フローライト

藤谷 郁

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寒稽古

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山辺家に帰り着き、原田が彩子の両親にそのことを話すと、二人ともやけに恭しい態度でわかりましたと返事をした。

そして夜遅くまで、彩子の母はあれを着て行け、あれを持って行けと大騒ぎだ。

昼間出かけた疲れもあり、彩子は半分夢の中でそれを聞いていた。



翌日の朝、彩子は母親に見送られて玄関を出た。


「きちんと挨拶するのよ。失礼のないよう、気を付けてね」

「わかってる。いってきます」


今日は原田の両親に初めて会う。

相手の家に対して異様に神経を使う母が、着るものや持ち物について、早朝からうるさく指導してきた。彩子は既に、疲れている。


「何だか窮屈だなあ」


シルクシフォンのブラウスにツイードのスーツ。いつもパンツスタイルなので、スカートの膝辺りが心もとない気がする。

我ながら似合わない格好だと思う。

アクセサリーは服装に合わせて真珠のネックレスを選んだ。緊張する場面でいつも身に着ける蛍石のチョーカーはバッグに忍ばせてある。


先に車で待っていた真二に「よろしくお願いします」と声をかけて、乗り込んだ。今日は弟が運転手をしてくれる。

いつもより女らしい装いの姉を、彼はしげしげと眺め回した。メイクも丁寧にほどこし、年相応の彩りを添えている。


「いつもそうしてりゃいいのに」


真二はそっけなく言うと、車を出した。

両家の中間にあたる位置で、原田と待ち合わせている。

その場所が近付くにつれ、彩子はなぜかとても恥ずかしい気持ちになってきた。今日は何かの理由で予定変更になるといい。

いっそ帰ってしまいたいとすら思う。


「原田さん、もう来てるよ」


真二の声に顔を上げると、スポーツ用品店の駐車場で、原田が車にもたれて待っているのが見えた。彼はスーツではなく、ジャケットにパンツという軽装だ。

彩子は少しだけホッとする。


真二は原田の車に寄せて駐車した。

彩子は手土産の袋を持ち、ぎこちない動作でゆっくりと降りる。

原田は彩子の姿を見ると、あれっという顔をした。


「今日は少し違うでしょう」

「そうですね。誰かと思いました」


愉快そうに声をかける真二に、原田はとぼけた調子で応えた。

だが、まぶしそうな彼の視線はまっすぐで、彩子はいたたまれなくなり、怒ったふりで真二を小突いた。


「では原田さん、今日は姉をよろしくお願いします」

「わかりました。帰りは僕が家まで送り届けますので」


真二は頷くと車に乗り込み、すぐにエンジンをかけた。


「ありがとう、真二」


彩子が慌てて窓越しに言うと、彼は片手を上げて合図をし、あっという間に走り去ってしまった。


「いいですね、兄弟って」


原田は真二が去った方向をしばらく眺めてから、彩子に振り返る。


「さて、行きますか」


助手席のドアを開けて、彩子にどうぞと乗車をすすめた。


「あっ、ありがとう」

「今日は特別サービスです」


原田のちょっとおどけた言い方に、彩子もようやく笑顔になった。



住宅街から少し離れた場所に原田家はあった。

車から降りて周りを見渡すと、畑があり、林があり、その間に民家が点在しているような、のどかな風景が広がっている。

山辺家の周囲に環境が似ていることに、彩子は安堵を覚えた。


「彩子さん、こっちですよ」


原田に手招きされて門をくぐると、石敷きのアプローチがポーチまで続いている。一歩一歩慎重に渡り、玄関に到着。

玄関脇にはプランターが並べられ、季節の花々がきれいに咲いていた。

家屋の南側に庭があり、北側の塀の向こうは隣家の庭先のようだ。


「そんなに緊張しないで」


硬い表情で目だけきょろきょろさせる彩子に、原田が声をかけた。


「えっ、はい……あの、がんばります!」


試合前の選手みたいに気合を入れると、彼は可笑しそうに笑う。

しかし彩子には、笑みを浮かべる余裕もない。今、最高潮に上がっている。

彩子はふと、原田が初めて山辺家を訪れた日を思い出す。彼は随分と落ち着いて見えたが、実は緊張していたのでは……と、想像する。

結婚を望む相手の両親に対面する。

それがいかに大変な行為なのか、身をもって理解したから。



「こんにちはー」


玄関の引き戸を開けた原田の声に、奥から「はーい」と返事が聞こえてきた。

スリッパの音とともに現れたのは原田の母、啓子だ。


「まあまあいらっしゃい、彩子さん。よく来て下さいました。どうぞどうぞ、お上がりになって」


満面の笑みでの出迎えに、彩子は倒れそうになりながらもぐっと堪える。


「こ、こんにちは。本日はどうも、あ、おじゃまいたします」


つっかえながら挨拶をしたあと、パンプスを脱ぎ、上がり框に足をかけた。本人にしかわからないが、体が小刻みに震えている。

彩子は我ながらみっともないと思うが、どうしようもない。原田がさり気なく支えてくれたので、なんとか立つことができた。


客間に通されると、彩子は原田の両親に挨拶をした。母に託された菓子折りを差し出し、深々と頭を下げる。

緊張のあまりぎこちない動きになるが、原田は微笑ましげに見守っている。


「彩子さん、よく来て下さいました。お会いできるのを、家内と楽しみにしていましたよ。あ、どうぞ楽にしてください」


原田の父、浩光が、労わるように声をかけた。


「ああ、本当に嬉しいわあ。彩子さん、今日はゆっくりしていって下さいね。ささ、ここに座って座って」


挨拶が済むと啓子はくだけた感じになり、彩子の肩を抱いて座布団に座らせる。


「あ、はい。ありがとうございます」


啓子の手のぬくもりに、肩の力が抜ける彩子だった。
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