フローライト

藤谷 郁

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恋のきざし

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家に帰り、台所仕事を手伝っていると、エプロンのポケットでスマートフォンが鳴った。

彩子は濡れた手を急いで拭い、2階へ駆け上がる。誰からの電話か察した母はにこにことして、「ごゆっくり」と声を掛けた。


『ただいま帰りました』

「おかえりなさい」


原田の声に自然に返した後、彩子は照れ笑いした。


『やっと休みになりましたよ』

「大変でしたね。でも、もう安心ですね」


彩子はサイドテーブルに置いたカレンダーを手に取る。原田も、同じことを考えているのだ。


『そう、安心して会えます』


原田は応え、すぐに用件を切り出した。


『この前の話ですが』

「山の話ですね」

『そう。それなんですけど、よく考えると今は雪のシーズンだから、山はまたの機会にして、ドライブでもしませんか』


彩子の頭の中で、カラフルな花々が一斉に咲き乱れた。


「はいっ、行きたいです。ぜひ!」


二人は1月3日に出掛ける約束をした。


『海沿いの道を走りましょう』

「はい、楽しみです」


目的地を設定しないというのが、彩子には新鮮だった。

山辺家は全員、ドライブが好きである。

今は勝手に遊びに出掛けてしまう父だが、彩子と真二が子どもの頃は、よくドライブに連れて行ってくれた。

母もそんな時は喜んで弁当をこしらえ、家族で楽しく過ごしたものだ。

しかし、楽しいばかりではなかった。

父はきっちりと計画を立て、行程どおりにドライブする主義だ。なので、家族が寄り道したいと言っても、敢然と無視した。


――帰宅時間が遅れる。寄り道なんて絶対にダメだ。


今でも耳に残る、厳しく突き放す声。

あれさえなければ、もっと楽しいドライブになったはずなのにね……と、母は今でも愚痴っている。

どうやら原田は、父親と違うタイプのようだ。

彩子は嬉しく思いつつ、来年のカレンダーの1月3日に丸い印を付けた。


「新年の初めての予定がデート。縁起がいいなあ」


磨いたばかりの窓ガラスに、にまにまする顔が映っている。生まれて初めて味わう、この満ち足りた気分。

だが、彩子はまだ気付いていない。

自分が今いるのは、恋愛のほんの入り口に過ぎないということを。




大晦日――

山辺家では毎年恒例のカニすき鍋が始まった。

この日だけは、テレビのある居間に大きな座卓を運び、家族四人で鍋を囲む。

カニが次々に茹で上がると、皆、一心不乱に食べ始めた。それぞれの視線はカニと、テレビの年末番組を往復する。

少々行儀が悪いが、大晦日は特別だ。

これでなくてはカニをじゅうぶん味わえないと、全員が思っている。


やがてカニは食べつくされた。あとは野菜を食べて雑炊で締めるという、これも定番コースである。


「今年は豪勢だったな。ズワイもタラバもたっぷりで、腹いっぱいだ」


父がう~んと唸り、メタボリックな腹をさする。


「姉貴さまさまだね」


真二がおどけて言い、彩子に小突かれた。


「何だ、例の話か」

「そうなの。怖いくらいに、うまくいってるのよ」


鍋に野菜を投入しつつ、母がニコニコして答える。


「ほお、前祝いってわけか」


父は焼酎が回り、顔が真っ赤だ。


「今度、デートするのよね」


母は彩子の部屋のカレンダーの丸印を、目ざとく見つけていた。


「まじで? すげー」


真二の驚き方は心外だが、彩子は鍋の野菜が煮えるのを黙って見つめる。


「デートって、どこへ行くんだ」


父が珍しく質問した。母も真二も興味津々で、彩子に注目している。

家族が関心を持ってくれるのは、悪いことではない。少々照れくさいが、彩子は答えることにした。


「ドライブだよ。海の方へ行くの」

「海って、どこの」

「特に決めてないけど」

「何だと?」


父は焼酎を空けたコップを座卓に置くと、咎めるように言った。


「計画性がないな。それじゃあ連絡が取れないじゃないか」

「携帯があるから大丈夫だよ。それに、そんなに遠くへは行かないから……」

「場所だけは決めてもらえ。それで、お父さんに報告してから行きなさい」


彩子の言い分も聞かず、父は敢然と命令した。


「はあ……」


例の癖が始まったと、一同、溜め息である。


「そんなあ、大丈夫よお父さん」

「木綿子伯母さんが紹介してくれた人だろ。心配ないって」


母も真二も口を揃えて援護するが、父は頑として聞き入れない。それどころか、誰一人味方につかない状況に機嫌を悪くしている。

父に話したのは失敗だった。彩子は激しく後悔するが、もう遅い。ますます意固地になった一家の長は、大きな声で言い放った。


「そんなこと言って、お前達。彩子が襲われたらどうするんだっ」


あまりの暴言に、彩子はもとより、母も真二も絶句する。

鍋の中では、野菜が煮えたぎっていた。 


「ひどい……」


彩子は生まれて初めて、父親を睨みつけた。

思春期より今日まで持ち続けている、父という異性への嫌悪感。それが猛烈な勢いで膨れ上がるのを止めることができない。


「さ、彩子?」


母が恐る恐る声を掛けるが、彩子の眼差しは微動だにしない。

誰も見たことのない怒りの目。

普段温和な人物が怒ると異様に怖いのだと、家族は思い知らされた。


父親という生き物は、妻の百の文句よりも、娘にたった一度睨まれただけで致命傷を負うようだ。

台所で黙々と後片付けをする彩子を気にしながら、父は居間でしょぼくれている。


「困ったものねえ」


母親は為すすべもなく、台所と居間をかわるがわる覗いた。彼女の目に、夫がこれほど惨めに映ったことはない。

ザマミロ! とも思えるが、ちょっと気の毒だった。親が子どもの心配をするのは当然のこと。今回は口が過ぎてしまったのだ。

だけど、彩子は自分のことで怒ったのではない。

原田を侮辱されたのが許せなかった。

もはや彼女の心は、親よりも誰よりも、好意を寄せる男性側にあるのだから。
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