恋の記録

藤谷 郁

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奇怪な日常

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「きゃあああああっ!!! 化け物! オバケ! いやあああああーーーーー!!」


悪霊退散とばかりに傘を振り回す。

しかし幽霊は右へ左へ素早く動いて攻撃をかわし、片手で傘を掴んだ。


(なっ……)


傘を通して伝わる、この、はっきりとした手応え。

実体のある幽霊? ということは、こちらに対して、物理的な攻撃が可能なわけで……


「おい」

「!」


幽霊が喋った。

しかも、地獄の鬼のように恐ろしく、恨めしげな声。

私はパニックに陥り、傘を手放して一目散に逃げ出した。もう何も考えられない。


「助けて、誰かあああっ!!」

「おい、待てっ」


エントランスを飛び出し、雨の中を走り出す。だが足がもつれて転び、後ろから覆い被さってきた幽霊に両肩を掴まれてしまう。


「ひいいっ」


もうダメ、取り殺される――!


智哉さんの顔が浮かんだ。彼がいてくれたら、こんなやつ、追い払ってくれるのに。


「いやああっ、殺される! ともやさん、助けて! 助けてえっ!!」

「誰が殺すんだ。落ち着けっての」

「化け物ーーっ!」


暴れて逃れようとするが、体の自由がきかない。完全に、取り憑かれてしまった。

このまま地獄へと引きずり込まれるのだ。


「やめてええっ!!」

「うるせえ! 俺はバケモンじゃねえ。警察だ!!」

「や……」



けいさつ?



もがくのを止めて、恐る恐る振り向く。

幽霊が、困ったような、呆れたような顔で見下ろしている。そして、呆然とする私を、強い力で引っ張り起こした。


「きゃあっ」

「こっちに来い。まったく、何なんだアンタは!」


エントランスへと連れ戻される。

私の背中を押す手のひらは温かい。これは、生きている人間の手だ。


「え……ええっ?」



集合ポストの前で、彼は私をまっすぐに立たせた。


「落ち着いたか? ほら」


床に放り出された傘を拾い、柄をこちらに向けて差し出す。

おっかなびっくり受け取った私は、幽霊だと思い込んだ彼の姿を、あらためて正面から眺める。

足がある。影もある。この人は、間違いなく生きた人間だ。


「あ、あな、あなた……どうして。死んだはずじゃ……」

「何だって?」


ぎろりと睨まれた。この鋭い目つきと恐ろしい面構えは、間違いなくコワモテ男だ。

でも……

何が何だかわからず、混乱を極めながらも私は考えた。


確かにこの人は、以前電車の中で出会ったコワモテ男。しかしよく見ると、今日の彼はくたびれたジャンパーの下に、作業着ではなくスーツを着ている。

何より髪が短く、ぼさぼさではない。全体的な印象が違う。

それに、さっき彼は「警察だ」と言った。


「私服の警察……ひょっとして、刑事さん、なんですか?」


まさかと思いながら訊ねると、彼はぶすっとしたまま頷き、胸ポケットから取り出したものを私の目の前で開く。

ドラマや映画で見たことがある、二つ折りの身分証明書だ。


みどり署の東松とうまつです。あなたは、メゾン城田の住人ですね」

「は、はい」


言葉遣いが丁寧になった彼に対し、私はかえって緊張する。

本当に、本物の刑事のようだ。


「亡くなられた鳥宮さんの件で、住人の皆さんにお尋ねしています。少し、よろしいですか」



私は、とんでもない勘違いをしていたらしい。

何てことだろう……



東松さんという刑事とともに、エレベーターに乗り込んだ。五階までほんの数十秒だが、私はいたたまれず、逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。

この人は、隣人ではなかった。それどころか、メゾン城田の住人ですらない。


「あの、すみません。私……実は以前、あなたと電車の中でお会いしたことがあって」

「ああ、覚えてますよ。電車が揺れた拍子に、体当たりしてきた」

「はい?」


思わず見上げると、彼はにやりと笑う。


「た、体当たりしたわけでは……」

「まあいいです。いろいろ誤解してるようだけど、とりあえずバケモンじゃないって、わかってくださればね」

「うっ……」


冗談まじりで皮肉を言われ、私は嫌な気分になるが、黙るほかない。

考えてみれば、あまりにも失礼な話だ。顔が怖いという、ただそれだけの理由で悪いやつだと思い込み、様々な誤解をした。その上「化け物」だの「オバケ」だの暴言を吐き、しかも傘を振り回して攻撃してしまった。


「それにしたって、えらい怖がりようだ。いくら俺がコワモテだからって」

「え?」


東松さんは真顔に戻り、私の目を凝視した。


「さっき、あなたは私を見て、『死んだはず』と言いましたね。ひょっとして、亡くなった鳥宮さんと私を、同一人物だと思ってたのかな?」

「それは……」

「物騒なことも言ってたな。殺される、とか」


探るような眼差し。いや実際に、探られているのだ。

なぜそんなことを……と、問いかける前に、彼は表情を緩めた。


「いろいろ聞かせてもらいますよ、507号室の一条春菜さん」

「……!」


私はようやく、なぜ刑事がここにいるのか疑問を持った。

そして、コワモテ男――東松さんが隣人ではなかったとしたら、鳥宮とはどんな人物なのか。私のポストにあの紙を入れた苦情主の正体は一体……


「鳥宮さんは、自殺ではなかったのですか?」


エレベーターが五階に到着し、ドアが開く。

私の問いに東松さんは答えず、先に降りるよう促した。無言の圧力を感じ、もう一度訊くことはできなかった。

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