2 / 82
24歳の午後
2
しおりを挟む
家に着くと、母親が夕飯を作って待っていた。台所から漂ってくるのは、彩子の好物であるチキンカレーの匂いだ。
「家の手伝いもしないでブラブラと。また図書館? お一人様で」
この頃の母は辛らつである。
親友の智子が結婚すると知ってからは、特に皮肉がきつい。何でも結婚に結びつけた言い方をするようになった。
口答えすれば正論と言う名の反撃を受けるだけなので、彩子は黙ってしまう。
「イマドキは30代でも独身なんてフツーだし、いいんじゃないの。そんなに焦らなくてもさ」
「真二、お母さんは23歳でお前を産みました」
一つ年下の弟がさりげなく援護するが、母はぴしゃりとはねつける。世代間ギャップは、どうやっても埋まらないのだ。
「とにかく、家の手伝いの一つもしないのはどうなの」
弟の援護が油を注いだと見えて、火勢が激しくなる。
(洗濯と掃除はしてるけど)
と、彩子はいつも心で言い返す。
だが、たとえ家事全般を請け負ったとしても、この母は納得しないと知っている。理不尽なようだが、これが現実。彼女は山辺家の法律なのだ。
「いただきま~す」
彩子は食卓に付くと、チキンカレーをほおばった。
つとめて明るく振舞うのは、自衛手段である。母の機嫌を損なわぬよう、24年と数か月を生きてきたのだ。
『いつも仲良しで、いいわねえ』などとご近所さんに羨まれるが、母娘の微妙な関係は他人には分からない。嫌味や皮肉を言うわりに、娘の好物をこしらえる母の気持ちを、彩子だってよく分からないのだ。
父親は趣味の釣りに出かけており、今夜も遅くなるようだ。
それも母親の不機嫌の一因だと彩子も真二も知っている。いつもながら、自分の妻に気遣いをしない父親を、二人は恨めしく思っている。
「あ、そうだ。あんたの友達から電話があったわよ。何て言ったかしら、ソフト部の仲間だったって子」
母親は電話機の横からメモを持ってきて、彩子に渡した。
【雪村律子さん ソフト部 電話×××-××××-××××】
走り書きのメモに目をみはる。懐かしい名前だった。
智子と同じく彼女もソフトボール部の仲間で、気の置けない友人の一人である。
用件は智子の結婚についてだろうと察しはつく。彩子は食事を終えると、とりあえず自分の食器を洗い、電話をかけるために自室に引っ込んだ。
『はい、雪村です』
携帯電話から聞こえる懐かしい友の声。相変わらずの低音だ。
「電話ありがとう。久しぶりだね、雪村」
なぜか上ずってしまう彩子だった。
『ホントだな、高校を卒業して早や6、7年か? 智子が結婚するって聞いて驚いたよ。チームのメンバーん中では3人目だね。あいつは最後だと思ったんだけどなあ』
ソフトボール部に所属した同級生のうち既に2人が結婚している。
2人とも20歳くらいで学生結婚したと聞いた。
卒業後はあまり付き合いがなく疎遠になっているが、どこからか伝わってくるのだ。
『披露宴に招待されるのは彩子と、まりと、エリ、あと私の4人なんだ。それで、お祝いの品を皆で買おうって話してるんだけど』
雪村は今もみんなのまとめ役だ。頭の回転が早く、気がきいて、ぶっきらぼうな口調のわりにナイーブな寂しがり屋なのも知っている。
『じゃあ品物は適当に見繕っておけばいいね。代金は式場でいただくことにして……と』
用件が済むと、ひと呼吸置いてから雪村が訊いた。
『ところで彩子はどうよ』
「何が?」
『彼氏……とか、いんの?』
ある意味タイムリーな質問である。見栄を張りたいところだが、彩子に張る見栄はない。
「いない」
『ふーん、そっか』
「雪村は?」
思い切って訊いてみた。
『う~ん、一応いるよ、一人』
何かとてつもない脱力感が彩子を襲う。情けないことに、自分でも思いがけないほどの過剰反応だ。
「そ、そう……いいね」
声が震えているのではと、彩子はドキドキした。
『はは……でも、結婚する気はないからね、私は』
「え?」
『仕事が死ぬほど忙しいし、まったく余裕ないよ。大体私ってさ、家庭向きじゃないだろ? だからしないのよ、結婚は』
「そ、そうなんだ」
それも雪村らしいと思う。
しかし、実は寂しがり屋のこの子が本気で言っているのだろうかと、彩子はちょっと首を傾げた。
その後、互いの近況を報告し合い、30分ほどで通話を切った。
彩子はスマートフォンを握りしめ、しばし考え込む。
誰とも結婚せず、ひとりで生きる。そんな生き方もあるのだと気付かされた電話だった。
人生は様々な方向に枝分かれして、私を待ち構えている。
いろんな選択肢があるのだ。
ベッドに寝そべり天井を見つめていると、階段から母の甲高い声が聞こえてきた。
「電話終わったんでしょ。さっさと風呂に入りなさいよ~」
そうでした。たとえ選択肢があったとしても、あの方が独身なんて許しはしないでしょう。彩子は力なく笑みを浮かべる。
(親離れが先だよね)
頑強な寝癖の付いた頭をそっと撫でた。
長い間の癖を直すのは、なかなか難しいことなのだ――
「家の手伝いもしないでブラブラと。また図書館? お一人様で」
この頃の母は辛らつである。
親友の智子が結婚すると知ってからは、特に皮肉がきつい。何でも結婚に結びつけた言い方をするようになった。
口答えすれば正論と言う名の反撃を受けるだけなので、彩子は黙ってしまう。
「イマドキは30代でも独身なんてフツーだし、いいんじゃないの。そんなに焦らなくてもさ」
「真二、お母さんは23歳でお前を産みました」
一つ年下の弟がさりげなく援護するが、母はぴしゃりとはねつける。世代間ギャップは、どうやっても埋まらないのだ。
「とにかく、家の手伝いの一つもしないのはどうなの」
弟の援護が油を注いだと見えて、火勢が激しくなる。
(洗濯と掃除はしてるけど)
と、彩子はいつも心で言い返す。
だが、たとえ家事全般を請け負ったとしても、この母は納得しないと知っている。理不尽なようだが、これが現実。彼女は山辺家の法律なのだ。
「いただきま~す」
彩子は食卓に付くと、チキンカレーをほおばった。
つとめて明るく振舞うのは、自衛手段である。母の機嫌を損なわぬよう、24年と数か月を生きてきたのだ。
『いつも仲良しで、いいわねえ』などとご近所さんに羨まれるが、母娘の微妙な関係は他人には分からない。嫌味や皮肉を言うわりに、娘の好物をこしらえる母の気持ちを、彩子だってよく分からないのだ。
父親は趣味の釣りに出かけており、今夜も遅くなるようだ。
それも母親の不機嫌の一因だと彩子も真二も知っている。いつもながら、自分の妻に気遣いをしない父親を、二人は恨めしく思っている。
「あ、そうだ。あんたの友達から電話があったわよ。何て言ったかしら、ソフト部の仲間だったって子」
母親は電話機の横からメモを持ってきて、彩子に渡した。
【雪村律子さん ソフト部 電話×××-××××-××××】
走り書きのメモに目をみはる。懐かしい名前だった。
智子と同じく彼女もソフトボール部の仲間で、気の置けない友人の一人である。
用件は智子の結婚についてだろうと察しはつく。彩子は食事を終えると、とりあえず自分の食器を洗い、電話をかけるために自室に引っ込んだ。
『はい、雪村です』
携帯電話から聞こえる懐かしい友の声。相変わらずの低音だ。
「電話ありがとう。久しぶりだね、雪村」
なぜか上ずってしまう彩子だった。
『ホントだな、高校を卒業して早や6、7年か? 智子が結婚するって聞いて驚いたよ。チームのメンバーん中では3人目だね。あいつは最後だと思ったんだけどなあ』
ソフトボール部に所属した同級生のうち既に2人が結婚している。
2人とも20歳くらいで学生結婚したと聞いた。
卒業後はあまり付き合いがなく疎遠になっているが、どこからか伝わってくるのだ。
『披露宴に招待されるのは彩子と、まりと、エリ、あと私の4人なんだ。それで、お祝いの品を皆で買おうって話してるんだけど』
雪村は今もみんなのまとめ役だ。頭の回転が早く、気がきいて、ぶっきらぼうな口調のわりにナイーブな寂しがり屋なのも知っている。
『じゃあ品物は適当に見繕っておけばいいね。代金は式場でいただくことにして……と』
用件が済むと、ひと呼吸置いてから雪村が訊いた。
『ところで彩子はどうよ』
「何が?」
『彼氏……とか、いんの?』
ある意味タイムリーな質問である。見栄を張りたいところだが、彩子に張る見栄はない。
「いない」
『ふーん、そっか』
「雪村は?」
思い切って訊いてみた。
『う~ん、一応いるよ、一人』
何かとてつもない脱力感が彩子を襲う。情けないことに、自分でも思いがけないほどの過剰反応だ。
「そ、そう……いいね」
声が震えているのではと、彩子はドキドキした。
『はは……でも、結婚する気はないからね、私は』
「え?」
『仕事が死ぬほど忙しいし、まったく余裕ないよ。大体私ってさ、家庭向きじゃないだろ? だからしないのよ、結婚は』
「そ、そうなんだ」
それも雪村らしいと思う。
しかし、実は寂しがり屋のこの子が本気で言っているのだろうかと、彩子はちょっと首を傾げた。
その後、互いの近況を報告し合い、30分ほどで通話を切った。
彩子はスマートフォンを握りしめ、しばし考え込む。
誰とも結婚せず、ひとりで生きる。そんな生き方もあるのだと気付かされた電話だった。
人生は様々な方向に枝分かれして、私を待ち構えている。
いろんな選択肢があるのだ。
ベッドに寝そべり天井を見つめていると、階段から母の甲高い声が聞こえてきた。
「電話終わったんでしょ。さっさと風呂に入りなさいよ~」
そうでした。たとえ選択肢があったとしても、あの方が独身なんて許しはしないでしょう。彩子は力なく笑みを浮かべる。
(親離れが先だよね)
頑強な寝癖の付いた頭をそっと撫でた。
長い間の癖を直すのは、なかなか難しいことなのだ――
0
あなたにおすすめの小説
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉
二度目の初恋は、穏やかな伯爵と
柴田はつみ
恋愛
交通事故に遭い、気がつけば18歳のアランと出会う前の自分に戻っていた伯爵令嬢リーシャン。
冷酷で傲慢な伯爵アランとの不和な結婚生活を経験した彼女は、今度こそ彼とは関わらないと固く誓う。しかし運命のいたずらか、リーシャンは再びアランと出会ってしまう。
それは、ホントに不可抗力で。
樹沙都
恋愛
これ以上他人に振り回されるのはまっぴらごめんと一大決意。人生における全ての無駄を排除し、おひとりさまを謳歌する歩夢の前に、ひとりの男が立ちはだかった。
「まさか、夫の顔……を、忘れたとは言わないだろうな? 奥さん」
その婚姻は、天の啓示か、はたまた……ついうっかり、か。
恋に仕事に人間関係にと翻弄されるお人好しオンナ関口歩夢と腹黒大魔王小林尊の攻防戦。
まさにいま、開始のゴングが鳴った。
まあね、所詮、人生は不可抗力でできている。わけよ。とほほっ。
靴屋の娘と三人のお兄様
こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!?
※小説家になろうにも投稿しています。
混血の私が純血主義の竜人王子の番なわけない
三国つかさ
恋愛
竜人たちが通う学園で、竜人の王子であるレクスをひと目見た瞬間から恋に落ちてしまった混血の少女エステル。好き過ぎて狂ってしまいそうだけど、分不相応なので必死に隠すことにした。一方のレクスは涼しい顔をしているが、純血なので実は番に対する感情は混血のエステルより何倍も深いのだった。
一億円の花嫁
藤谷 郁
恋愛
奈々子は家族の中の落ちこぼれ。
父親がすすめる縁談を断り切れず、望まぬ結婚をすることになった。
もうすぐ自由が無くなる。せめて最後に、思いきり贅沢な時間を過ごそう。
「きっと、素晴らしい旅になる」
ずっと憧れていた高級ホテルに到着し、わくわくする奈々子だが……
幸か不幸か!?
思いもよらぬ、運命の出会いが待っていた。
※エブリスタさまにも掲載
雪の日に
藤谷 郁
恋愛
私には許嫁がいる。
親同士の約束で、生まれる前から決まっていた結婚相手。
大学卒業を控えた冬。
私は彼に会うため、雪の金沢へと旅立つ――
※作品の初出は2014年(平成26年)。鉄道・駅などの描写は当時のものです。
お前が愛おしい〜カリスマ美容師の純愛
ラヴ KAZU
恋愛
涼風 凛は過去の恋愛にトラウマがあり、一歩踏み出す勇気が無い。
社長や御曹司とは、二度と恋はしないと決めている。
玉森 廉は玉森コーポレーション御曹司で親の決めたフィアンセがいるが、自分の結婚相手は自分で決めると反抗している。
そんな二人が恋に落ちる。
廉は社長である事を凛に内緒でアタックを開始するが、その事がバレて、凛は距離を置こうとするが・・・
あれから十年、凛は最悪の過去をいまだに引き摺って恋愛に臆病になっている。
そんな凛の前に現れたのが、カリスマ美容師大和颯、凛はある日スマホを拾った、そのスマホの持ち主が颯だった。
二人は惹かれあい恋に落ちた。しかし凛は素直になれない、そんなある日颯からドライブに誘われる、「紹介したい人がいるんだ」そして車から降りてきたのは大和 祐、颯の息子だった。
祐は颯の本当の息子ではない、そして颯にも秘密があった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる