フローライト

藤谷 郁

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24歳の午後

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家に着くと、母親が夕飯を作って待っていた。台所から漂ってくるのは、彩子の好物であるチキンカレーの匂いだ。


「家の手伝いもしないでブラブラと。また図書館? お一人様で」


この頃の母は辛らつである。

親友の智子が結婚すると知ってからは、特に皮肉がきつい。何でも結婚に結びつけた言い方をするようになった。

口答えすれば正論と言う名の反撃を受けるだけなので、彩子は黙ってしまう。


「イマドキは30代でも独身なんてフツーだし、いいんじゃないの。そんなに焦らなくてもさ」

真二しんじ、お母さんは23歳でお前を産みました」


一つ年下の弟がさりげなく援護するが、母はぴしゃりとはねつける。世代間ギャップは、どうやっても埋まらないのだ。


「とにかく、家の手伝いの一つもしないのはどうなの」


弟の援護が油を注いだと見えて、火勢が激しくなる。


(洗濯と掃除はしてるけど)


と、彩子はいつも心で言い返す。

だが、たとえ家事全般を請け負ったとしても、この母は納得しないと知っている。理不尽なようだが、これが現実。彼女は山辺家の法律なのだ。


「いただきま~す」


彩子は食卓に付くと、チキンカレーをほおばった。

つとめて明るく振舞うのは、自衛手段である。母の機嫌を損なわぬよう、24年と数か月を生きてきたのだ。

『いつも仲良しで、いいわねえ』などとご近所さんに羨まれるが、母娘の微妙な関係は他人には分からない。嫌味や皮肉を言うわりに、娘の好物をこしらえる母の気持ちを、彩子だってよく分からないのだ。

父親は趣味の釣りに出かけており、今夜も遅くなるようだ。

それも母親の不機嫌の一因だと彩子も真二も知っている。いつもながら、自分の妻に気遣いをしない父親を、二人は恨めしく思っている。


「あ、そうだ。あんたの友達から電話があったわよ。何て言ったかしら、ソフト部の仲間だったって子」


母親は電話機の横からメモを持ってきて、彩子に渡した。


雪村ゆきむら律子りつこさん ソフト部 電話×××-××××-××××】


走り書きのメモに目をみはる。懐かしい名前だった。

智子と同じく彼女もソフトボール部の仲間で、気の置けない友人の一人である。

用件は智子の結婚についてだろうと察しはつく。彩子は食事を終えると、とりあえず自分の食器を洗い、電話をかけるために自室に引っ込んだ。




『はい、雪村です』


携帯電話から聞こえる懐かしい友の声。相変わらずの低音だ。


「電話ありがとう。久しぶりだね、雪村」


なぜか上ずってしまう彩子だった。


『ホントだな、高校を卒業して早や6、7年か? 智子が結婚するって聞いて驚いたよ。チームのメンバーん中では3人目だね。あいつは最後だと思ったんだけどなあ』


ソフトボール部に所属した同級生のうち既に2人が結婚している。

2人とも20歳くらいで学生結婚したと聞いた。

卒業後はあまり付き合いがなく疎遠になっているが、どこからか伝わってくるのだ。


『披露宴に招待されるのは彩子と、まりと、エリ、あと私の4人なんだ。それで、お祝いの品を皆で買おうって話してるんだけど』


雪村は今もみんなのまとめ役だ。頭の回転が早く、気がきいて、ぶっきらぼうな口調のわりにナイーブな寂しがり屋なのも知っている。


『じゃあ品物は適当に見繕っておけばいいね。代金は式場でいただくことにして……と』


用件が済むと、ひと呼吸置いてから雪村が訊いた。


『ところで彩子はどうよ』

「何が?」

『彼氏……とか、いんの?』


ある意味タイムリーな質問である。見栄を張りたいところだが、彩子に張る見栄はない。


「いない」

『ふーん、そっか』

「雪村は?」


思い切って訊いてみた。


『う~ん、一応いるよ、一人』


何かとてつもない脱力感が彩子を襲う。情けないことに、自分でも思いがけないほどの過剰反応だ。


「そ、そう……いいね」


声が震えているのではと、彩子はドキドキした。


『はは……でも、結婚する気はないからね、私は』

「え?」

『仕事が死ぬほど忙しいし、まったく余裕ないよ。大体私ってさ、家庭向きじゃないだろ? だからしないのよ、結婚は』

「そ、そうなんだ」


それも雪村らしいと思う。

しかし、実は寂しがり屋のこの子が本気で言っているのだろうかと、彩子はちょっと首を傾げた。

その後、互いの近況を報告し合い、30分ほどで通話を切った。

彩子はスマートフォンを握りしめ、しばし考え込む。

誰とも結婚せず、ひとりで生きる。そんな生き方もあるのだと気付かされた電話だった。

人生は様々な方向に枝分かれして、私を待ち構えている。

いろんな選択肢があるのだ。


ベッドに寝そべり天井を見つめていると、階段から母の甲高い声が聞こえてきた。


「電話終わったんでしょ。さっさと風呂に入りなさいよ~」


そうでした。たとえ選択肢があったとしても、あの方が独身なんて許しはしないでしょう。彩子は力なく笑みを浮かべる。


(親離れが先だよね)


頑強な寝癖の付いた頭をそっと撫でた。

長い間の癖を直すのは、なかなか難しいことなのだ――

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