15 / 82
恋のきざし
4
しおりを挟む
家に帰り、台所仕事を手伝っていると、エプロンのポケットでスマートフォンが鳴った。
彩子は濡れた手を急いで拭い、2階へ駆け上がる。誰からの電話か察した母はにこにことして、「ごゆっくり」と声を掛けた。
『ただいま帰りました』
「おかえりなさい」
原田の声に自然に返した後、彩子は照れ笑いした。
『やっと休みになりましたよ』
「大変でしたね。でも、もう安心ですね」
彩子はサイドテーブルに置いたカレンダーを手に取る。原田も、同じことを考えているのだ。
『そう、安心して会えます』
原田は応え、すぐに用件を切り出した。
『この前の話ですが』
「山の話ですね」
『そう。それなんですけど、よく考えると今は雪のシーズンだから、山はまたの機会にして、ドライブでもしませんか』
彩子の頭の中で、カラフルな花々が一斉に咲き乱れた。
「はいっ、行きたいです。ぜひ!」
二人は1月3日に出掛ける約束をした。
『海沿いの道を走りましょう』
「はい、楽しみです」
目的地を設定しないというのが、彩子には新鮮だった。
山辺家は全員、ドライブが好きである。
今は勝手に遊びに出掛けてしまう父だが、彩子と真二が子どもの頃は、よくドライブに連れて行ってくれた。
母もそんな時は喜んで弁当をこしらえ、家族で楽しく過ごしたものだ。
しかし、楽しいばかりではなかった。
父はきっちりと計画を立て、行程どおりにドライブする主義だ。なので、家族が寄り道したいと言っても、敢然と無視した。
――帰宅時間が遅れる。寄り道なんて絶対にダメだ。
今でも耳に残る、厳しく突き放す声。
あれさえなければ、もっと楽しいドライブになったはずなのにね……と、母は今でも愚痴っている。
どうやら原田は、父親と違うタイプのようだ。
彩子は嬉しく思いつつ、来年のカレンダーの1月3日に丸い印を付けた。
「新年の初めての予定がデート。縁起がいいなあ」
磨いたばかりの窓ガラスに、にまにまする顔が映っている。生まれて初めて味わう、この満ち足りた気分。
だが、彩子はまだ気付いていない。
自分が今いるのは、恋愛のほんの入り口に過ぎないということを。
大晦日――
山辺家では毎年恒例のカニすき鍋が始まった。
この日だけは、テレビのある居間に大きな座卓を運び、家族四人で鍋を囲む。
カニが次々に茹で上がると、皆、一心不乱に食べ始めた。それぞれの視線はカニと、テレビの年末番組を往復する。
少々行儀が悪いが、大晦日は特別だ。
これでなくてはカニをじゅうぶん味わえないと、全員が思っている。
やがてカニは食べつくされた。あとは野菜を食べて雑炊で締めるという、これも定番コースである。
「今年は豪勢だったな。ズワイもタラバもたっぷりで、腹いっぱいだ」
父がう~んと唸り、メタボリックな腹をさする。
「姉貴さまさまだね」
真二がおどけて言い、彩子に小突かれた。
「何だ、例の話か」
「そうなの。怖いくらいに、うまくいってるのよ」
鍋に野菜を投入しつつ、母がニコニコして答える。
「ほお、前祝いってわけか」
父は焼酎が回り、顔が真っ赤だ。
「今度、デートするのよね」
母は彩子の部屋のカレンダーの丸印を、目ざとく見つけていた。
「まじで? すげー」
真二の驚き方は心外だが、彩子は鍋の野菜が煮えるのを黙って見つめる。
「デートって、どこへ行くんだ」
父が珍しく質問した。母も真二も興味津々で、彩子に注目している。
家族が関心を持ってくれるのは、悪いことではない。少々照れくさいが、彩子は答えることにした。
「ドライブだよ。海の方へ行くの」
「海って、どこの」
「特に決めてないけど」
「何だと?」
父は焼酎を空けたコップを座卓に置くと、咎めるように言った。
「計画性がないな。それじゃあ連絡が取れないじゃないか」
「携帯があるから大丈夫だよ。それに、そんなに遠くへは行かないから……」
「場所だけは決めてもらえ。それで、お父さんに報告してから行きなさい」
彩子の言い分も聞かず、父は敢然と命令した。
「はあ……」
例の癖が始まったと、一同、溜め息である。
「そんなあ、大丈夫よお父さん」
「木綿子伯母さんが紹介してくれた人だろ。心配ないって」
母も真二も口を揃えて援護するが、父は頑として聞き入れない。それどころか、誰一人味方につかない状況に機嫌を悪くしている。
父に話したのは失敗だった。彩子は激しく後悔するが、もう遅い。ますます意固地になった一家の長は、大きな声で言い放った。
「そんなこと言って、お前達。彩子が襲われたらどうするんだっ」
あまりの暴言に、彩子はもとより、母も真二も絶句する。
鍋の中では、野菜が煮えたぎっていた。
「ひどい……」
彩子は生まれて初めて、父親を睨みつけた。
思春期より今日まで持ち続けている、父という異性への嫌悪感。それが猛烈な勢いで膨れ上がるのを止めることができない。
「さ、彩子?」
母が恐る恐る声を掛けるが、彩子の眼差しは微動だにしない。
誰も見たことのない怒りの目。
普段温和な人物が怒ると異様に怖いのだと、家族は思い知らされた。
父親という生き物は、妻の百の文句よりも、娘にたった一度睨まれただけで致命傷を負うようだ。
台所で黙々と後片付けをする彩子を気にしながら、父は居間でしょぼくれている。
「困ったものねえ」
母親は為すすべもなく、台所と居間をかわるがわる覗いた。彼女の目に、夫がこれほど惨めに映ったことはない。
ザマミロ! とも思えるが、ちょっと気の毒だった。親が子どもの心配をするのは当然のこと。今回は口が過ぎてしまったのだ。
だけど、彩子は自分のことで怒ったのではない。
原田を侮辱されたのが許せなかった。
もはや彼女の心は、親よりも誰よりも、好意を寄せる男性側にあるのだから。
彩子は濡れた手を急いで拭い、2階へ駆け上がる。誰からの電話か察した母はにこにことして、「ごゆっくり」と声を掛けた。
『ただいま帰りました』
「おかえりなさい」
原田の声に自然に返した後、彩子は照れ笑いした。
『やっと休みになりましたよ』
「大変でしたね。でも、もう安心ですね」
彩子はサイドテーブルに置いたカレンダーを手に取る。原田も、同じことを考えているのだ。
『そう、安心して会えます』
原田は応え、すぐに用件を切り出した。
『この前の話ですが』
「山の話ですね」
『そう。それなんですけど、よく考えると今は雪のシーズンだから、山はまたの機会にして、ドライブでもしませんか』
彩子の頭の中で、カラフルな花々が一斉に咲き乱れた。
「はいっ、行きたいです。ぜひ!」
二人は1月3日に出掛ける約束をした。
『海沿いの道を走りましょう』
「はい、楽しみです」
目的地を設定しないというのが、彩子には新鮮だった。
山辺家は全員、ドライブが好きである。
今は勝手に遊びに出掛けてしまう父だが、彩子と真二が子どもの頃は、よくドライブに連れて行ってくれた。
母もそんな時は喜んで弁当をこしらえ、家族で楽しく過ごしたものだ。
しかし、楽しいばかりではなかった。
父はきっちりと計画を立て、行程どおりにドライブする主義だ。なので、家族が寄り道したいと言っても、敢然と無視した。
――帰宅時間が遅れる。寄り道なんて絶対にダメだ。
今でも耳に残る、厳しく突き放す声。
あれさえなければ、もっと楽しいドライブになったはずなのにね……と、母は今でも愚痴っている。
どうやら原田は、父親と違うタイプのようだ。
彩子は嬉しく思いつつ、来年のカレンダーの1月3日に丸い印を付けた。
「新年の初めての予定がデート。縁起がいいなあ」
磨いたばかりの窓ガラスに、にまにまする顔が映っている。生まれて初めて味わう、この満ち足りた気分。
だが、彩子はまだ気付いていない。
自分が今いるのは、恋愛のほんの入り口に過ぎないということを。
大晦日――
山辺家では毎年恒例のカニすき鍋が始まった。
この日だけは、テレビのある居間に大きな座卓を運び、家族四人で鍋を囲む。
カニが次々に茹で上がると、皆、一心不乱に食べ始めた。それぞれの視線はカニと、テレビの年末番組を往復する。
少々行儀が悪いが、大晦日は特別だ。
これでなくてはカニをじゅうぶん味わえないと、全員が思っている。
やがてカニは食べつくされた。あとは野菜を食べて雑炊で締めるという、これも定番コースである。
「今年は豪勢だったな。ズワイもタラバもたっぷりで、腹いっぱいだ」
父がう~んと唸り、メタボリックな腹をさする。
「姉貴さまさまだね」
真二がおどけて言い、彩子に小突かれた。
「何だ、例の話か」
「そうなの。怖いくらいに、うまくいってるのよ」
鍋に野菜を投入しつつ、母がニコニコして答える。
「ほお、前祝いってわけか」
父は焼酎が回り、顔が真っ赤だ。
「今度、デートするのよね」
母は彩子の部屋のカレンダーの丸印を、目ざとく見つけていた。
「まじで? すげー」
真二の驚き方は心外だが、彩子は鍋の野菜が煮えるのを黙って見つめる。
「デートって、どこへ行くんだ」
父が珍しく質問した。母も真二も興味津々で、彩子に注目している。
家族が関心を持ってくれるのは、悪いことではない。少々照れくさいが、彩子は答えることにした。
「ドライブだよ。海の方へ行くの」
「海って、どこの」
「特に決めてないけど」
「何だと?」
父は焼酎を空けたコップを座卓に置くと、咎めるように言った。
「計画性がないな。それじゃあ連絡が取れないじゃないか」
「携帯があるから大丈夫だよ。それに、そんなに遠くへは行かないから……」
「場所だけは決めてもらえ。それで、お父さんに報告してから行きなさい」
彩子の言い分も聞かず、父は敢然と命令した。
「はあ……」
例の癖が始まったと、一同、溜め息である。
「そんなあ、大丈夫よお父さん」
「木綿子伯母さんが紹介してくれた人だろ。心配ないって」
母も真二も口を揃えて援護するが、父は頑として聞き入れない。それどころか、誰一人味方につかない状況に機嫌を悪くしている。
父に話したのは失敗だった。彩子は激しく後悔するが、もう遅い。ますます意固地になった一家の長は、大きな声で言い放った。
「そんなこと言って、お前達。彩子が襲われたらどうするんだっ」
あまりの暴言に、彩子はもとより、母も真二も絶句する。
鍋の中では、野菜が煮えたぎっていた。
「ひどい……」
彩子は生まれて初めて、父親を睨みつけた。
思春期より今日まで持ち続けている、父という異性への嫌悪感。それが猛烈な勢いで膨れ上がるのを止めることができない。
「さ、彩子?」
母が恐る恐る声を掛けるが、彩子の眼差しは微動だにしない。
誰も見たことのない怒りの目。
普段温和な人物が怒ると異様に怖いのだと、家族は思い知らされた。
父親という生き物は、妻の百の文句よりも、娘にたった一度睨まれただけで致命傷を負うようだ。
台所で黙々と後片付けをする彩子を気にしながら、父は居間でしょぼくれている。
「困ったものねえ」
母親は為すすべもなく、台所と居間をかわるがわる覗いた。彼女の目に、夫がこれほど惨めに映ったことはない。
ザマミロ! とも思えるが、ちょっと気の毒だった。親が子どもの心配をするのは当然のこと。今回は口が過ぎてしまったのだ。
だけど、彩子は自分のことで怒ったのではない。
原田を侮辱されたのが許せなかった。
もはや彼女の心は、親よりも誰よりも、好意を寄せる男性側にあるのだから。
0
あなたにおすすめの小説
愛してやまないこの想いを
さとう涼
恋愛
ある日、恋人でない男性から結婚を申し込まれてしまった。
「覚悟して。断られても何度でもプロポーズするよ」
その日から、わたしの毎日は甘くとろけていく。
ライティングデザイン会社勤務の平凡なOLと建設会社勤務のやり手の設計課長のあまあまなストーリーです。
期待外れな吉田さん、自由人な前田くん
松丹子
恋愛
女子らしい容姿とざっくばらんな性格。そのギャップのおかげで、異性から毎回期待外れと言われる吉田さんと、何を考えているのか分からない同期の前田くんのお話。
***
「吉田さん、独り言うるさい」
「ああ!?なんだって、前田の癖に!前田の癖に!!」
「いや、前田の癖にとか訳わかんないから。俺は俺だし」
「知っとるわそんなん!異議とか生意気!前田の癖にっ!!」
「……」
「うあ!ため息つくとか!何なの!何なの前田!何様俺様前田様かよ!!」
***
ヒロインの独白がうるさめです。比較的コミカル&ライトなノリです。
関連作品(主役)
『神崎くんは残念なイケメン』(香子)
『モテ男とデキ女の奥手な恋』(マサト)
*前著を読んでいなくても問題ありませんが、こちらの方が後日談になるため、前著のネタバレを含みます。また、関連作品をご覧になっていない場合、ややキャラクターが多く感じられるかもしれませんがご了承ください。
一途な皇帝は心を閉ざした令嬢を望む
浅海 景
恋愛
幼い頃からの婚約者であった王太子より婚約解消を告げられたシャーロット。傷心の最中に心無い言葉を聞き、信じていたものが全て偽りだったと思い込み、絶望のあまり心を閉ざしてしまう。そんな中、帝国から皇帝との縁談がもたらされ、侯爵令嬢としての責任を果たすべく承諾する。
「もう誰も信じない。私はただ責務を果たすだけ」
一方、皇帝はシャーロットを愛していると告げると、言葉通りに溺愛してきてシャーロットの心を揺らす。
傷つくことに怯えて心を閉ざす令嬢と一途に想い続ける青年皇帝の物語
片想い婚〜今日、姉の婚約者と結婚します〜
橘しづき
恋愛
姉には幼い頃から婚約者がいた。両家が決めた相手だった。お互いの家の繁栄のための結婚だという。
私はその彼に、幼い頃からずっと恋心を抱いていた。叶わぬ恋に辟易し、秘めた想いは誰に言わず、二人の結婚式にのぞんだ。
だが当日、姉は結婚式に来なかった。 パニックに陥る両親たち、悲しげな愛しい人。そこで自分の口から声が出た。
「私が……蒼一さんと結婚します」
姉の身代わりに結婚した咲良。好きな人と夫婦になれるも、心も体も通じ合えない片想い。
Fly high 〜勘違いから始まる恋〜
吉野 那生
恋愛
平凡なOLとやさぐれ御曹司のオフィスラブ。
ゲレンデで助けてくれた人は取引先の社長 神崎・R・聡一郎だった。
奇跡的に再会を果たした直後、職を失い…彼の秘書となる本城 美月。
なんの資格も取り柄もない美月にとって、そこは居心地の良い場所ではなかったけれど…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる