1 / 3
1
しおりを挟む
12年前の秋――
私は15歳になったばかりの中学三年生。ひょろっとした身体つきで、背ばかり高い。いろんなコンプレックスを抱えた、どこにでもいる思春期の少女だった。
そして、たいていの女の子がそうであったように、恋をしていた。
初めての恋は、思春期の少女を自意識過剰にする。外に出かける時は、たとえ行き先が近所の商店街であろうと、髪型や服装に気を配り、お洒落をした。
いや、近所の商店街だからこそ、気合を入れたのだ。
「あずみちゃん、ちょっとおつかいに行ってちょうだい。公園前の佐藤クリーニングに、お父さんのスーツが出してあるの。明日出張に着て行くのをすっかり忘れてたわ」
その時母は、サンマを焼いている最中だった。
私はドキッとして、少し迷ってから「はーい」と返事をした。
読みかけのマンガを放り出し、急いで出かける準備をする。野暮ったいカットソーと、膝の抜けた部屋用パンツを脱いで、買ったばかりの秋物の洋服を身に着けた。
ふんわりとした白のニットに、アイドルみたいなチェックのミニスカート。今思うと全然似合わないコーディネートだったけど、当時はイケてるつもりで、鏡の前でくるりと回ったりした。
「あと、これも出してきて」
洗濯物が入った紙袋とお金を受け取ると、自転車で10分の商店街へと出発する。スピードを出すわけでもないのに、鼓動が激しく、息も荒い。
期待と不安の入り混じる興奮状態だった。なぜなら、佐藤クリーニング店には彼がいる。
(時々店番を頼まれるってぼやいてたっけ。お店にいたらどうしよう。あ、でもそのほうが嬉しいけど。でも、でも……)
佐藤温人。クリーニング店の次男坊である。
彼は隣のクラスの男子で、私と同じバスケ部員だった。小柄だけれど、運動神経が良くて、努力家で、夏の大会ではレギュラーとして活躍し、県大会まで出場した。
伸び伸びとプレーするその姿を、私はいつの日からか目で追っていた。ある日、彼のことばかり考えていることに気が付く。
その秋は、温人を好きだと自覚して半年が過ぎた頃だった。
バスケ部の仲間として時々言葉を交わすだけなのに、彼は私の中で特別な存在となり、片思いのときめきは最高潮に達していた。
「いらっしゃいませ……あれっ、島村?」
クリーニング店の引き戸を開けると、温人がいた。しかも幸か不幸か、一人きりで店番をしている。私は即座に緊張し、ロボットの動きでカウンターまで歩いた。
「こ、こんにちは」
「こんにちは。おつかい?」
いつものように、明るい眼差しで私を見る。どこか驚いた様子なのは、気のせいだろうか。
「うん。温人君は店番?」
分かり切ったことを訊くのは、頭が混乱しているから。彼の前に出ると、私は正常な思考ができなくなる。顔も赤くなるし、どうしようもなかった。
「母さんに頼まれたんだ。今、ちょっと忙しくてさ……ええと、何だった?」
温人は店の奥に振り向き、すぐにこっちを向いた。おばさんはすぐそこにいるようだ。
「あの……お父さんのスーツを取りに来たの。これ、受け取り伝票」
「了解」
温人は仕上がっている洋服の中からスーツを見つけて、カウンターに持ってくる。手提げのビニール袋に上手に入れるのを、私は黙って見ていた。
「あと、これもお願いします」
洗濯物が入った紙袋を持ち上げた。
「いいかな?」
「うん。母さんにも見てもらうから、とりあえず中身を出してくれる?」
紙袋にはジャケットやセーターがぎゅうぎゅう詰めになっている。私は勢いよく中身を引き出し、カウンターの上に広げた。その時……
「……!」
私は声にならない悲鳴を上げた。
温人は目を丸くしている。
広げた洗濯物に、見覚えのある白いものが混じっていた。レースに縁どられた、二つのカップが連なったそれは――
「や、やだっ!」
私はブラを鷲掴みにし、スカートのポケットに押し込んだ。
ただでさえ赤い顔がさらに赤くなり、湯気が立ったと思う。それくらい、全身が熱くなっていた。
「島村、あの……」
「ごめんなさい。これ、代金です!」
母から預かった一万円札をカウンターに置くと、店を飛び出した。自転車に乗り、彼が出てこない間に素早く漕ぎ出す。
(わー、わー、もうっ、お母さんのバカバカ。どうしてブラなんて……いやあああーっ!)
公園を抜ける時、甘い香りが鼻をかすめた。金木犀の香りだと気が付いたのは、家に辿り着いてから。その時の私は、わけが分からない状態だった。
自分の部屋に駆けこむと、震える手でポケットからブラを取り出した。
小さなカップを見下ろし、わっとうずくまる。
背が高いばかりで胸はぺたんこ。自分は世界一みっともない女の子だと思い、日が暮れるまで泣いた。
それから、温人とは学校で時々すれ違っても、目を合わせず口もきかなかった。彼は何か言いたげにしていたが、私は何も聞きたくなくて無視をしたのだ。
ただ、あのことを誰にも話さなかったであろう温人に感謝している。そんなことをする人じゃないと信じていても、私は怖かったのだ。
そして二学期は終わり、冬休みになった。
正月、家族と初もうでに出かけた帰りに、商店街を通り抜けた。その頃、私はだいぶ立ち直っていて、三学期からは温人に会ったら挨拶しようと思っていた。
だから、上を向いてクリーニング店の前を通ったのだ。
「ああ、そういえばお引越しされたのよね。今度から別のお店に行かなきゃ」
母の発言をしばらく理解できず、私はシャッターの下りた佐藤クリーニング店を見直す。
(嘘……そんなの、ちっとも知らなかったよ)
閉店を報せる貼り紙があった。
引越し先は東京だと、それだけは母も知っていたが、詳しいことは分からない。
私は呆然として、公園の金木犀を見つめる。
季節は冬となり、甘い香りはとうに消え去っていた。
私は15歳になったばかりの中学三年生。ひょろっとした身体つきで、背ばかり高い。いろんなコンプレックスを抱えた、どこにでもいる思春期の少女だった。
そして、たいていの女の子がそうであったように、恋をしていた。
初めての恋は、思春期の少女を自意識過剰にする。外に出かける時は、たとえ行き先が近所の商店街であろうと、髪型や服装に気を配り、お洒落をした。
いや、近所の商店街だからこそ、気合を入れたのだ。
「あずみちゃん、ちょっとおつかいに行ってちょうだい。公園前の佐藤クリーニングに、お父さんのスーツが出してあるの。明日出張に着て行くのをすっかり忘れてたわ」
その時母は、サンマを焼いている最中だった。
私はドキッとして、少し迷ってから「はーい」と返事をした。
読みかけのマンガを放り出し、急いで出かける準備をする。野暮ったいカットソーと、膝の抜けた部屋用パンツを脱いで、買ったばかりの秋物の洋服を身に着けた。
ふんわりとした白のニットに、アイドルみたいなチェックのミニスカート。今思うと全然似合わないコーディネートだったけど、当時はイケてるつもりで、鏡の前でくるりと回ったりした。
「あと、これも出してきて」
洗濯物が入った紙袋とお金を受け取ると、自転車で10分の商店街へと出発する。スピードを出すわけでもないのに、鼓動が激しく、息も荒い。
期待と不安の入り混じる興奮状態だった。なぜなら、佐藤クリーニング店には彼がいる。
(時々店番を頼まれるってぼやいてたっけ。お店にいたらどうしよう。あ、でもそのほうが嬉しいけど。でも、でも……)
佐藤温人。クリーニング店の次男坊である。
彼は隣のクラスの男子で、私と同じバスケ部員だった。小柄だけれど、運動神経が良くて、努力家で、夏の大会ではレギュラーとして活躍し、県大会まで出場した。
伸び伸びとプレーするその姿を、私はいつの日からか目で追っていた。ある日、彼のことばかり考えていることに気が付く。
その秋は、温人を好きだと自覚して半年が過ぎた頃だった。
バスケ部の仲間として時々言葉を交わすだけなのに、彼は私の中で特別な存在となり、片思いのときめきは最高潮に達していた。
「いらっしゃいませ……あれっ、島村?」
クリーニング店の引き戸を開けると、温人がいた。しかも幸か不幸か、一人きりで店番をしている。私は即座に緊張し、ロボットの動きでカウンターまで歩いた。
「こ、こんにちは」
「こんにちは。おつかい?」
いつものように、明るい眼差しで私を見る。どこか驚いた様子なのは、気のせいだろうか。
「うん。温人君は店番?」
分かり切ったことを訊くのは、頭が混乱しているから。彼の前に出ると、私は正常な思考ができなくなる。顔も赤くなるし、どうしようもなかった。
「母さんに頼まれたんだ。今、ちょっと忙しくてさ……ええと、何だった?」
温人は店の奥に振り向き、すぐにこっちを向いた。おばさんはすぐそこにいるようだ。
「あの……お父さんのスーツを取りに来たの。これ、受け取り伝票」
「了解」
温人は仕上がっている洋服の中からスーツを見つけて、カウンターに持ってくる。手提げのビニール袋に上手に入れるのを、私は黙って見ていた。
「あと、これもお願いします」
洗濯物が入った紙袋を持ち上げた。
「いいかな?」
「うん。母さんにも見てもらうから、とりあえず中身を出してくれる?」
紙袋にはジャケットやセーターがぎゅうぎゅう詰めになっている。私は勢いよく中身を引き出し、カウンターの上に広げた。その時……
「……!」
私は声にならない悲鳴を上げた。
温人は目を丸くしている。
広げた洗濯物に、見覚えのある白いものが混じっていた。レースに縁どられた、二つのカップが連なったそれは――
「や、やだっ!」
私はブラを鷲掴みにし、スカートのポケットに押し込んだ。
ただでさえ赤い顔がさらに赤くなり、湯気が立ったと思う。それくらい、全身が熱くなっていた。
「島村、あの……」
「ごめんなさい。これ、代金です!」
母から預かった一万円札をカウンターに置くと、店を飛び出した。自転車に乗り、彼が出てこない間に素早く漕ぎ出す。
(わー、わー、もうっ、お母さんのバカバカ。どうしてブラなんて……いやあああーっ!)
公園を抜ける時、甘い香りが鼻をかすめた。金木犀の香りだと気が付いたのは、家に辿り着いてから。その時の私は、わけが分からない状態だった。
自分の部屋に駆けこむと、震える手でポケットからブラを取り出した。
小さなカップを見下ろし、わっとうずくまる。
背が高いばかりで胸はぺたんこ。自分は世界一みっともない女の子だと思い、日が暮れるまで泣いた。
それから、温人とは学校で時々すれ違っても、目を合わせず口もきかなかった。彼は何か言いたげにしていたが、私は何も聞きたくなくて無視をしたのだ。
ただ、あのことを誰にも話さなかったであろう温人に感謝している。そんなことをする人じゃないと信じていても、私は怖かったのだ。
そして二学期は終わり、冬休みになった。
正月、家族と初もうでに出かけた帰りに、商店街を通り抜けた。その頃、私はだいぶ立ち直っていて、三学期からは温人に会ったら挨拶しようと思っていた。
だから、上を向いてクリーニング店の前を通ったのだ。
「ああ、そういえばお引越しされたのよね。今度から別のお店に行かなきゃ」
母の発言をしばらく理解できず、私はシャッターの下りた佐藤クリーニング店を見直す。
(嘘……そんなの、ちっとも知らなかったよ)
閉店を報せる貼り紙があった。
引越し先は東京だと、それだけは母も知っていたが、詳しいことは分からない。
私は呆然として、公園の金木犀を見つめる。
季節は冬となり、甘い香りはとうに消え去っていた。
0
あなたにおすすめの小説
聖なる告白
藤谷 郁
恋愛
同期の彼は、ただの友人。
私はアウトドア派、彼はたぶんインドア派。
趣味も合わないだろうし、プライベートに踏み込むことはなかった。
でも、違っていたのだ……
「神様、不純な私をお許しください!」
※他サイトにも掲載します
Destiny
藤谷 郁
恋愛
夏目梨乃は入社2年目の会社員。密かに想いを寄せる人がいる。
親切で優しい彼に癒される毎日だけど、不器用で自信もない梨乃には、気持ちを伝えるなんて夢のまた夢。
そんなある日、まさに夢のような出来事が起きて…
※他サイトにも掲載
工場夜景
藤谷 郁
恋愛
結婚相談所で出会った彼は、港の製鉄所で働く年下の青年。年齢も年収も関係なく、顔立ちだけで選んだ相手だった――仕事一筋の堅物女、松平未樹。彼女は32歳の冬、初めての恋を経験する。
あの夜、あなたがくれた大切な宝物~御曹司はどうしようもないくらい愛おしく狂おしく愛を囁く~【after story】
けいこ
恋愛
あの夜、あなたがくれた大切な宝物~御曹司はどうしようもないくらい愛おしく狂おしく愛を囁く~
のafter storyです。
よろしくお願い致しますm(_ _)m
私を嫌いな貴方が大好き
六十月菖菊
恋愛
「こんなのが俺の婚約者? ……冗談だろう」
そう言って忌々しげに見下してきた初対面の男に、私は思わず。
「素敵……」
「は?」
うっとりと吐息を漏らして見惚れたのだった。
◇◆◇
自分を嫌う婚約者を慕う男爵令嬢。婚約者のことが分からなくて空回りする公爵令息。二人の不器用な恋模様を面白おかしく見物する友人が入り混じった、そんな御話。
◇◆◇
予約投稿です。
なろうさんにて並行投稿中。
雪の日に
藤谷 郁
恋愛
私には許嫁がいる。
親同士の約束で、生まれる前から決まっていた結婚相手。
大学卒業を控えた冬。
私は彼に会うため、雪の金沢へと旅立つ――
※作品の初出は2014年(平成26年)。鉄道・駅などの描写は当時のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる