夫のつとめ

藤谷 郁

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 午前0時――
 希美は部屋に入る前と変わらぬ姿で、ドレッサーの前にいる。
 化粧を丁寧に施し、たっぷりとしたドレープが美しいロイヤルブルーのドレスを身に着けた。

 そう、なんら変わらない。身体のあちこち痛むけれど、こんなのは大したことない。
 希美は胸の中で何度も繰り返し、自分に言い聞かせる。
 彼を受け入れたという、一つの現象が加わっただけ。それしきのことで、私を変えることはできない。

 鏡の中、ゆったりと微笑む女を見て、希美は気を取り直した。
 もう、大丈夫――

「あのう、希美さん」
「ひっ」

 振り向くと、壮二が真後ろに立っていた。
 いつの間に背後に近付いていたのか、まったく気配が感じられなかった。
 懸命に自分を保とうとしていた希美は、またしても胸の鼓動が速くなる。せっかく収まったばかりなのに。
 
「壮二、忍び足で近付くのはやめて。びっくりするでしょう」
「はあ、すみません」

 素直に謝った。彼もスーツ姿になり、髪もきれいに梳かしている。いつもどおりの営業マンスタイルだが、希美に向ける笑顔はこれまでになく明るい。
 希美はまだ言い足りなかったが、嬉しそうにニコニコする彼に呆れ、文句も引っ込んでしまった。

(ったく、なにデレてんのよ)

 今夜、二人は結ばれた。
 結婚の約束を交わし、主目的である初夜が営まれたわけだが、希美の中では納得できないものがくすぶっている。

「希美さん、フロントから連絡がありました。運転手さんが、ロータリーで待機しているそうです」
「そう。じゃあ、そろそろ出ましょうか」

 北城家の車が迎えに来たのだ。タクシーでもよかったのだが、乗り心地のいい自家用車で帰りたかった。夜中に呼び出してしまい、運転手には悪いことをした。
 本当は、泊まるつもりでいたのに。


 部屋を出ると、静まり返った客室廊下を抜けて、エレベーターホールに向かう。少しふらつくけれど、希美は背筋を伸ばし、まっすぐ前を見て歩いた。壮二はやや遅れぎみについてくる。

 エレベーターのドアが開くと、希美を先に乗せて彼は後に続いた。操作パネルで行き先ボタンを押すとこちらに身体を向けるが、少し距離をとって立つ。つまり、会社での態度とまるで同じだ。
 こんな関係になっても、変に馴れ馴れしくしないところが壮二らしい。
 希美はさり気ない仕草で、鼓動が緩やかになった胸を押さえる。彼が触れてこないことに安堵していた。

「急なことで大変ですね。明日は早いんですか?」
「う、うん。でも、社長に呼び出されるなんていつものことだし、全然平気だけど」

 展望エレベーターの窓越しに、街灯りがきらめいている。週末、男と二人きりで夜景を眺めるなんて久しぶりだと、希美は思った。

真崎まさきカントリークラブというと、車で1時間くらいですね」
「ええ」
「富士山がきれいでしょうね」
「そうね、明日も天気が良さそうだし」

 楽しそうに笑う壮二が、ちょっと……いやかなり憎らしい。距離感はいつもどおりのようで、やはりデレているのだ。

(人の気も知らないで、まったく)

 こんな鈍い男に、予定変更を余儀なくされたのが腹立たしい。 
 明日、というより既に今日だが、希美のスケジュールは休日だった。社長は取引先関係者とゴルフに出掛けており、運転手を兼ねた男性秘書が同行している。

 だから、今夜から明日にかけて、このホテルでゆっくり過ごす予定だったのだ。
 壮二を口説き落とし、一晩中付き合わせて、その後はホテル自慢のルームサービスを堪能する――という美味しい計画を立てていたのに、途中で狂ってしまった。
 社長に呼び出され、ゴルフ場まで忘れ物を届けに行くというのは、ホテルを引き揚げるための口実。本当はどこにも出掛けやしない。出掛ける余裕などない。

「僕も行きたいなあ。いいですよね、ドライブ」
「そうね……ふ、ふふふ」

(なに呑気なこと言ってんのよ、このおバカ!)

 ズキズキする腰の痛みを堪えながら、希美は懸命に笑みを作る。持てる理性を総動員し、何も覚られないよう平静を装った。
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