夫のつとめ

藤谷 郁

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 ロータリーにベンツを見つけると、希美は心から『助かった』と思う。あれに乗りさえすれば、ようやく我慢大会から解放されるのだ。 

 車に近付くと、運転手の杉山すぎやまがドアを開けて出迎えた。

「お嬢様、お帰りなさいませ」
「ごめんね、杉山さん。お父様が急に呼び出すものだから」

 父親に責任を押し付けるが、罪悪感はない。父親もさんざん希美を口実に使っているので、お互い様だ。ただ、北城家の運転手を長年務める杉山は実直な人で、申し訳ない気持ちがあった。

「南村さんは、よろしいのですか?」

 希美の傍で控えめに立つ壮二に、親切な目を向けた。
 ノルテフーズの社員である彼を、杉山は見知っている。夫候補だということも承知しているので、ごく自然な口調だ。

「あ、うん。彼は反対方向だから、タクシーで帰るって。ね、壮二」
「はい。杉山さん、ありがとうございます」
「さようでございますか。では、失礼いたします」

 杉山に会釈をすると、壮二は希美に視線を移す。なにか期待するみたいに、きらきらと瞳を輝かせている。あまりにもストレートで、分かりやすい意思表示だった。

「希美さん。今夜は、とても楽しかったです。あの……」
「うん、待って。えっと……」

 まっすぐな眼差しに気圧され、希美はめずらしく口ごもる。胸のドキドキが蘇りそうで、動揺した。

「……また、連絡するわ」
「あ、はい」
「……」
「……」

 穴が開くほど見つめられ、いたたまれない。こんなに一生懸命求めてくる男が、かつていただろうか。
 再び鼓動のテンポが速くなるが、希美は必死で抑えつけようとする。どんな状況でも、主導権はしっかりと握らなければ。

(彼を受け入れたという、一つの現象が加わっただけ。それしきのことで、私を変えることはできない)

 頭の中で繰り返すと、壮二に微笑んでみせた。鏡がないので上手にできたか分からないけれど、今の希美には、これがせいいっぱい。

「私も、楽しかったわよ。ありがとう、壮二」
「希美さん……」

 なにか言おうとするが、希美はさっと身を翻し、素早く車に乗り込んだ。
 半端ない痛みが腰に走るが、杉山がドアを閉めるまで、なんでもないふりを装った。壮二が、あの目でじっと見ている。

 窓を下げると、壮二がすぐに覗き込んだ。

「希美さん、おやすみなさい」 
「おやすみなさい。気を付けて帰るのよ」
「はい、あの……」
「危ないわ、離れて」

 やはりなにか言いたげだが、窓を上げたのでどうしようもない。名残惜しげに下がる壮二に、気力を振り絞って最後の微笑みを投げた。

「杉山さん、お願い。早く出して」
「承知いたしました」

 窓の外で、壮二の姿が小さくなる。
 角を曲がり、ホテルの建物が見えなくなったところで、希美は座席に倒れ込んだ。

「くうっ……いたたた……もう、壮二のやつ……!」

 苦悶の表情で腰を押さえ、内股の違和感に耐える。これすべて、壮二に与えられた痛みだと思うと、悔しくて堪らない。 

 杉山は気づかないふりで、前を向いている。
 北城家に辿り着くまで、希美は独りのたうち回った。
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