恋の記録

藤谷 郁

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春菜と智哉

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23年前。

5月4日の深夜、北城が家に来た。

僕はとうに寝ていたが、うるさい喋り声に起こされ、いつものようにウサギ小屋に行こうとした。

だが、あの女がいやに優しい声で、「北城さんがケーキを買ってくれたのよ。一緒に食べましょう」などと誘ってくる。

裏がありそうだと直感するが、逆らうとヒステリックに喚きだすのを知っていたので、大人しく従った。


台所のテーブルに、3人分のお茶とロールケーキが用意されていた。

北城がニヤリと笑い、顎で椅子を指す。僕が座るのを待ち、女も北城の隣に座った。

最悪のお茶会だ。

早くハルのところに行きたくて、ケーキをむしゃむしゃと食べ、お茶で流し込む。すぐに椅子を立とうとすると、北城が僕の頭を押さえて無理やり座らせた。


『まあ、そう急ぐなよ。大事な話があるんだ』


やっぱりだ。こいつの目的は分かっている。安物のロールケーキは、僕を手懐けるための餌だった。


『よく聞けよ、ボウズ。沙智子と俺は近々結婚する。だからお前は俺の息子になるんだぜ?』


女は嬉しそうにケーキを頬張っている。僕の反応など、まったく見ようとしない。


『仲良くしようよ、智哉クン。子どもは大人の……じゃなくて、親の言うことを聞くもんだ。そうだろ?』

『……!』


いつもの圧力だ。子どもに対する、おとなげない脅し。北城を心から嫌う僕だが、力では敵わないから、黙って耐えていた。そう、いつもなら耐えられた。


『お前は「北城智哉」になるんだ。キタシロトモヤ。いい名前だよなあ、沙智子』

『ホント。私もようやく、水樹じゃなくなるのね。手続きが面倒だからそのまんまにしてたけど、せいせいするわあ』


男にしなだれかかり、甘えた声を出す。僕は嫌悪感でいっぱいになり、初めて反抗した。


『名前が変わるなんて嫌だ』


母親が再婚しても、子どもは苗字を変えなくてもいい。僕はそれを知っていたし、水樹という姓は父との大切な絆。絶対に変えるものかと主張した。


『ああん? もう一度言ってみろよ』


北城がドスのきいた声で僕に詰め寄る。でも僕は負けなかった。震えながらも、一歩も引かなかった。


『僕は、水樹智哉だっ』


女はお茶を飲み、知らん顔をしている。たとえ男が手を出しても止めはしないだろう。

だが、北城は暴力を振るわない。脅しや威嚇はしょっちゅうだが、それだけは徹底していた。

今なら分かるが、女を殺したあと、僕の後見人になるつもりだったからだ。虐待の証拠を残せば、それが難しくなる。脅しつつも僕を手懐けようとするのは、保険金目当てだ。


『もういい。さっさと行っちまえ、クソガキが!!』


北城が台所を出ると、女もついていく。ドアを閉める前に、舌打ちが聞こえた。


僕は震えが止まらず、自分が怯えているのを思い知らされた。どんなに強がっても、子どもはしょせん無力な存在。悔しくて、情けなくて、とてつもない絶望感に襲われる。


『お父さん……なんで死んじゃったの?』


記憶にあるのは、大きくて頼もしい父の姿。優しい笑顔。でももう、この世にいない。


『ハル……』


救いを求めて、ウサギ小屋に駆け込んだ。



ハルという名前は、亡くなった祖母が付けた。貰われてきたのが春だからという、単純な由来である。

赤い目をした純白のウサギを、僕は一人で世話をし、可愛がっていた。

北城が来るたびに家を閉め出され、ウサギ小屋で夜を明かしたが、全然つらくなかった。

神経質で、怖がりで、優しいハル。

ハルの温もりが、唯一の慰めだったから。



ウサギ小屋に駆け込んだ僕は、メソメソと泣いた。あいつらの前では絶対に涙を見せなかったが、ここでなら我慢せずにいられた。

初夏とはいえ、山間の夜は肌寒い。温もりが欲しかった僕は、牧草をかじるハルのそばに寄り添い、小さな声で話しかけた。


『僕はひとりぼっちじゃない。ハルだけは味方だよね』


返事はないが、きっと伝わっている。そう思うと少し落ち着いてきた。

犬の遠吠えが聞こえた。


『寒いの?』


淡い月明かりのもと、白い毛並みが、微かに震えているように見えた。抱っこしようとしてハルを持ち上げたが、その瞬間、左手に強烈な痛みを感じた。


『わっ!』


反射的にハルを離した。噛みつかれたと分かったのは、手の甲を確かめた時。歯の跡がくっきりと付き、血が滲んでいる。


『ハル……』


ショックだった。ハルに噛みつかれたのは初めてであり、信頼を裏切られた気がして、悲しみがこみ上げてくる。


『痛いじゃないか。ひどいよ、ハル!』


思わず頭を叩いた。ハルはビクッとして、小屋の隅に逃げ込む。こちらを見ず、ブルブルと震えている。


『あ……』


怖がらせたことをすぐに後悔した。でも、素直に謝ることができない。

さっきまでの悲しみが、尾を引いていた。


『嫌いだよ、ハルなんか』


涙を拭いて、小屋を出た。家に入れるわけもなく、外の道をフラフラと歩いていく。




『もういいや、どうでも』


しばらくさまよった後、手の甲を見ると血が止まっていた。

振り向くと、民家の灯りが遠くなり、あぜ道にひとりぼっち。帰る場所がなくなった僕は孤独に苛まれ、死んでしまいたいと思った。


結局、死ぬ方法が思いつかず、突き当たりの堤防まで歩いた。身も心も疲れ果てて、その夜は橋の下で眠った。

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