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第118話 落ちていく駒(大貫視点)
しおりを挟む時刻はすでに正午を過ぎていた。このあたりから、部屋のあちこちで対局時計の電子音がせわしなく鳴り響く。どこの対局も、秒読みになっていた。
――――悪くないはずだ。このまま行けば。
大貫もその対局者も既に秒読みが始まっている。難解な終盤を、わずか1分で見極めなければならない。
しかも負けている方は、所謂勝負手という、予想外の手を繰り出し翻弄してくるのだ。
第1局の対局者は、昇段には関わりのない奨励会員だったが、1勝でも多くすれば来期の順位に関わるのでみな真剣勝負だ。
彼もまた、あまり後がない20代半ば。相手が誰であろうと食い下がろうと必死だった。
――――合いごま請求。歩は打てない。桂馬で大丈夫か?
勝負手であろう、角を玉にむけて打ってきた。逃げるのは悪手。間に置く駒を何にするかで大きく戦況が変わる。
その後の数十手を瞬時に読まなければ、正確に読まなければ、間違ったら今までの優位は全て無駄になる。逆転される。
大貫は文字通り盤に集中していた。盤上で起こること以外、なにも見えず考えることはなかった。
ピッピッピッ……秒を刻む機械音が判断を急かす。
――――よし、桂馬だっ。
駒台から桂馬をさっと掴む。いつものように中指と人差し指ではさみ、親指で支える。
対局時計が悲鳴を上げるのを聞きながら、桂馬と書かれた駒を盤上に乗せようとした。
その時――――。
「あっ!」「え?」
中指の下で、駒が滑ったのを感じた。
――――駒が落ちて行く。盤上に。
落ちていった桂馬は盤上の駒たちに当たって跳ね返る。当たった駒たちは浮き上がり、場を乱した。
大貫にはそれが、まるでスローモーション画像のように見えた。
「ピッ」
瞬間、耳障りな高音で叫んでいた対局時計が沈黙した。ハッとして見る。時間切れだ。
「負けました」
あっけに取られている相手に対し、大貫は頭を下げた。その手は、綺麗に筋の入ったズボンの生地をギュッと握っていた。
次の対局まではまだ時間があった。奨励会員たちは控室で各々に昼食を取る。大貫も駅前で買ってきた弁当を開くが、食欲が湧かなかった。
「大貫さん、こちらでよかったですか?」
無言のままの控室に、事務局の人が声をかけてきた。
「あ、はい。ありがとうございます」
公式戦はプロアマ問わず、全ての対局が終るまで、対局者は誰も外出できないし、誰とも連絡を取れない。だから欲しいものがある場合は、事務局の人に頼むしかない。
大貫は1局目が終ってすぐ、事務局の人にテーピングテープを頼んでいた。
「指、腫れてますね。大丈夫ですか?」
「大丈夫です。ちょっと油断して……酷い将棋を指してしまいました」
「まだもう一局ありますよ」
頑張ってとは言えない。けど、思いは伝わった。
「はい。頑張ります。ありがとうございます」
指を固めるよう、グルグルと巻く。あと一局。悔いなく指す。
――――アスランさんたちは大丈夫だろうか。連絡も取れないし、ニュースも見ることができない……。
大貫はそこでゆっくりと頭を振った。
――――いや、僕は彼らを信じてる。だから、ここに来たんじゃないか。
自分を送り出してくれた彼らを信じなくてどうする。大貫は再び弁当に向き合う。
――――腹が減っては最後に崩れる。少しでも食べよう。
泣いても笑っても、あと1局。
今のところ、昇段を決めたのは一人だけ。あと1枠を次の対局者と争う。だが、そんなことももう考えない。
――――今までの自分に恥じない1局を指そう。諦めず、ひたむきに。それが僕の将棋だ。
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