金木犀の恋

藤谷 郁

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12年前の秋――

私は15歳になったばかりの中学三年生。ひょろっとした身体つきで、背ばかり高い。いろんなコンプレックスを抱えた、どこにでもいる思春期の少女だった。
 
そして、たいていの女の子がそうであったように、恋をしていた。
 
初めての恋は、思春期の少女を自意識過剰にする。外に出かける時は、たとえ行き先が近所の商店街であろうと、髪型や服装に気を配り、お洒落をした。

いや、近所の商店街だからこそ、気合を入れたのだ。


「あずみちゃん、ちょっとおつかいに行ってちょうだい。公園前の佐藤クリーニングに、お父さんのスーツが出してあるの。明日出張に着て行くのをすっかり忘れてたわ」
 

その時母は、サンマを焼いている最中だった。
 
私はドキッとして、少し迷ってから「はーい」と返事をした。

読みかけのマンガを放り出し、急いで出かける準備をする。野暮ったいカットソーと、膝の抜けた部屋用パンツを脱いで、買ったばかりの秋物の洋服を身に着けた。

ふんわりとした白のニットに、アイドルみたいなチェックのミニスカート。今思うと全然似合わないコーディネートだったけど、当時はイケてるつもりで、鏡の前でくるりと回ったりした。


「あと、これも出してきて」


洗濯物が入った紙袋とお金を受け取ると、自転車で10分の商店街へと出発する。スピードを出すわけでもないのに、鼓動が激しく、息も荒い。

期待と不安の入り混じる興奮状態だった。なぜなら、佐藤クリーニング店には彼がいる。


(時々店番を頼まれるってぼやいてたっけ。お店にいたらどうしよう。あ、でもそのほうが嬉しいけど。でも、でも……)


佐藤さとう温人はると。クリーニング店の次男坊である。
 
彼は隣のクラスの男子で、私と同じバスケ部員だった。小柄だけれど、運動神経が良くて、努力家で、夏の大会ではレギュラーとして活躍し、県大会まで出場した。
 
伸び伸びとプレーするその姿を、私はいつの日からか目で追っていた。ある日、彼のことばかり考えていることに気が付く。

その秋は、温人を好きだと自覚して半年が過ぎた頃だった。

バスケ部の仲間として時々言葉を交わすだけなのに、彼は私の中で特別な存在となり、片思いのときめきは最高潮に達していた。


「いらっしゃいませ……あれっ、島村しまむら?」


クリーニング店の引き戸を開けると、温人がいた。しかも幸か不幸か、一人きりで店番をしている。私は即座に緊張し、ロボットの動きでカウンターまで歩いた。


「こ、こんにちは」

「こんにちは。おつかい?」


いつものように、明るい眼差しで私を見る。どこか驚いた様子なのは、気のせいだろうか。


「うん。温人君は店番?」


分かり切ったことを訊くのは、頭が混乱しているから。彼の前に出ると、私は正常な思考ができなくなる。顔も赤くなるし、どうしようもなかった。


「母さんに頼まれたんだ。今、ちょっと忙しくてさ……ええと、何だった?」


温人は店の奥に振り向き、すぐにこっちを向いた。おばさんはすぐそこにいるようだ。


「あの……お父さんのスーツを取りに来たの。これ、受け取り伝票」

「了解」


温人は仕上がっている洋服の中からスーツを見つけて、カウンターに持ってくる。手提げのビニール袋に上手に入れるのを、私は黙って見ていた。


「あと、これもお願いします」


洗濯物が入った紙袋を持ち上げた。


「いいかな?」

「うん。母さんにも見てもらうから、とりあえず中身を出してくれる?」


紙袋にはジャケットやセーターがぎゅうぎゅう詰めになっている。私は勢いよく中身を引き出し、カウンターの上に広げた。その時……


「……!」


私は声にならない悲鳴を上げた。

温人は目を丸くしている。

広げた洗濯物に、見覚えのある白いものが混じっていた。レースに縁どられた、二つのカップが連なったそれは――


「や、やだっ!」


私はブラを鷲掴みにし、スカートのポケットに押し込んだ。

ただでさえ赤い顔がさらに赤くなり、湯気が立ったと思う。それくらい、全身が熱くなっていた。


「島村、あの……」

「ごめんなさい。これ、代金です!」


母から預かった一万円札をカウンターに置くと、店を飛び出した。自転車に乗り、彼が出てこない間に素早く漕ぎ出す。


(わー、わー、もうっ、お母さんのバカバカ。どうしてブラなんて……いやあああーっ!)


公園を抜ける時、甘い香りが鼻をかすめた。金木犀の香りだと気が付いたのは、家に辿り着いてから。その時の私は、わけが分からない状態だった。

自分の部屋に駆けこむと、震える手でポケットからブラを取り出した。

小さなカップを見下ろし、わっとうずくまる。

背が高いばかりで胸はぺたんこ。自分は世界一みっともない女の子だと思い、日が暮れるまで泣いた。


それから、温人とは学校で時々すれ違っても、目を合わせず口もきかなかった。彼は何か言いたげにしていたが、私は何も聞きたくなくて無視をしたのだ。

ただ、あのことを誰にも話さなかったであろう温人に感謝している。そんなことをする人じゃないと信じていても、私は怖かったのだ。


そして二学期は終わり、冬休みになった。

正月、家族と初もうでに出かけた帰りに、商店街を通り抜けた。その頃、私はだいぶ立ち直っていて、三学期からは温人に会ったら挨拶しようと思っていた。

だから、上を向いてクリーニング店の前を通ったのだ。


「ああ、そういえばお引越しされたのよね。今度から別のお店に行かなきゃ」


母の発言をしばらく理解できず、私はシャッターの下りた佐藤クリーニング店を見直す。


(嘘……そんなの、ちっとも知らなかったよ)


閉店を報せる貼り紙があった。

引越し先は東京だと、それだけは母も知っていたが、詳しいことは分からない。

私は呆然として、公園の金木犀を見つめる。

季節は冬となり、甘い香りはとうに消え去っていた。

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