一億円の花嫁

藤谷 郁

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横浜デート

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 化粧室を飛び出し、全速力で通路を走った。

(助けて!)

 展望フロアのドアを開けて中に入り、薄暗い空間を転びそうになりながら横切る。恐ろしくて後ろを向けない。彼女が追いかけて来たらもう終わりだ。

「由比さん……由比さん、どこ?」

 窓際を必死で探すけれど、見つからない。そもそも、元いた場所はここだったろうか。
 それとも、まさか先に帰ってしまったのでは?
私はパニックになり、苦しくて、息が止まりそうになる。

「ひいっ!!」

 突然、腕を掴まれた。
 ふりほどこうとするが、今度は肩を押さえられる。

「離して、いやっ」
「奈々子!」

 男の人の声。
 私を揺さぶるのは、男性の力だった。

「俺だよ。どうしたんだ」
「ゆ、由比さ……ん」

 涙が溢れた。堰を切ったように、とめどなく流れ落ちる。

「ご、ごめんなさい。わ、私……っ」
「奈々子。大丈夫だ、落ち着け」

 周囲の目も気にせず、彼は抱きしめた。子どもみたいにしゃくりあげる私を、力いっぱい。

「由比さん……っ。いなくなったのかと……」
「一人にして悪かった。もう離れないから、安心しろ」


 私が落ち着くまで、由比さんは慰めてくれた。長い時間、ずっと。

 彼の温もりは萎縮した心をじんわりとほぐし、安堵をもたらしてくれた。
 丸ごと受け止め、包んでくれる。
 それは紛れもなく、愛情だった。


◇ ◇ ◇


「ほら、飲んで。ずいぶん泣いたからな、水分補給だ」
「あ、ありがとうございます」

 テーブルにホットミルクが運ばれてきた。砂糖を入れてかき混ぜてから、ゆっくりと飲む。甘くて優しい、今の私に一番必要な飲み物だった。

「落ち着いたみたいだな」
「はい……」

 展望フロアを出たあと、二人は下のカフェに移動した。午前中に入ったのと同じ店の、同じソファである。
 ここなら落ち着けると、由比さんが連れて来てくれたのだ。

「あの、さっきは本当にすみませんでした。パニックになってしまって」

 カップを置いて、あらためてお詫びした。今頃になって恥ずかしさを覚える。子どもみたいに泣いたこともだが……

「いいよ。可愛い奈々子のためなら、俺は何でもする。いつでもどこでも、めいっぱい甘えてくれ」
「う……っ」

 そのとおり、思い切り甘えてしまった。
 人前で泣きじゃくったり、男の人に抱きしめられるなんて信じられない。

「失礼します、由比様」

 店員が来たので、私は再びカップを手に取り、前に向き直る。
 ここから見る夜景も、とても美しい。

「先ほど、羽根田はねだ様からお電話がありました。由比様がお帰りの際、オーナー室にお立ち寄りいただきたいとのことです。ぜひ、お会いしたいそうで」
九郎くろうさんが? わざわざ会いたいなんて珍しいな」

 羽根田というと、このビルのオーナー『羽根田ビルディング』の社長だろうか。そういえば、由比さんのお父様とオーナーは友人関係だと聞いた。

「じゃあ後で寄ってみるよ。でも、俺がここにいるってなんで分かったんだろ」
「それは……」

 店員が私をチラッと見てから、少し言いにくそうに答えた。

「展望フロアのスタッフが由比様をお見かけして、オーナーに報告したそうです。なにやら騒ぎがあり、由比様がお連れの方とともにカフェに移動したと……」

 ドキッとした。
 騒ぎというのは展望フロアでの件だ。

「なるほどね。九郎さんは何時までいるって? 俺たちはもう少し、ゆっくりしたいんだけど」
「今夜はこちらにお泊まりなので、遅くなっても構わないとのことです」
「そうか。ありがとう」
「ごゆっくりどうぞ」

 店員は会釈すると、私にも微笑みかけてから立ち去った。

 もしかしたら、私が騒いだせいで由比さんが注意されるのでは。他のお客様からクレームが来たとか。

「奈々子、心配するな。九郎さんは、そんな野暮な人じゃない」

 オロオロする私を見て、由比さんが笑う。

「九郎さんというのは、お父様のご友人の?」
「うん。羽根田ビルディングの社長さん。一人息子が俺と同じ年だから、俺のことも息子扱いしてるんだ。しばらく会ってないし、単に顔を見たいだけだろ」
「そ、そうなんですか」

 オーナーとは、かなり親しい間柄のようだ。私はホッとしながら、ミルクを飲み干した。

「しかし、横浜の夜景はいつ見てもキレイだな。お客さんが集まるわけだ」

 由比さんがソファにもたれ、窓越しの景色を眺める。その姿はゆったりとして、横顔にも態度にも余裕が感じられる。

 やはりこの人は、大人の男性だと思った。

 私が泣いたわけを、彼は訊かない。迷惑をかけたのに、一つも責めることなく隣にいてくれる。

 不思議な人。
 だけど、私は由比さんがいてくれて良かったと感じる。
 恐怖でパニックになったあの時、彼に抱きしめられて、心から安心できた。

「由比さん」
「うん?」

 由比さんがこちらを向く。

「聞いてくれますか……14歳だった頃の、私について」

 何も言わず、うなずいてくれた。もしかしたら、そのつもりだったのかもしれない。
 とてつもなく優しい瞳が、私を見つめている。

「途中で辛くなったら、無理しなくていい。だが忘れるな。俺はいつだって奈々子の味方だ」

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