恋の記録

藤谷 郁

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正義の使者〈4〉

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「病室は6階だろ?」

「そうです。しかし、それしか外に出る方法がないのです」


相田の説明に班長が補足した。


「私は一瞬も目を離さず、6階病棟に設置された防犯カメラをチェックしていました。山賀の部屋に出入りしたのは、午後7時過ぎに夕飯の食器を下げにきた看護師のみ。一条春菜は病室に入ったきり、姿を消してしまったんです」


管理官は狐につままれたような顔になる。他の捜査員も同じだった。


「それで、現場の様子はどうだったんだ。一条が下に降りた方法を推測できるのか」

「窓の外は垂直の壁です。ロープなど見当たりませんし、あったとしても女性が下まで降りるのは無理です」

「目撃者は」

「聞き込みを行っていますが、今のところ目撃者はありません。現場は建物の裏手で、しかも雨が降っているため人気がなく、夜ですので」


またしても雨の夜。俺は条件反射的に、鳥宮の死を連想した。


「どうやってか分からないが、とにかく一条春菜は6階の窓から脱走したってことだな」

「はい。脱走です」


捜査員の視線が俺に集中する。彼らの目は、寝不足と苛立ちで真っ赤に染まっていた。


「東松。お前が信用する一条春菜は、逃げたようだな。警察に協力するふりで水樹と連絡を取り、脱走したのだ」


管理官の言葉は、現状を語っている。だが俺は、認めるわけにいかなかった。


「待ってください。彼女がいなくなったのは、何かきっと、事情があるからです。我々を裏切る理由がありません」

「しかし実際に脱走してるだろ!」


俺を押し退けて瀬戸さんが前に出た。


「管理官。私も一条春菜が裏切るとは考えられません。東松の言うとおり逃げる理由がなく、これまでの行動と矛盾しています」

「逃げる理由を隠してたんだ。お前たちが、それを見抜けなかっただけだ!」


本部のエースにも耳を貸さない。管理官の怒りは収まらず、椅子を蹴って立ち上がると、さらなる大声で怒鳴った。


「重要参考人の一条春菜を捕まえろ。緊急配備だ!」


重要参考人……

いくらなんでも共犯扱いはない。管理官に異議を唱えようとする俺の肩を、強い力が掴んだ。


「おい、所轄」


敵意のこもる言い方に、思わず振り向く。県警本部の捜査員だった。


「結局、あの女は水樹と繋がってたんだよ。お前は美人局に引っかかり、いいように利用されたんだ。こっちはいい迷惑だぜ!」


侮辱的な物言いにカッとなるが、堪えるほかない。状況を見れば、一条さんが警察に背を向け行方をくらませたのは事実だ。

緑署の刑事たちも押し黙り、本部の憤りを受け止めている。いたたまれなかった。



管理官は手配を済ませると、あらためて俺に命じた。


「お前はしばらく捜査を外れろ。水樹は我々が捕まえる」

「管理官、しかし……」

「頭を冷やせ!」


上官の命令は絶対だ。

立ちすくむ俺をよそに、捜査員は皆それぞれの持ち場に着く。

一条さんが、俺たちを裏切った。

信じられないという思いを握りしめ、部屋を出るしかなかった。




本部を外された俺は、独り刑事課にこもって書類仕事を片付けた。通常業務が滞っているため、仕事は山のようにある。

騒がしい雨の音が、ますます気を滅入らせた。


「精が出るな」


顔を上げると水野さんがいた。にこりと微笑み、カップコーヒーを俺の前に置いた。


「ありがとうございます。でも、俺なんかに構うと、管理官にどやされますよ?」

「ははは……君らしくもない。それに、今さらだろ?」


水野さんは向かいの席に座り、大きく伸びをした。のんびりとした仕草を見て、俺は肩の力が抜ける。

情けないが、外された事実がかなりこたえていた。


「どうしていなくなったと思う」


一条さんのことだ。


「分かりません」


本当に分からなかった。彼女は警察の捜査に協力し、水樹に罪を償わせると言った。本気の言葉だと、信じられた。


「さっきの話、途中だったよな」

「さっき?」


水野さんはカップを脇によけて、デスク越しに前のめりになった。


「うさぎの絆創膏がどうのって、言ってたじゃないか」

「ああ……」


一条さんが妙なことを言ったという話だ。俺は彼女の様子を思い出しつつ、水野さんに教えた。



「今の東松さんに、一番必要なものですよ……か」

「俺の手がささくれてるから言ったんでしょうけど、ちょっと大げさだなあと。冗談にしても意味が分からないし」

「ふむ、確かに。しかしなぜ今頃、『うさぎの絆創膏』なんだ?」

「ですよね。試供品をあげたことなんか、俺はすっかり忘れていました」


水野さんがしばし考え込み、ぽつりとつぶやく。


「案外、重要なメッセージかもしれないぞ」
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