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第3章
決意
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翌日の舞台稽古、綾之助は並々ならぬ覚悟で挑んだ。やりにくさは相変わらずだったが、明らかに心の持ちようの変わった綾之助は三也の演技に乱されることはなかった。
板についたら、あの人は三也さんやのうて、小春なんや。
そう思うと、自分でもびっくりするくらい、その人のことがかわいそうで健気で、愛おしく思えた。多少の愛想の悪さも、小春が置かれた切ない状況を思えば仕方のないことだと思い、自然に小春を支えてやろうという気持ちが湧いてくる。
綾之助は夢中でお庄を演じた。これがまだ稽古であること言うことを忘れてしまうほどの熱の入れようだった。
出番を終えて、急いで綾之助は客席へ出る。本番が始まってしまえば、客席から蓮十郎の治兵衛を見ることは叶わない。綾之助は河庄の治兵衛が好きだった。情けなくて、頼りなくて、でも憎めない人。蓮十郎の治兵衛はかわいらしい。
客席に行くと、いつの間に来たのか、杉内専務が楽しげに舞台を見守っていた。
「やあやあ、綾ちゃん。なかなかのお庄やったわー」
稽古中なので、抑えた声音で専務が言う。
「ありがとうございます」
無言で専務が隣の座席を軽くぽんぽんと叩いたので、綾之助は恐る恐るその席に腰掛けた。
「僕な、『河庄』好きやねん」
綾之助に顔を寄せて、専務が言う。
「ほんまですか。うちも好きなんです」
思わず綾之助は勢い込んで答えた。
「うち、子どもの頃、音右衛門さんの治兵衛見て、かわいらしゅうてたまらんと思いました。蓮十郎さんの治兵衛もかわいらしゅうて、うち大好きなんです」
「そやろう。蓮十郎の治兵衛には、これぞ上方っていう、匂いがあるやろ」
こんなことを言っているが、この杉内専務は元々は東京の人である。大阪事業部担当になって大阪に移り住んでから十年以上の年が立ち、すっかり大阪弁をあやつるようになったお人だ。
そんな杉内専務の目下のお気に入りが、他ならぬ井筒綾之助であった。この人の引き立てなくして、綾之助のこの大抜擢はなかっただろう。
「ところで、綾ちゃん。なんか困ったことないか」
さっきよりさらに小さい声で専務に尋ねられた。この人も、さすがに今の綾之助のなかなかにしんどい立場は理解しているようだ。
「いえ、大丈夫です」
「……そうか」
専務はしばらくじっと綾之助の顔を見ていた。
「それやったらええねん」
そう言って、おもむろに専務は立ち上がり、出ていこうとする。
「あら、もう帰られますの」
幸弥が声をかけると、専務は笑顔で答えた。
「うん。蓮十郎の演技がいいのは、よう分かってるから、見んでもええねや」
要は、綾之助を心配して見に来たのである。
それにしても、綾之助以外は目に入っていないかのようなこの言動。これはまた、ひと波乱ありそうやな、と綾之助は専務の後ろ姿を見送りながらため息をついた。
案の定、後から専務の発言を聞いた三也のご機嫌は斜めだった。小春をやっている三也の演技に関してなんの発言もなかったのもさらに彼の不機嫌に拍車をかける。
舞台装置のチェックを待つあいだにも、聞えよがしの悪口は止まらなかった。
「そもそも、あの人のあの子への執着はちょっとおかしくない?」
「そうですねぇ」
三也の弟子が同調する。
「まあ、仕方ないかしら。あの人、あの子の襦袢の柄まで知ってるから」
「……はぁ」
弟子は気まずそうに返事をした。
言われて、綾之助は頭に血が昇った。肌着の柄を知っている。つまり、綾之助が専務に枕をしていると言っているのだ。
怒鳴りつけてやりたい、と思う。しかし、それは綾之助の立場では絶対にできないことだ。向こうは和泉屋の若旦那である。どんな理不尽があっても、平名題の綾之助は耐えるしかない。
しかし、あまりにこれは。そもそも、専務をも侮辱している!
「三也兄さん、あの人って誰のこと?」
実は客席の端にずっと居た井筒知八が、三也とその弟子の後ろの席からひょっこりと顔を出して言った。
「あ、あら知八さん」
「ねぇねぇ、誰のことです?」
わざわざぼかして喋っているのにそこに切り込んでいくあたり、とても京都人とは思えない恐るべき所業である。
「知八さん、今回はごめんなさいね。私なんかでは知八さんの代わりは務まらないと何度もお断りしたんだけど」
「そんなことないです。ええ小春でした。勉強させていただきました」
「ああ、私これからかつら合わせがあるので、失礼しますね」
そう言って三也はそそくさと出て行った。
「大丈夫か」
心配そうに声をかけてくれる知八。昨日のことを蓮十郎あたりから聞いているのだろう。しかし綾之助は昨日から続く三也の嫌がらせにいい加減怒りを覚えていて、知八が心配するほどしょぼくれてはいなかった。
「しょうもない。あんなん、なんとも思いません」
「おお! 元気やな、綾之助」
知八がなぜか手を叩いて喜んだ。
悔しかった。この世界に入って、理不尽な思いもたくさんしてきて、今のようなことを言われるのも初めてではないけれど、こんなことに慣れることはできない。
「ぼんにも言われましたから。うちは、もうこんなことでへこたれてる場合やないですし。精一杯ええ芝居をするだけや」
「綾、えらい急にかっこようなって……」
「ぼん、今月の芝居、楽しみにしといてください」
綾之助は自信満々に言った。
板についたら、あの人は三也さんやのうて、小春なんや。
そう思うと、自分でもびっくりするくらい、その人のことがかわいそうで健気で、愛おしく思えた。多少の愛想の悪さも、小春が置かれた切ない状況を思えば仕方のないことだと思い、自然に小春を支えてやろうという気持ちが湧いてくる。
綾之助は夢中でお庄を演じた。これがまだ稽古であること言うことを忘れてしまうほどの熱の入れようだった。
出番を終えて、急いで綾之助は客席へ出る。本番が始まってしまえば、客席から蓮十郎の治兵衛を見ることは叶わない。綾之助は河庄の治兵衛が好きだった。情けなくて、頼りなくて、でも憎めない人。蓮十郎の治兵衛はかわいらしい。
客席に行くと、いつの間に来たのか、杉内専務が楽しげに舞台を見守っていた。
「やあやあ、綾ちゃん。なかなかのお庄やったわー」
稽古中なので、抑えた声音で専務が言う。
「ありがとうございます」
無言で専務が隣の座席を軽くぽんぽんと叩いたので、綾之助は恐る恐るその席に腰掛けた。
「僕な、『河庄』好きやねん」
綾之助に顔を寄せて、専務が言う。
「ほんまですか。うちも好きなんです」
思わず綾之助は勢い込んで答えた。
「うち、子どもの頃、音右衛門さんの治兵衛見て、かわいらしゅうてたまらんと思いました。蓮十郎さんの治兵衛もかわいらしゅうて、うち大好きなんです」
「そやろう。蓮十郎の治兵衛には、これぞ上方っていう、匂いがあるやろ」
こんなことを言っているが、この杉内専務は元々は東京の人である。大阪事業部担当になって大阪に移り住んでから十年以上の年が立ち、すっかり大阪弁をあやつるようになったお人だ。
そんな杉内専務の目下のお気に入りが、他ならぬ井筒綾之助であった。この人の引き立てなくして、綾之助のこの大抜擢はなかっただろう。
「ところで、綾ちゃん。なんか困ったことないか」
さっきよりさらに小さい声で専務に尋ねられた。この人も、さすがに今の綾之助のなかなかにしんどい立場は理解しているようだ。
「いえ、大丈夫です」
「……そうか」
専務はしばらくじっと綾之助の顔を見ていた。
「それやったらええねん」
そう言って、おもむろに専務は立ち上がり、出ていこうとする。
「あら、もう帰られますの」
幸弥が声をかけると、専務は笑顔で答えた。
「うん。蓮十郎の演技がいいのは、よう分かってるから、見んでもええねや」
要は、綾之助を心配して見に来たのである。
それにしても、綾之助以外は目に入っていないかのようなこの言動。これはまた、ひと波乱ありそうやな、と綾之助は専務の後ろ姿を見送りながらため息をついた。
案の定、後から専務の発言を聞いた三也のご機嫌は斜めだった。小春をやっている三也の演技に関してなんの発言もなかったのもさらに彼の不機嫌に拍車をかける。
舞台装置のチェックを待つあいだにも、聞えよがしの悪口は止まらなかった。
「そもそも、あの人のあの子への執着はちょっとおかしくない?」
「そうですねぇ」
三也の弟子が同調する。
「まあ、仕方ないかしら。あの人、あの子の襦袢の柄まで知ってるから」
「……はぁ」
弟子は気まずそうに返事をした。
言われて、綾之助は頭に血が昇った。肌着の柄を知っている。つまり、綾之助が専務に枕をしていると言っているのだ。
怒鳴りつけてやりたい、と思う。しかし、それは綾之助の立場では絶対にできないことだ。向こうは和泉屋の若旦那である。どんな理不尽があっても、平名題の綾之助は耐えるしかない。
しかし、あまりにこれは。そもそも、専務をも侮辱している!
「三也兄さん、あの人って誰のこと?」
実は客席の端にずっと居た井筒知八が、三也とその弟子の後ろの席からひょっこりと顔を出して言った。
「あ、あら知八さん」
「ねぇねぇ、誰のことです?」
わざわざぼかして喋っているのにそこに切り込んでいくあたり、とても京都人とは思えない恐るべき所業である。
「知八さん、今回はごめんなさいね。私なんかでは知八さんの代わりは務まらないと何度もお断りしたんだけど」
「そんなことないです。ええ小春でした。勉強させていただきました」
「ああ、私これからかつら合わせがあるので、失礼しますね」
そう言って三也はそそくさと出て行った。
「大丈夫か」
心配そうに声をかけてくれる知八。昨日のことを蓮十郎あたりから聞いているのだろう。しかし綾之助は昨日から続く三也の嫌がらせにいい加減怒りを覚えていて、知八が心配するほどしょぼくれてはいなかった。
「しょうもない。あんなん、なんとも思いません」
「おお! 元気やな、綾之助」
知八がなぜか手を叩いて喜んだ。
悔しかった。この世界に入って、理不尽な思いもたくさんしてきて、今のようなことを言われるのも初めてではないけれど、こんなことに慣れることはできない。
「ぼんにも言われましたから。うちは、もうこんなことでへこたれてる場合やないですし。精一杯ええ芝居をするだけや」
「綾、えらい急にかっこようなって……」
「ぼん、今月の芝居、楽しみにしといてください」
綾之助は自信満々に言った。
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