フローライト

藤谷 郁

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恋のきざし

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「あっ、あの、私……」


彩子が名乗ろうとすると、女性の声でメッセージが流れ始めた。


『ただ今電話に出ることができません。お名前とご用件をお話しください』


留守番電話――


彩子は焦りつつ、なんとか冷静になるよう胸を押さえた。


「もっ、もしもし。私、山辺彩子です。ええっと……お時間があれば、連絡をください。よろしくお願いします」


たどたどしくそれだけ吹き込み、通話を切った。


拍子抜けしたのと安堵したのとで、思わず空を仰ぎ見る。


「神奈川のお天気はどうですか。こちらは上々ですよ。今、私は運動場に来ています。久しぶりに走りました……」


何となく用意していた台詞を独り呟いてみる。

今こうしていると、クリスマスイブのできごとは夢だったように思える。原田に会ったのも、無かったことではないか。

その後、彩子はもうひと走りしてから家に帰った。



夜になり、午後10時をまわっても、原田から折り返しの電話がない。

彩子は仕方なく風呂に入った。

急いで上がってきてスマートフォンを確かめるが、着信はなかったようで、メールなどの履歴も残されていない。


午後11時になった。

部屋の明かりを消してベッドに入り、ぼんやりする。


午前0時。

もう寝ようと思い目を閉じた時、彩子は初めて、自分が涙ぐんでいることに気付いた。





カーテンの隙間から明るい陽が差し込み、瞼を照らす。

朝がきたのだ。

まんじりともしない夜を過ごした彩子は、しばらくベッドの中でぼうっとするが、はっと目を覚ます。

バネのように起き上がり、スマートフォンを確かめる。

やはり、着信はなかった。

あらためて落胆する。

そして、なんとも言えない感情が湧き上がるのを覚えた。

明らかに、原田に対する不満だった。


「必ず折り返すって言ったくせに」


子どものような言い草で彼をなじる。

彩子は自分の感情を持て余し、哀しくて、甘ったれた気分になっていた。

のそのそと洋服に着替え、顔を洗ってから鏡を見る。

目が赤い。

情けないと思った。


台所に行くと、母が割烹着姿で大掃除をしていた。


(そうか、もう年末なんだ)


カレンダーを見れば、今日は12月29日。彩子はピタピタと頬を叩く。


しっかりしなくちゃ――


「あら、おはよう」


母は彩子の顔を見ると一瞬だけ雑巾を持つ手を止めたが、何気ない風に続けた。


「今日は大掃除を手伝ってよ。あと、午後から買い物に行くから、車出してちょうだいね」

「はい、了解です」


素直に返事をし、パンと紅茶の簡単な朝食を済ませてから、エプロンを着けて2階の掃除に取り掛かった。

掃除機をかけたり床を磨いたり、その作業に集中すれば心が落ち着いてくる。何も考えないほうがいいと思うし、考えても仕方がない。

彩子はいつの間にか、大掃除に夢中になっていた。

だが不思議なことに、考えなくなると、それはくるのである。


窓の外側を拭こうとした時、スマートフォンが鳴り響いた。驚きのあまり、危うく屋根の上に転がりそうになる。

彩子は雑巾を放ると、サイドテーブルに置いたスマートフォンを鷲づかみにした。

発信者は、原田良樹だ。


「もしもし」


つとめて冷静に対応するが、声が上擦っている。


『山辺さん、おはようございます。原田です』

「原田さん」

『昨日は電話をありがとう。留守録を聞きました。折り返しできなくて本当に申しわけない』


原田は一語一語を丁寧に話す。

工場で電話をしているのか、機械の動く音が背後にあった。


「いえ、そんな」


先ほどまでの恨み言は、もう吹き飛んでしまった。原田の声は低めで、結構男らしいのだなと考えたりする。


『昨日は工場の機械がいかれて、オシャカだらけになってしまいまして……あ、不良品の事ですよ?』

「うふふ」


なぜか笑ってしまう。原田も可笑しそうだ。


『徹夜で直して、やっとまともに稼動し始めたところなんです。たった今、電話があったことに気がつ付いて……待ってましたか?』


ふいに真面目な語調で、原田が訊く。


「えっ? いえ、特に用事があったわけじゃないんで……その」


彩子はそこまで言ってから、電話を握り直した。


「はい。待ってましたよ、すごく」

『……』


規則的な機械音だけが聞こえてくる。

5秒ほどの沈黙の後――


『ああ、やっと帰れる!』


弾けるような声で原田が叫び、彩子の全身は痺れた。


『帰ったらまた電話します。今日の夕方にはN駅に着きますから。今、何をしてるんですか』


急に訊かれて、再度びっくりする。


「今……は、大掃除をしています。窓拭きです」

『そうですか。がんばってますね。いや、楽しみです、帰るのが』

「あっ、私もです」


思わず出た言葉だが嘘ではない。それは原田にも伝わっていた。


『じゃあ、とりあえず電話を切ります。また後で』

「はい。待っています」


通話を切ると、彩子はスマートフォンを抱きしめた。

早く会いたいと、こんなに強く思える自分が信じられない。

だけど、それ以上に幸せな気持ちだった。
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