恋の記録

藤谷 郁

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正義の使者〈1〉

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「夜?」

『ええ。申しわけありませんが、副店長は多忙ですので』


やはり、本人に取り次ぐのを避けている。しかも、声に敵意が滲むのがわかった。

警戒ではなく、敵意だ。

妙な店長である。


(夜まで待ってられるか。仕方ない、強引にいくぞ)


端末を握り直した時、突然メロディーが聞こえた。保留の音楽だ。


「どうした。一条さんはいないのか」


小声でせっついてくる水野さんに、わかりませんとジェスチャーで答える。売り場にいると古池は言うが、本当だろうか。

しかし、いきなり保留にするとは、どういうことだ。

このまま電話が切れてしまいそうな気がして、焦っていると……


『もしもし、お電話代わりました。一条です』


彼女の声が耳に飛び込んできた。古池の口調がねっとりしていたせいか、とてつもなく爽やかに響く。


「あ、こんにちは。ワタシ、東松です」


舌を噛みそうな俺を見て、水野さんがホッとするのがわかった。


「お忙しいところ、すみません」

『いえ、構いません。ちょうど小休止の時間なので』


夜まで手が空かないという古池の発言は何だったのか。

よくわからないが、彼女がタイミングよく事務所に入ってきたらしい。古池は電話を代わらざるを得なかったようだ。


「昨日は捜査にご協力をありがとうございました。実はですね……」

『あのっ、東松さん』

「はい?」

『場所を移動します。携帯から折り返しますので、少し待っててもらえますか』


一条春菜は声を潜めた。

背後で店長が、聞き耳を立てているのかもしれない。


「わかりました。番号は……」

『お名刺をいただいてますので』

「そうでしたね。では、お願いします」


電話は一旦切れた。

しばし待つと着信音が鳴り、俺はすぐに応答する。


『失礼しました。更衣室に移動したので、もう大丈夫ですよ』


先ほどよりトーンが明るい。

俺は何となく事情を察した。更衣室というと、男性が入ることのできない場所である。


「事務所にはまだ、店長さんが?」

『はい、ちょっと……あの人には聞かれたくなくて。お友達と言ってくださり、助かりました』


古池という男は、部下に干渉するタイプらしい。それも、特殊な干渉だ。

女性社員に個人的な相談をされて、勘違いする男上司は結構いる。警察からの電話だと古池が知れば、あれこれと詮索するだろう。

敵意の滲む声のわけも想像がついた。


『もしかして、昨夜お渡しした苦情の紙についてですか?』

「ええ、実は……」


彼女にとって不愉快な話だろうが、俺は正確に伝えた。

507号室のポストに苦情を入れたのは、鳥宮優一朗であること。そして、彼が隣のベランダから部屋を覗こうとしていたことも。


一条さんは黙って聞いてくれた。気味が悪すぎて、返事ができないのかもしれないが。


「もしもし、一条さん。大丈夫ですか」

『あ、はい。すみません。さすがに、びっくりして……』


動揺を隠しきれない彼女に遠慮しそうになるが、感情に流されてはならない。一呼吸置いてから、足跡と指紋採取の立ち会いに同意を求めた。


『わかりました。残りの仕事を片付けてからなので、アパートに着くのは一時間ほど後になりますが』

「えっ、すぐに来てくれるのですか」

『はい』


迷いのない返事。意外にも彼女は前向きだった。


「しかし、今日は忙しいのでは?」

『いえ、どちからといえば余裕があります。それに、もともと早めに帰るつもりでしたから』


古池の話とまったく違う。


(あの店長、しれっと嘘をついたぞ)


部下のにでたらめを言って、どうしようというのだ。

おそらく日頃から嘘をつき慣れている。信用ならない人間だと思った。


「それでは、お待ちしています」


一条さんの協力を取り付けた後、水野さんが鑑識員に連絡した。前もって要請しておいたので段取りよく進む。


「大家さんにも連絡しますか」

「はっきりしてからにしよう。あと、鳥宮の両親にも報告が必要だ。彼らにとって良くない結果になるだろうな」

「……ええ」


推測される転落理由は、自殺とはまた別の意味できつい。


「絶縁状態といっても鳥宮優一朗の保証人は父親だ。賠償金を払うことになるかもしれん」

「えらいことですね」


自殺であっても賠償問題は発生する。家主だけでなく、アパートの住人が精神的苦痛を訴えるケースもある。


「ここも引越す人が出るだろう。特に一条さんは、住んでいられないんじゃないか」

「……」


俺はふと、507号室のベランダを思い出す。こんなに良い天気なのに、洗濯ものが干されていなかった。


「時間が余ったな。東松くん、コンビニに行ってみるか」

「あ、はい」


一条春菜が帰宅するのは一時間後。

俺と水野さんはコンビニの防犯カメラを先にチェックすることにし、静かなアパートを後にした。
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