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第36話 経験値
しおりを挟むキスなんてしたことなかった。僕の人生は、まだその域に達してない。関係ないものだと考えていた。
だから、昨夜酔っぱらって管を巻く僕に、晄矢さんがしてくれたのが初キスだった(そのあとのことがトラウマだが)。
今、事務所の洗面所で、僕は人生三回目のキスをしてる。しかもかなりディープな。
「涼……」
ため息をつくように僕の名を呼ぶ。耳たぶに熱い息がかかった。
「あの……あの……」
僕はもう立っていられなくなってる。膝が今にも抜けそうだ。
「どうした……?」
優しく問いかけられる。
「こんなこと……初めてで……」
恥ずかしいけど、本当のことだ。まるで女子高校生みたいに僕はおびえてる。自分がどうなっちゃうのか怖いんだ。
「え? あ、ああ、そうなんだ」
笑われたかな。ほとんど密着していた体がすっと離れる。晄矢さんの向こうに大きな鏡があって、乱れた髪と真っ赤な僕の顔が映っている。僕は慌てて髪を直した。
「驚かせちゃったね」
「すみません。ガキみたいで……」
経験値が低すぎて、どう対処していいのかわからない。こんな僕に呆れたかもしれないな。
「いや、そんなことはないよ。俺こそ焦りすぎだな。面目ない」
晄矢さんは僕の髪を梳くように撫ぜる。その仕草にも僕はドキドキして息苦しくなるよ。
「怖がらなくていいから。誰にだって初めてはあるし……俺も盛りの付いた猫みたいな真似はしない。誓うよ」
目を細め、晄矢さんは柔らかい笑みを僕に向けてくれた。変わらず息苦しいし心臓はどっかに行っちゃいそうなほどドンドンいってるけど、暗示をかけられたようにホッとする。
『誓うよ』の言葉がそのまま信用できてしまった。
「ありがとう……」
「ん……」
晄矢さんは僕の前髪を手のひらで上げると、そっとその形の良い唇を寄せた。ちゅっと小さな音が鳴る。
「さ、今日はもう閉店だ。どこか美味いものでも食べて帰ろう」
「あ、うん」
夢見心地はまだ続く。僕の足元は相変わらずクッションかなにかのようにふわふわとしていた。
食事は晄矢さんお勧めの蕎麦屋に連れて行ってもらった。小綺麗でスタイリッシュなお店で蕎麦屋って感じじゃなかったけど、手打ちの蕎麦は腰があってすごく美味しかった。
それに天ぷら食べ放題で。毎日こんないい食事してたら、太りそうだ。
「涼はやっぱり痩せてるよな。もう少し太ったほうがいい。筋肉つけるのもまずそっちが先だ」
なんて晄矢さんに言われた。晄矢さん自身はたまにジムに行ってるらしい。だからあんなに胸厚なんだな。
「抱きしめたら……折れそうだったからな」
湯飲み茶わんを片手にそんなこと言う。僕はまた真っ赤になって俯くしかなかった。
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