恋の記録

藤谷 郁

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雨の夜

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間もなく本町駅に着いた。ラッシュの時間なのでホームは混雑している。

人波に押されるように改札を出て、駅ビルの通用口へと向かった。駅に直結した職場は通勤に便利だが、人の流れが速くて慌ただしい。

今日はパンツスタイルに合わせて、フラットな紐靴を履いている。お洒落なパンプスと違って歩きやすく、通勤にもってこいだ。


「それに、今日は雨降りだから滑りにくい靴じゃないと……あれっ?」


受付で社員証を取り出す時、傘を持っていないことに気付く。

電車のドアのところに立て掛けておいたのを、忘れてしまった。水樹さんのことを考え、ぼんやりしていたせいだ。

この前買ったばかりの新品なのに。自分のうっかりに呆れるやら、恥ずかしいやらで、頭を抱える。


「一条さん、おはよう。どうかしたの?」

「……え?」


聞き覚えのある声。

私はぱっと振り向き、思いきり目を見開いた。


「みっ、水樹さん……」


どうしてここに? と続けようとして、その愚問を飲み込む。

彼の職場も駅ビル内にあるのだった。


「おはようございます! あの、電車の中に傘を忘れて、ショックのあまり呆然としてしまって……」


「ショック?」


水樹さんはクスッと笑う。

大げさな表現が可笑しかったのだろう。私もそう思う。


「ふうん、よほど大切な傘なんだ。後で駅に問い合わせてみなよ、きっと見つかる」

「はいっ、そうします」


水樹さんと一緒に受付を通った。

二人並んで歩き、従業員用エレベーターに乗る。他に誰もおらず、狭い空間に二人きりだ。


「今日はあいにくの天気だね」

「ええ、き、昨日の快晴が嘘みたいです」


我ながら滑稽なほど緊張している。過剰反応もいいところだ。

でも無理もない。これは思わぬイベント発生だ。

同じビルに勤める者同士、遭遇確率が高いとはいえ、初日から会えるなんて幸運すぎる。

しかも、彼のほうから声をかけてくれた。


「今日が初出勤か。緊張する?」

「それはもう、ハイ」


あなたに対して、ド緊張しております。と、心の中で本音を言う。

私に比べて水樹さんはリラックスモードだ。そういえば、口調もかなりくだけている。昨日もそうだったかしら。

あれこれ考える間にエレベーターはノンストップで上昇する。もう六階に着いてしまう。ああ、もっと話したいのに。


「転勤したばかりだし、当分は忙しいだろうな。そうだ、一条さん」

「はい?」


声が裏返ってしまう。
でも水樹さんは気に留めず、早口でそれを伝えた。


「君の都合のいい日に食事をしよう。予定が分かったら連絡してくれ、待ってるよ」


エレベーターが六階に着いた。

扉が開くと水樹さんはにこりと微笑み、私の返事を聞かぬまま行ってしまう。


「食事の約束……やっぱり、昨日の誘いは本気だったのね」


再び動き出したエレベーターの中、私は一人喜びに震える。

彼は本当に運命の男性かもしれない。信じられないけれど、信じてもいい……じゃなくて、信じる!

水樹さんの紳士的な態度、そして意外な強引さに、私はまたしても魅了された。頬が火照り、全身が熱くなる。

彼の気持ちは本気だと、体が感じていた。



恋の喜びは、仕事のモチベーションに影響する。職場に着いた私は、やる気満々の態度で、新しい仲間達に挨拶した。


「一条春菜と申します。東京本店から異動してきました。副店長として、また企画担当として、本町駅店を皆さんと一緒に盛り上げていきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします」


朝礼前に事務所に集まったのは、冬月書店本町駅店の店長と、売り場のチーフが五人。私の挨拶の後、それぞれ短く自己紹介した。


「まずは、副店長にご就任おめでとうございます。一条さんの企画力に、私はもちろんスタッフ皆が期待していますよ。ぜひ、若い力で引っ張っていってください」


古池こいけ店長は私を激励しながら、顔をほころばせる。彼は四十代半ばのベテラン社員。面倒見の良い、穏やかな人柄だと聞いている。

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