を出た。
――だが、そこで足が止まる。
廊下の突き当たりに、ヨウマがいた。
彼の隣には、小柄で繊細な女の子。親しげに寄り添い、ヨウマは笑いながらその子の髪を撫でている。
その光景に、仁野の視界が真っ赤に染まった。
怒りが身体中を駆け巡る。仁野は何も考えず、再び個室に戻ってビールジョッキを掴み、手に持って廊下に出た。
ヨウマはすでに消えていたが、仁野は気配で彼がトイレに向かったことを察する。
「ごゆっくり、トイレ行ってきます」という声が隣の部屋から聞こえた。
仁野は先回りしてトイレに入り、灯りを消した。
夜の十時半、トイレに人の気配はない。壊れかけた蛇口の音だけが、ポタポタと響く。
外から足音が近づいてくる。
ドアが開かれ、すぐ閉まる。中に入ってきたのはヨウマだろう。
彼は暗がりでスイッチを探していた。
「ヨウマか」
仁野は低く問いかける。
「……うん」
曖昧な返事が返ってくる。
次の瞬間、仁野は持っていたジョッキを、そのまま男の頭に叩きつけた。
ガシャアァン――
ガラスの砕ける音が響き、相手はうめき声をあげて蹲(うずくま)んだ。
仁野はその髪を掴んで引き起こすと、顔面に拳を二発食らわせ、壁に押し付けるようにして喉を締め上げた。
――だが、おかしい。
こいつ、やけに抵抗がない。
ヨウマなら、こんな風にされて黙っているようなやつじゃない。
押し付けられた背中がスイッチに触れ、パッと灯りがついた。
眩しい光に一瞬目を閉じ、そしてゆっくり目を開けた仁野の目に映ったのは――
ヨウマじゃ、なかった。
顔に血を流し、ガラスで何ヶ所も切り傷を負った男。
白いシャツはビールで濡れて身体に張り付き、痩せた体つきが浮かび上がっていた。顎には青紫のあざ、唇からも血が滲んでいる。
それでも、その男は静かに仁野を見ていた。
黒く澄んだ瞳が、どこまでも深く光っていた。
仁野の頭に、衝撃が走る。
――松田。
彼がずっと、思いを寄せていた人だった。
仁野(にの)が花奈(はな)から電話を受けたとき、すでに生ビールを三杯空けていた。
ふだんは監督の目もあって、チームでは飲酒厳禁。だが今日は特別、試合の勝利を祝う打ち上げだった。監督も黙認していたせいか、誰もが酒をあおって盛り上がっていた。
ビールに焼酎、日本酒まで入り乱れて、宴会は夜十時半を過ぎても終わらない。個室の中では誰かがくだを巻いて、大騒ぎだった。
仁野は酒には強い方だったが、さすがに頭がぼんやりしてきた。スマホが鳴り、震える指で何度か画面を押して、ようやく通話を受けた。
「……もしもし」
「お兄ちゃん……」
電話の向こうから聞こえてきたのは、今にも泣き出しそうな花奈の声だった。声が震えている。
「ヨウマが……別れようって……」
仁野は意外そうに眉をひそめ、こめかみを押さえたが、深刻には受け取らなかった。
ヨウマと花奈は三年以上付き合っていて、関係も安定していたはずだ。ただ、恋人同士の問題に外野が口を出すのも違うと思い、酔った頭で壁にもたれながら、なるべく優しくなだめた。
「泣くなよ。帰りにうまいもん買ってくからさ、な?」
だが花奈は返事をせず、電話も切らなかった。ただ、泣き続けていた。
妹に甘い仁野は、どうにもできずにそのまま電話を耳に当てながら、声を抑えて言った。
「どうした、なあ……泣くなって」
しばらくすると、急に泣き声が止んだ。電話の向こうが静まり返る。
ようやく落ち着いたのかと思い、仁野が口を開きかけたそのときだった。
花奈が低く落ち着いた声で言った。
「お兄ちゃん……でも、私、妊娠してるの」
仁野の目が見開かれた。
酔いと怒りが一気に吹き上がり、こみ上げる吐き気に襲われながら叫んだ。
「は? なんだって?」
返事も待たず、すぐに怒鳴る。
「ふざけんな、ヨウマのクソ野郎……畜生が……」
仁野は電話を切ると個室に戻り、「家に急用ができた」と無理やり説明して席を立った。監督だけはまだ冷静だったようで、心配そうに声をかけてきたが、仁野は首を振るだけで背中にバッグを背負って、部屋を出た。
――だが、そこで足が止まる。
廊下の突き当たりに、ヨウマがいた。
彼の隣には、小柄で繊細な女の子。親しげに寄り添い、ヨウマは笑いながらその子の髪を撫でている。
その光景に、仁野の視界が真っ赤に染まった。
怒りが身体中を駆け巡る。仁野は何も考えず、再び個室に戻ってビールジョッキを掴み、手に持って廊下に出た。
ヨウマはすでに消えていたが、仁野は気配で彼がトイレに向かったことを察する。
「ごゆっくり、トイレ行ってきます」という声が隣の部屋から聞こえた。
仁野は先回りしてトイレに入り、灯りを消した。
夜の十時半、トイレに人の気配はない。壊れかけた蛇口の音だけが、ポタポタと響く。
外から足音が近づいてくる。
ドアが開かれ、すぐ閉まる。中に入ってきたのはヨウマだろう。
彼は暗がりでスイッチを探していた。
「ヨウマか」
仁野は低く問いかける。
「……うん」
曖昧な返事が返ってくる。
次の瞬間、仁野は持っていたジョッキを、そのまま男の頭に叩きつけた。
ガシャアァン――
ガラスの砕ける音が響き、相手はうめき声をあげて蹲(うずくま)んだ。
仁野はその髪を掴んで引き起こすと、顔面に拳を二発食らわせ、壁に押し付けるようにして喉を締め上げた。
――だが、おかしい。
こいつ、やけに抵抗がない。
ヨウマなら、こんな風にされて黙っているようなやつじゃない。
押し付けられた背中がスイッチに触れ、パッと灯りがついた。
眩しい光に一瞬目を閉じ、そしてゆっくり目を開けた仁野の目に映ったのは――
ヨウマじゃ、なかった。
顔に血を流し、ガラスで何ヶ所も切り傷を負った男。
白いシャツはビールで濡れて身体に張り付き、痩せた体つきが浮かび上がっていた。顎には青紫のあざ、唇からも血が滲んでいる。
それでも、その男は静かに仁野を見ていた。
黒く澄んだ瞳が、どこまでも深く光っていた。
仁野の頭に、衝撃が走る。
――松田。
彼がずっと、思いを寄せていた人だった。
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