歌舞伎役者に恋をしました。

野咲

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第1章

相模屋 井筒紋四郎家本邸

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 伏見深草は京の外れとはいえ、藤森の杜に守られた歴史ある里である。駈馬、墨染桜に、深草少将。深草名物は数あれど、芝居好きにとって深草といえば、相模屋さがみや井筒紋司郎いづつもんしろうであろう。
 歌舞伎役者井筒紋司郎がこの地に居を構えたのは先代の時である。空襲で大阪を焼け出されこの深草に移った十二代目は、戦後も大阪に戻ることはなかった。美しいこの里を気に入ったのだろう。代替わりした今も、井筒紋司郎は背後に山を控えたこの邸宅で暮らしている。

 山茶花さざんかが咲き誇る裏庭に面した和室で、紋司郎の弟幸弥ゆきやが、一門の弟子に熱の入った指導を行っていた。
「好いた男と添うのじゃもの、在所は愚か、貧しい暮らしでも、何の苦になりましょう」
「何の苦になりましょう。……そこはもっと愛らしゅう言わなあかんで」
「何の苦になりましょう」
「あなたのおかるはちょっと暗いわな。勘平と別れるのは辛い。けど、芝居の最初からめそめそしたらあきません。家族で仲良う暮らしてる明るい生活を見せるから、勘平と別れる悲劇が引き立つんや」
「好いた男と添うのじゃもの、在所は愚か、貧しい暮らしでも、何の苦になりましょう」
「あんまりようないな」
 難しい顔をされて、紋司郎の弟子・井筒綾之助あやのすけの焦りは増した。

 稽古しているのは「仮名手本忠臣蔵」六段目のおかるである。
 今年の南座顔見世で、綾之助は「仮名手本忠臣蔵」の五段目、六段目のおかるを演じるのだ。この場面のおかるは、セリフは多くないが重要な役だ。顔見世という大事な本興行でおかるを演じられるというのは、綾之助のようないわゆる「お弟子さん」には信じられないほどの大抜擢であった。
 稽古をつける二代目井筒幸弥は、相模屋随一の女方である。綾之助におかるの役がついたのを心底喜んで、忙しい合間を縫ってこうやって稽古をつけてくれているのだった。
 幸弥の指導は細かく丁寧だ。一つ一つの型まで手とり足とり教えてくれるのを、必死になって覚える。しかし、やはりメモをしなければ忘れてしまうので、教えてもらうのを脇で聞いて、メモをする人間が必要だった。普段なら弟弟子か、同格くらいの弟子に頼むのだが、今回は紋司郎の孫である井筒知八ちはちがその役目を買って出てくれた。

「そろそろ時間やから終わりましょうか」
 はたと扇を置いて、幸弥がつぶやくように言った。気づけば幸弥が外出する時間である。本来なら綾之助が時間を気にしなければならなかったのに、稽古に夢中になるあまり気づかなかったのだ。
「気が回りませんで申し訳ありません。ありがとうございました」
 三つ指ついて挨拶すると、幸弥が軽くうなずいた。
「綾之助さん。私、明日の朝やったら時間取れるんやけど、大阪の家まで稽古に来てもらえる?」
「はい。必ず参ります」
「じゃあ待ってます」
「大叔父さん、今日はどこへ行かはるのん?」
 いそいそと帰り支度をする幸弥に、知八が問いかけた。
「祇園や。ご贔屓さんにご招待してもろたんやから、今日は連れて行かれへんで」
「誰も、そんなん云うてやしません」
 拗ねたように言う知八は、あわよくばついていこうと思っていたに違いない。
「知八さんも本役の稽古しなはれ」
「はい」
 やや不服そうな顔をしながら、素直に知八は返事した。
「タクシー呼んできます」
「ええわ。駅まで歩いていくから。ほな、また明日な」
 送ろうとする綾之助を目線で制して、慌ただしく幸弥は出て行った。
 綾之助は知八に向き直って、丁寧にお辞儀した。
「ぼんも、お付き合いいただいて、ありがとうございました」
「ええんよ。僕も勉強になるから。はい、これノート」
 綾之助が礼を述べると、知八はなんでもないように言った。真面目だなあ、と綾之助は感心する。知八は二〇歳。大学の同級生たちは遊びまわっているだろうに、芸に対するこの姿勢は偉いと思う。
「ぼんは、おかるをやってみたいんですか?」
「そやな。いっぺんはやってみたい。でもそれ以上に、綾之助のおかるで勘平をやりたいなあ」
「ええ!」
「でもそれはまだ先の話やな。僕が看板役者になったら、綾之助のことは引き立てたるし」
 カッコつけてそんなことを言うので、綾之助は思わず笑ってしまった。
「ほんなら、よろしゅう頼みますわ」
 綾之助が聞き流したので、知八は少し気を悪くしたようだった。
「ほんまに言うてるんよ。戯言ちゃうし」
 ムキになって言い募るのがまた、どうにも子どもっぽく見えて、綾之助は笑みを抑えきれない。
 綾之助が紋司郎に入門した頃には、知八はまだ幼稚園児だった。ぷくぷくした手足に、りんごのように真っ赤な頬っぺ。すっかり男振りの上がった今でも、綾之助の目には知八はかわいいぼんちのままに映る。
「戯言やないのはよう分かってます。ぼんはいつかは大相模になるお人や」
「分かってんねやったらええ」
「でも精進しなあきませんで」
「分かってる。今から稽古するんや」
 ぶすっとむくれているのは、立役を望んでいたのに顔見世で付いた役がまたも女方だったからだろう。
 上方の役者は立役・女方を兼ねることも多く、特に若いうちは女方の芸を磨かされる。年若い上に器量もよい知八は、可愛らしい女方として最近注目されており、全く立役がつかなくなっていた。
「ほな、お邪魔しました。失礼いたします」
「え、もう帰んの?」
「はい。うちも稽古せなあかんし」
「おじいさまが帰ってくるの、待ったほうがええんちゃう?」
「今日、文楽さんに行ってくる言うてはりましたから、まだ帰ってきはらへんと思います。大阪泊まらはるかも」
「そうか」
 どこかしょんぼりとして知八が言う。
「じゃあ駅まで送るわ。僕、コンビニで買いたいものあるし」
「何を言いますのん。今から稽古しはるんでしょ」
 小言めいたことを言うと、たちまち知八の機嫌が下降した。
「もー、うるさいなあ、綾は! 分かった、稽古するわ! ほなまたな!」
 ずんずんと足音も高く奥へ引っ込む知八を見送って、綾之助は帰り支度をはじめた。
 初日まであと幾日もない。この大きなチャンスを生かすためにも、そして幸弥の期待に応えるためにも、一分一秒も無駄にしてはいられなかった。
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