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第98話 涙の筋(ミレン視点)
しおりを挟む「どうして僕のことを話されなかったですか。明日にでも、役所に出向きます」
時計の針が12の位置で重なり合う、深夜の昭和荘。どこもみな寝静まっているのだが、204号室では、ダイニングテーブルを挟んでミレンが成田の話を聞いていた。
ミレンが出したペットボトルの水を飲みながら、成田は区役所での出来事をポツリポツリと話す。それはミレンにとっても、腹立たしさに身を震わす内容だった。
「いえ、それには及びません。ミレンさんにご迷惑です」
「僕は迷惑なんて思ってませんよ」
憤るではないが、ミレンは語気を強めて言った。
「ありがとうございます。でももう、いいんです。私……辞表を出すつもりです」
「え?」
このままだと、言われのないことで何らかの処分が出るかもしれない。そのためには、ミレンが目撃証言をして、彼女に非がないことを、というか、下川の方こそ問題があったと証明するしかない。それは十分に勝算があるとミレンは考えていた。
「前に言いましたよね。懲罰人事の件」
最初に彼女とじっくり話した時、成田が支援室に異動したいきさつを確かに聞いた。彼女の前上司が逆恨みをして異動させたのだと。
「ええ。誘いを拒否したのを逆恨みされたと」
「はい。今日の室長の言葉から、それは真実だったってわかったんです。もう、なんか、もういいかなって。生活のために我慢しようと思ってたけど、自分をここまで侮辱されて……」
その後は言葉にならない。自分の性を誰にも理解されず、傲慢だと逆恨みばかりされている。
「成田さん……」
「ミレンさんは、好きな人がおられるんですよね。その方に想いが伝わらなくてつらいのでしょう?」
成田はちらりと白い背中を見せている写真に視線を送った。いや、ミレンがそう思っただけかもしれないが、剥がされかけた大きな写真が、ミレンの後ろからチクチクと刺す。
「気分を害されるかもしれませんが。私は羨ましいんです。そんなことすら、私には想像するしかない。私は、誰も好きになれない」
ペットボトルをギュッと両手で握りしめ、成田は俯いた。
「でも、それはそんなに悪いことですか? 私の人格を否定するほど?」
「成田さん。そんなことはない。あってはいけないことです」
ミレンはそっと成田の手をペットボトルごと包む。触れるか触れないかの微妙な位置で。
「今まで、誰にも言えないできました。今回も、話そうかと思いましたが……大抵誰も信じない。信じようともしないので……言い出せなかった……」
ミレンは小さく息を吐いた。彼女の痛みを、自分自身も実は理解できていない。それは当事者しかわからない痛みなのだ。けど、その事実はわかる。
「成田さん。僕もその、辞職については消極的に賛成します。消極的というのは、僕が成田さんの生活に対して無責任だからです。けど……」
「けど?」
成田はミレンが触れた両手を自然に受け入れていた。嫌じゃなかった。むしろ、暖かさを感じている。成田は顔を上げ、ミレンのクルリンまつ毛を見た。
「成田さんがストレスなく働ける場所、多分あるんじゃないかなって思うんです。例えば、成田さんが好きなもの……花、とか」
「花……ですか」
成田の幼い頃の夢は、『お花屋さんになる』だった。それがいつしか、子供っぽい夢とか、大卒で花屋なんて学費が無駄とか、なんだか頭の隅の方へ追いやっていた。
それが今、どうしてそうしなかったのかと思えるくらい、心の真ん中にやってきた。
「考えてみよう……かな」
この部屋に来て、初めて成田は笑顔を見せた。頬にいくつもの涙の筋を作りながら。
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