歌舞伎役者に恋をしました。

野咲

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第3章

二月花形歌舞伎

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 二月の大阪は珍しく冷え込み、人で賑わう道頓堀でさえ、人々は寒さに足早である。
「うーん」
 楽屋入りして蓮十郎に挨拶に行くと、彼は思案顔でパソコンを眺めていた。
「なにをなさってるんですか」
「綾ちゃん、これ見てみ」
 そう言って見せられたのは、会社のチケット予約サービスの画面である。
「もう初日の幕が開くというのに、ほとんどの日の空席状況が〇(空席有り)のまんまや! △(残席わずか)ですらない!」
「まあ、大阪も急に冷え込んできましたからねぇ。客足が鈍るのもしゃあないんちゃいますか」
「いや、そりゃそやけど、さすがに〇はアカンで」

 蓮十郎は関西ではなかなか名前も売れている人気の役者だが、やはり一人だけの人気で一ヶ月間客席を埋め続けるというのは難しいところがあった。さらに一月には大阪では年に一、二度しかない大歌舞伎が興行されたばかりである。ある意味ドライな大阪の歌舞伎ファンの財布の紐が締まるのも無理のないところだ。
「蓮十郎さん、ここまで来たら、じたばたしてもしゃあないです。ええ芝居を毎日重ねていったら、中日を過ぎる頃にはお客さんも増えてくるでしょう」
「いやー、綾ちゃんも言うようになったね!」
 蓮十郎は感心しきりの様子だ。
「綾ちゃんのおかげでちょっと元気出たわ」

 とは言え、綾之助も客の入りが全く気にならないわけではなかった。
 初日こそご贔屓さんの入りが多く賑わったけれど、二日目からは舞台に上がってみると、空席が明らかに目立った。
 客の入りが悪ければ、楽屋の雰囲気は普通悪くなるものだけれど、ああ見えて気遣いの蓮十郎がなにかにつけて心配りをするので、意外と役者たちは和気藹々とやっていた。普段振られないような大役を振られた若手役者たちも気合充分で、芝居の出来はむしろ非常に良かった。それだけに客入りの悪さにはもどかしさが募る。

 六日目のことである。
 舞台袖で出を待つ綾之助のところに蓮十郎が寄ってきて言った。
「今日は客席が静かやなあ。大向うさん、一人も来てはらへん」
 たしかに今日は一回も客席からの大向うが掛かっていなかった。地元大向うにも絶大な支持を集める蓮十郎の興行で大向うの客が一人もこないのは珍しいことではあるが、平日の昼の部であるし、たまにはそういう日もあるだろう。
「そうですねえ」
 綾之助はあまり何も考えず、相づちを打った。
「ついに大向うさんにも愛想をつかされたんやろか」
 冗談めかしてはいるが、蓮十郎はそんな弱気なことを言った。この人でもこんな風に弱ったりすることがあるんやな、と綾之助は驚いた。しかしさすがに考えすぎである。大向うさんたちだって、全員の都合の悪い日の一日や二日はあるだろう。興行中に一回も来ないんなら愛想をつかされたんだと思うが。もっと自信を持ってほしい、と綾之助は思った。この人の治兵衛は本当に素晴らしいのだ。その治兵衛を引き立てたい、と綾之助は心から思った。
「蓮十郎さん。今日もきっとええ舞台にしましょう。見る人はちゃんと見てはります」
 蓮十郎は少し驚いたようだったが、すぐに優しく笑って「ありがとう」と言った。


 「河庄」は昼の部最後の演目である。小春役の三也が出ても、やはり「和泉屋!」の大向うは掛からなかった。蓮十郎がえらく気にしているから、最後の演目だけでも大向うさんが来てくれたらいいな、とは思ったが、まぁ、気にすることはない。そう思って綾之助は障子の裏で出番を待った。
 障子を開けて舞台へ出る。小春の前へ出て、さぁ挨拶をしようとしたその時、沈黙していた三階席から声が飛んだ。
「相模屋!」
 綾之助は一瞬驚いた。しかし、すぐに気を取り直して役に入る。
「マァ小春さん。ここに居なしゃんしたかいな。マァえろう待たせてすみませんな。おっつけお客さまも見えるでござんしょ」
 綾之助は演技をしながら、内心ドキドキしていた。蓮十郎は今日、大向うが来ていないと言っていた。つまり前の演目では蓮十郎にさえ声が掛からなかったということだ。しかし、先ほど綾之助には大向うからの声がかかった。大向うのお客さんが「河庄」だけ観に来た可能性もある。しかし、もしこのまま綾之助にしか声がかからなかったら…。
 もうすぐ、小春を身請けしようとしている太兵衛が登場する。この場面で太兵衛は、恋のライバル治兵衛と小春の恋物語を面白おかしく義太夫節に仕立てて茶化して語るのである。太兵衛の役は、去年名代昇進披露したばかりの綾之助の兄弟子が勤めていた。これだけの大役を演じるのは初めてのことだ。相模屋贔屓の大向うなら、この見せ場で必ず声を掛けてくれるはずである。
 ところが、太兵衛に「待ってましたぁ!」のお声は掛からなかった。
 まあ、それでもいい。それでもいいが、しかしさすがに蓮十郎には声を掛けるだろう。相模屋贔屓なら絶対にそうする。いや、たとえ、おこがましい考えだが、相模屋でなく、綾之助個人を贔屓にしている大向うだったとしても、そこは綾之助の立場を慮って、蓮十郎にも声をかけるはずだ。
 綾之助は祈るような気持ちで、蓮十郎の出を待った。
 待ちに待った、蓮十郎の出を知らせるチャリン。花道を蓮十郎扮す治兵衛が歩いていく。

 しかし、やはり大向うからの掛け声はなかった。

 座頭や立女形を差し置いて、自分だけが声を掛けられるというのは、非常に気まずい。出番終わりに蓮十郎に挨拶に行くと、いつもは気軽に返事をしてくれるのに、蓮十郎も何を言っていいかわからなかったようで、しばらく二人無言で見つめ合ってしまった。
「すみませんでした」
 綾之助がやっとそう言うと、蓮十郎は思わずといった様子で吹き出した。
「いやあ、さすがやな、綾ちゃん。見る人は、ちゃんと見たはるわー。綾ちゃんの言う通りやな!」
 と以前に綾之助が言っていたことばを使って、茶化してくれた。

 出番が終わって、化粧を落としていると、楽屋口から電話がかかってきた。
「葦嶋拓真さんがいらっしゃってます」
 綾之助は思わずうなった。
 今月は上置きとして紋司郎の長男、喜久弥も出ていた。葦嶋の人として、まず喜久弥の楽屋見舞いに行って欲しい。
「どないしたんや」
 楽屋が同室の太兵衛役・紋之助が問いかけてきた。
「兄さん、どないしよう」
 綾之助は紋之助に泣きついた。

 話を聞いて、紋之助はきっぱりと言った。
「お断りしぃ。はっきり言わな、向こうさんも分かりはらへん」
 綾之助は紋之助のアドバイスに従い、喜久弥の楽屋へ行くようお願いしてもらった。
「あんたもあんな、出すぎたマネをするから、こういうややこしいことになんねんで」
 食事会での拓真への馴れ馴れしい態度を紋之助に怒られていると、再び電話が鳴った。
「葦嶋さんからお手紙をお預かりしてます」
 仕方なしに綾之助は手紙を取りに行った。

 何が書いてあるのか。紋之助の前で開封する勇気がなかったので、綾之助はトイレの個室にこもってこっそり手紙を読んだ。
「突然すみません。ご都合がつけば、今夜お食事でもどうですか」
 最後には携帯番号。
「これはアカン。紋之助兄さんには見せられへん」
 言うたら殺されてまう。
 綾之助は本当に悩んだ。今日断っても、また誘ってきはりそうな気がするし…。
「一度お会いして、はっきりお断りしよう」
 そう決心して、綾之助は拓真に電話をした。
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