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第106話 それぞれの土曜日(多視点)
しおりを挟む104号室
土曜日の朝、田中とアスランがバイトに向かっている頃、成田は自宅のパソコンの前にいた。画面で履歴書を作成中だ。
『退職届ってどういうことだ。私に対する嫌がらせか?』
下川からのクレームから数えて3日後。成田は退職届を手に室長席に向かった。一礼して差し出すと、椅子をガタつかせて驚いている。
――――嫌がらせとか……どうしてそういうふうにしか考えられないの。
成田は泥酔してミレンの部屋に突撃してから、2日間休みを取った。そして、決心した。
『他意はありません。納めてください』
『しかし、君。そんな急に言われてもだな』
『退職は規定通りひと月後です。2週間は有休がありますのでそれまでの2週間、引継ぎをします。御迷惑をおかけしますが、気持ちは変わりませんので』
室長は苦虫を嚙みつぶしたような顔で口をへの字にした。
『パソコンで申請済みです。承認をお願いします』
『だが……』
昨今では、退職を代行させ、その日から来なくなることもあるという。それと比べるのはどうかと思うが、ひと月前に申告したのだから十分だろう。
成田にしてみれば、今すぐ辞めてしまいたいのを我慢して、こうして筋を通しているのだ。
『承認していただけないのなら、人事に直接話に行きますが、よろしいですか』
『え……』
成田がどうして退職届を出したか。間抜けな室長にも見当はついていた。それは誤解と言いたいが、自分の評価にケチが付くことは避けられない。
ここは穏便に退職させるのがいいだろうと、ようやく計算ができた。
『わかった。じゃあ、引継ぎよろしく』
それだけ吐き捨てると、フンと鼻を鳴らしてパソコンの画面に向かった。
――――ようやく、あの懲罰部屋から逃げ出せた。馬鹿よね。いつでもドアは開いてたのに。自分さえその気になれば……。
新たな仕事、今度こそ自分が安心して働ける場所を探す。成田は新たな未来に足を踏み出した。
202号室
沙知子はクローゼットと姿見の間を、朝から何往復もしていた。まだまだ残暑厳しい時期だが、そうは言っても夏服は嫌だ。
秋の気配を感じるような色、デザインで、しかも暑くならないような……。
――――この時期の服選びって、本当に難しいのよ! 困ったなぁ。
明日、田中と映画を見に行く。その後、ランチも行こうと約束している。
あの夏祭りの夜、お互いの気持ちを確かめあったわけではない。そればかりか、怪我の手当をするという沙知子の誘いを断って、田中はアスランと部屋に戻っていったのだ。
――――田中さんらしいっていえば、らしいけど……。
やっぱり恋愛感情はないのかも、と落ち込んでいたのだが……。
――――でも助けてもらったのだから、ここは諦めてる場合じゃないっ。
沙知子はバイト帰りの田中を捕まえて、お礼をさせてくれと詰め寄った。そう、文字通り、逃がさないとばかりに。
『じゃ、じゃあ、映画にでも行きませんか?』
田中も腹を括ったのか、予想以上の答えが返って来た。なんか本でも買ってくれとかでお茶を濁されるかもと危惧していたからだ(その場合は、絶対却下して食事を誘うつもりだった)。
『映画! いいですねっ。是非!』
デートだぁ! しかも初デート! 沙知子が舞い上がったのは言うまでもない。というわけで、デート前日の今日も、その準備に余念のない沙知子であった。
101号室
目の前には将棋盤がある。三段リーグに昇級した時、父親が買ってくれた足つきの将棋盤だ。その盤上に、大貫は大橋流で駒を並べていく。一人なので、先手と後手の両方だ。
――――ついに明日だ。悔いが残らないよう、精一杯指そう。
パシンッと高らかな駒音が部屋に響く。乾いた弾けるようないい音だ。聞くたびに身が引き締まっていくのがわかる。
今まで最善の準備をしてきた。気持ちは昂るけれど落ち着いている。
――――やれることは全てやった。自信を持とう。昇段のことは考えず、目の前の1局に集中するんだ。
並べ終えた大貫は、両手を膝に置き、静かに目を閉じる。明日、千駄ヶ谷の将棋会館で2局指す。1勝すれば四段(プロ棋士)に昇段する。
大貫にとって、今までの人生の中で間違いなく、最も重要な一日になるはずだ。
そして、その日は訪れた。
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