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交叉する人々
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その頃、文治は手作りアクセサリー工房『コレー』のオーナーだった。
カフェを併設する工房には、客や会員の他、鉱物ファンの仲間がたくさん訪ねてくる。その中に、原田良樹という大学生がいた。
彼は小学生の頃から文治の店に遊びに来ては、工房を見学したり石の話をしていく、利発だが、少し変った男の子だった。
文治は自分の息子のように、かわいらしく思っていた。
ある日、いつものように良樹が訪ねてきた。リングを細工する文治の横に座り、熱心に見入っている。
「それにしても、時が経つのは早い。原田君も大学生か」
「ええ、もうハタチですよ」
文治はそこで、大きなため息をつく。
「君のような、純粋な男だったらよかったのに……」
「えっ?」
誰にも話せない悩みを、文治はつい喋ってしまった。息子に相談するかのように、感情まじりで。
「大変ですね」
良樹は打ちひしがれる文治に同情し、誠実に励ましてくれた。
「俺に出来ることがあれば言って下さい。協力しますよ」
良樹にとって文治は石の師であり、父親のように慕う存在だ。良樹の言葉には、本当に力になりたいという気持ちがこもっている。
「ありがとう、原田君。ありがとう」
文治は嬉しさのあまり、涙が出そうだった。
それから数日後、事態は深刻な様相を呈してきた。
文治の店の金に、美那子が手をつけたのだ。もちろん、浩二の差し金である。
「あの男と、そうまでして一緒になりたいのか。お前などもう娘でも何でもない。あいつと別れないというなら、家を出て行け!」
「ええ、出ていくわ。今から日本を発って、彼と二人、海外で暮らすつもりよ。もう帰ってこないから!」
文治はそれを売り言葉に買い言葉と受け取った。しかし美那子が実際にとった行動に、愕然とする。
美那子は泣きながら、いつの間に用意したのか旅行鞄を持つと、別れも告げず玄関を飛び出した。
彼女は文治に隠れ、海外で起業するという酒本浩二のために、資金を調達していた。そして、店の金まで持ち出し、ついて行くつもりでいたのだ。
雨の中、家を捨てて男のもとに走る娘に、文治は絶望した。
自分は今まで、懸命に娘を育てたつもりだ。母親のいない寂しさを感じさせないよう努力したのも、単なる自己満足に過ぎなかったのか。
「お願いだ……誰か、助けて下さい」
文治は無意識のうちに、良樹を呼んでいた。
酒本浩二にとって、美那子は金づる女の一人に過ぎない。彼がパートナーに選んだのは、彼と同じ種類の、世間ずれした賢い女である。
美那子は騙されたのだ。
空港に辿り着いた美那子が、店の金を持ち出せなかったと詫びると、浩二は残忍な目で別れを告げた。
空港に一人取り残された美那子は、行くあてもない。いまさら家にも帰れず、夢も轟音とともに海の向こうへ消え去った。
良樹は空港のロビーでぐったりする美那子を見つけると、声をかけた。
「美那子さん、帰りましょう。文治先生に頼まれたんです、俺」
見上げると、少年のように澄んだ瞳をこちらに向けて、良樹が立っている。
「帰れないわ。帰れない……」
「駄目ですよ、帰らなきゃ。俺が一緒に謝りますから、帰りましょう」
美那子は虚ろに彼を見つめる。
「じゃ、帰ってもいいけど……」
美那子はなぜかその時、自分を棄てた男に対する恨みを、同じ男である良樹に転嫁させた。黒い感情が膨れ上がり、止められなかった。
その日を境に、良樹の生活は一変した。
美那子はいつ何時でも彼を呼び出し、行く先々に付き合わせた。
気まぐれで、無軌道な行動。
憂さ晴らしの酒に付き合わされるのがほとんどだが、美那子が大声で叫んだり、店の備品を壊したりするので、良樹は謝罪役である。
だが良樹は、何も言わずに従う。
男を振り回すことで矜持を保つ美那子の姿は、哀れを誘った。
本人より困惑したのは、当時同居していた良樹の両親だ。
昼夜問わず呼び出され、いいように振り回される息子を心配した彼らは、美那子の行為について文治に強く抗議した。
しかし、良樹自身が美那子の気が済むまで付き合うと決めている。文治にも説得は不可能であり、両親はただ見守るしか出来なかった。
そして数か月後、事件が起こる――
ある日、美那子が夜の街で声を掛けてきた若い男をひっぱたいた。怒った男は美那子を突き倒して拳で殴り、足で蹴り上げた。
一瞬の出来事であり、良樹は止めようがなかった。
容赦のない激しい暴力。しかも、今のは格闘技の蹴りだ。良樹は目もくらむような怒りを覚えた。
男は酩酊し、異様な目つきだった。
美那子を介抱する良樹に近付き、ボキボキと指を鳴らす。
『お前の女か?』
良樹は無言で立ち上がると、思わず身構える。
しかし相手の体格はこちらを上回り、腕力の差も歴然としている。形勢はあまりにも不利だ。
通りすがりの酔客たちが遠巻きに見ている。
ここで死ぬかもしれないと、良樹は本気で思った。
「警察が来たぞー!!」
突然誰かが大声を上げた。
その瞬間、男の拳が良樹を吹っ飛ばした。
意識を失う直前、良樹の脳裏に文治の顔が浮かび、無念を感じた。
気がつくと、病院のベッドの上。
母の泣き顔が、覗き込んでいる。
廊下から、父と文治の話す声が聞こえた。
良樹はぼんやりした頭で、男の一撃で気を失ったらしい……と状況を把握する。
拳が入る瞬間、反射的に防御した。そのおかげか、大事に至らずに済んだようだ。
男は逃げたと、母が言った。
美那子はようやく目を醒ました。
事件の数日後、文治が面やつれした彼女を連れて原田家に謝罪に訪れた。
玄関に入ろうとしない二人に、父親が対応する。
母親は姿を見せなかった。
父親は、文治と美那子に約束させた。今後一切、良樹に関わらないことを。
良樹は堪らず、母が止めるのを聞かず外に飛び出した。
頬が腫れた痛々しい彼の姿に、文治は頭を深々と下げ、美那子も長いこと顔を上げられないでいる。
「俺が百も承知でやったことだよ、文治先生」
精一杯の気持ちで良樹が言うと、二人は原田家を立ち去った。
文治の小さな背中が哀しくて、良樹の胸は痛んだ。
それからしばらくして、文治から良樹宛に荷物が届く。中身を見ずに捨てようとした母から良樹はふんだくり、その箱を開けてみた。
真新しい空手着だった。
『原田君の勇気が美那子を救ってくれた。原田君と、原田君の勇気を育んだ空手道に心から感謝の気持ちを贈ります。受け取って下さることを、切に切に願います』
後日届いた手紙に、空手着にこめた文治の思いが認められていた。
良樹は何度も読み返し、文治の心をしっかりと受け取る。
(大切に使わせてもらいます)
原田良樹――二十歳の出来事だった。
カフェを併設する工房には、客や会員の他、鉱物ファンの仲間がたくさん訪ねてくる。その中に、原田良樹という大学生がいた。
彼は小学生の頃から文治の店に遊びに来ては、工房を見学したり石の話をしていく、利発だが、少し変った男の子だった。
文治は自分の息子のように、かわいらしく思っていた。
ある日、いつものように良樹が訪ねてきた。リングを細工する文治の横に座り、熱心に見入っている。
「それにしても、時が経つのは早い。原田君も大学生か」
「ええ、もうハタチですよ」
文治はそこで、大きなため息をつく。
「君のような、純粋な男だったらよかったのに……」
「えっ?」
誰にも話せない悩みを、文治はつい喋ってしまった。息子に相談するかのように、感情まじりで。
「大変ですね」
良樹は打ちひしがれる文治に同情し、誠実に励ましてくれた。
「俺に出来ることがあれば言って下さい。協力しますよ」
良樹にとって文治は石の師であり、父親のように慕う存在だ。良樹の言葉には、本当に力になりたいという気持ちがこもっている。
「ありがとう、原田君。ありがとう」
文治は嬉しさのあまり、涙が出そうだった。
それから数日後、事態は深刻な様相を呈してきた。
文治の店の金に、美那子が手をつけたのだ。もちろん、浩二の差し金である。
「あの男と、そうまでして一緒になりたいのか。お前などもう娘でも何でもない。あいつと別れないというなら、家を出て行け!」
「ええ、出ていくわ。今から日本を発って、彼と二人、海外で暮らすつもりよ。もう帰ってこないから!」
文治はそれを売り言葉に買い言葉と受け取った。しかし美那子が実際にとった行動に、愕然とする。
美那子は泣きながら、いつの間に用意したのか旅行鞄を持つと、別れも告げず玄関を飛び出した。
彼女は文治に隠れ、海外で起業するという酒本浩二のために、資金を調達していた。そして、店の金まで持ち出し、ついて行くつもりでいたのだ。
雨の中、家を捨てて男のもとに走る娘に、文治は絶望した。
自分は今まで、懸命に娘を育てたつもりだ。母親のいない寂しさを感じさせないよう努力したのも、単なる自己満足に過ぎなかったのか。
「お願いだ……誰か、助けて下さい」
文治は無意識のうちに、良樹を呼んでいた。
酒本浩二にとって、美那子は金づる女の一人に過ぎない。彼がパートナーに選んだのは、彼と同じ種類の、世間ずれした賢い女である。
美那子は騙されたのだ。
空港に辿り着いた美那子が、店の金を持ち出せなかったと詫びると、浩二は残忍な目で別れを告げた。
空港に一人取り残された美那子は、行くあてもない。いまさら家にも帰れず、夢も轟音とともに海の向こうへ消え去った。
良樹は空港のロビーでぐったりする美那子を見つけると、声をかけた。
「美那子さん、帰りましょう。文治先生に頼まれたんです、俺」
見上げると、少年のように澄んだ瞳をこちらに向けて、良樹が立っている。
「帰れないわ。帰れない……」
「駄目ですよ、帰らなきゃ。俺が一緒に謝りますから、帰りましょう」
美那子は虚ろに彼を見つめる。
「じゃ、帰ってもいいけど……」
美那子はなぜかその時、自分を棄てた男に対する恨みを、同じ男である良樹に転嫁させた。黒い感情が膨れ上がり、止められなかった。
その日を境に、良樹の生活は一変した。
美那子はいつ何時でも彼を呼び出し、行く先々に付き合わせた。
気まぐれで、無軌道な行動。
憂さ晴らしの酒に付き合わされるのがほとんどだが、美那子が大声で叫んだり、店の備品を壊したりするので、良樹は謝罪役である。
だが良樹は、何も言わずに従う。
男を振り回すことで矜持を保つ美那子の姿は、哀れを誘った。
本人より困惑したのは、当時同居していた良樹の両親だ。
昼夜問わず呼び出され、いいように振り回される息子を心配した彼らは、美那子の行為について文治に強く抗議した。
しかし、良樹自身が美那子の気が済むまで付き合うと決めている。文治にも説得は不可能であり、両親はただ見守るしか出来なかった。
そして数か月後、事件が起こる――
ある日、美那子が夜の街で声を掛けてきた若い男をひっぱたいた。怒った男は美那子を突き倒して拳で殴り、足で蹴り上げた。
一瞬の出来事であり、良樹は止めようがなかった。
容赦のない激しい暴力。しかも、今のは格闘技の蹴りだ。良樹は目もくらむような怒りを覚えた。
男は酩酊し、異様な目つきだった。
美那子を介抱する良樹に近付き、ボキボキと指を鳴らす。
『お前の女か?』
良樹は無言で立ち上がると、思わず身構える。
しかし相手の体格はこちらを上回り、腕力の差も歴然としている。形勢はあまりにも不利だ。
通りすがりの酔客たちが遠巻きに見ている。
ここで死ぬかもしれないと、良樹は本気で思った。
「警察が来たぞー!!」
突然誰かが大声を上げた。
その瞬間、男の拳が良樹を吹っ飛ばした。
意識を失う直前、良樹の脳裏に文治の顔が浮かび、無念を感じた。
気がつくと、病院のベッドの上。
母の泣き顔が、覗き込んでいる。
廊下から、父と文治の話す声が聞こえた。
良樹はぼんやりした頭で、男の一撃で気を失ったらしい……と状況を把握する。
拳が入る瞬間、反射的に防御した。そのおかげか、大事に至らずに済んだようだ。
男は逃げたと、母が言った。
美那子はようやく目を醒ました。
事件の数日後、文治が面やつれした彼女を連れて原田家に謝罪に訪れた。
玄関に入ろうとしない二人に、父親が対応する。
母親は姿を見せなかった。
父親は、文治と美那子に約束させた。今後一切、良樹に関わらないことを。
良樹は堪らず、母が止めるのを聞かず外に飛び出した。
頬が腫れた痛々しい彼の姿に、文治は頭を深々と下げ、美那子も長いこと顔を上げられないでいる。
「俺が百も承知でやったことだよ、文治先生」
精一杯の気持ちで良樹が言うと、二人は原田家を立ち去った。
文治の小さな背中が哀しくて、良樹の胸は痛んだ。
それからしばらくして、文治から良樹宛に荷物が届く。中身を見ずに捨てようとした母から良樹はふんだくり、その箱を開けてみた。
真新しい空手着だった。
『原田君の勇気が美那子を救ってくれた。原田君と、原田君の勇気を育んだ空手道に心から感謝の気持ちを贈ります。受け取って下さることを、切に切に願います』
後日届いた手紙に、空手着にこめた文治の思いが認められていた。
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