金木犀の恋

藤谷 郁

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地方に住む中学生にとって、東京は果てしなく遠い場所だった。

だけど中学を卒業して高校生になり、本格的に受験勉強を始める頃になると、それほどの距離ではないと分かってくる。

私は東京の大学を受験し、合格して入学が決まり、18歳の春に上京した。

温人のことを追いかけたわけじゃない、たまたま行きたい学校が東京にあっただけ――

自分に言い訳するけれど、やはり心のどこかで彼を想っていたのだ。初恋の思い出は、切なくも甘い記憶となって私の中に残っている。



東京で暮らし始めて9年目の秋を迎えた。

大学卒業後に就職した株式会社ブルームは、インテリア製品を企画・販売する会社であり、私は販売部で事務の仕事についている。

販売状況を把握し、それを記録して資料を作り、販売員に参考にしてもらうというのが主な仕事だ。他にも在庫管理から店舗を飾るデコレーション作りまで、様々な仕事を任される。

27歳の私は中堅社員。あちこちから便利屋的な扱いを受けるけれど、それも悪くない。忙しいほうがいいのだ。

なぜなら、近頃実家の母がやたらと見合い話を持ち掛けてくる。それを断る口実になるから。


「あー、わかるわかる。私の親もうるさかったもの。あんたいくつだと思ってるの! とか言ってさ。30過ぎて独身なんて、東京じゃ普通だってのに」


上司の杉浦すぎうら課長が豪快に笑った。今年四十路を迎える彼女が結婚したのは2年前のことだ。


「親が心配する気持ちも分かるけど、自分の人生だからね。それに、いつ運命の人に巡り会えるかわかんないでしょ。それは5年後、10年後……あるいは今日かもしれない。一生懸命働きながら、その時を待てばいいのよ」

「そう、ですよね」


朝のミーティングが始まる前、休憩室でのコーヒータイムは10分ていど。始業のメロディーが流れると、社員は各オフィスに散っていった。

今日もまた、いつもと同じ一日が始まる。


(運命の人、か)


私は温人を思い浮かべた。もう12年前のことなのに、いつまでこだわっているのかと、我ながら可笑しかった。


(でも、もしも再会できたとして、私はきっと嫌われてるし。て言うか、温人君は私のことなんて忘れてるよね)


大学時代に恋人がいた。同じ学部の人で、温人君に少し似ていた。


『君はいつも、どこか遠くを見ている』


別れ際、彼が寂しそうに言った言葉を覚えている。私は自分の仕打ちが許せず、あれ以来、誰とも付き合っていない。

誰かを身代わりに恋をするなら、一生独りのままでいい。



「ねえ、島村さん。悪いんだけど、A町の販売店まで資料を届けてもらえないかな。午後イチで欲しいって言われたんだけど、俺、これから出張でさ」


昼休憩に出かけようと席を立ったところに、同期社員の男性が手を合わせてきた。


「いいですよ。ちょうど手が空いたところだし」

「おお、さすが島村さん。頼りになるー!」


分厚いファイルを受け取り、オフィスを飛び出す彼を見送った。


「ったく、駅に行くついでに寄ればいいのに、調子いいんだから。ああいうのは断ってもいいのよ」


課長は苦笑するが、私は首を横に振る。


「大丈夫です。これからお昼を食べて、その足で行ってきます」

「そう。慌てなくていいからね、気を付けて」


ファイルをバッグに入れて、肩に掛けた。結構重いけれど、それほど遠くないし平気だ。

それに、A町の販売店に行く途中には公園があり、金木犀の大木が植わっている。そろそろ花が咲いている頃だ。


ブルームのオフィスは、駅近くの高層ビルに入居している。上階から下りてきた、他社の社員とエレベーターで乗り合わせる。昼休憩の時間帯なので、込み合っていた。


「あ、すみません」


ファイルを入れたバッグが、後ろに立つ男性に当たった。私は慌てて、前に抱え直す。


「重そうだね」

「は、はい。すみません」


申し訳なくて縮こまるが、男性の声は怒っていない。それどころか、私が立ちやすいように間を空けてくれた。親切な人だと思った。

1階に到着し、皆ぞろぞろと降りていく。私も降りようとするが、バッグを抱いているので不安定な足取りになる。


「きゃ……」


転びかけた私を誰かが支えた。力強く、そして軽々と身体を立て直してくれたのは、ライトブラウンのスーツの腕。さっきと同じ人だと分かった。


「重ね重ねすみません!」


後ろに振り向き、ぺこぺこと頭を下げた。

顔を上げてその人を見ると、親しげな笑みを浮かべている。


(え……?)


私と同じ年くらいの、スーツを着た男性。髪は社会人らしく短めで、清潔な印象。背が高く、スポーツマンといった感じの、しっかりした体格をしている。

そして、何より私が惹きつけられるのは、まっすぐに注がれる明るい眼差し。


「あ……まさか、そんな」


上京して9年。逢いたくて、でも一度も逢うことなく、時だけが過ぎていった。

あなたのことを思い出さない日はない。

ずっと、忘れられない人。



「温人、くん?」

「久しぶり」


再会の言葉はとても短く、ただひたすら見つめ合う。

こんなことってあるだろうか。


「今から昼休憩?」

「う、うん。温人君も?」


彼は頷き、少し考えるふうにしてから外を指差した。秋晴れのもと、街はきらきらと輝いている。


「昼、一緒にどうかな」


私は反射的に頷いた。

当然のようにバッグを持ってくれる彼の後を、ふらつきながらついて行く。

あれから12年。温人は背が高くなり、スーツもきれいに着こなして、すっかり大人の男性になっていた。 でも、私はすぐに彼だと分かった。


少年の彼と変わらない、明るい眼差しで私を包んでくれた――


温人がすすめる洋食店で、ランチを食べた。表通りから一本入った場所にある、小さなお店。ランチプレートのオムライスもカツレツも、昔懐かしい味がした。

商店街の喫茶店を思い出すねと、私達は笑い合う。生まれ育った故郷の話をするのは何年ぶりだろう。他愛の無い話題でも、懐かしくて、楽しくて、ホッとする。

そして私は、ずっと抱えているこの気持ちを、彼に伝えるのだと心に決めていた。




「わあ、満開」


A町までおつかいに行く私を、温人は途中まで送ってくれた。公園を通り抜けながら、金木犀の大木を見上げた。彼は立ち止まり、感激する私に目を細めている。


「温人君の家の前にあった、あの公園にも咲いてたね」

「うん。秋になると、ある日突然甘い香りがするんだ」


傍に来て、寄り添うように並んだ。

あんなに小柄だった彼が、今では私より背が高くなり、重いバッグも軽々と持ってしまう。私はドキッとして、温人は大人の男性になったのだと急に意識し始める。

でも今は、ときめいている場合ではない。ちゃんと伝えると決めたのだから。


「あのね、温人君」

「ん?」

「私、ずっと……謝りたかった」

「……」


何のことか、ちゃんと分かっている。それなのに、彼はそのことを口にせず、一つも責めずにいる。大らかな優しさに甘えそうになるけれど、きちんと言わなければ。


「洗濯物に、その……ブ、ブラが混ざってて、びっくりしたよね。私、動揺しちゃって、あんなことになって。温人君は何も悪くないのに、避けてしまって……ごめんなさい」

「……」


温人は黙っている。どんな顔をしているのか見るのが怖い。私は今、15歳の私に戻っている。


「三学期になったら、声をかけようと思ってたの。それから……」


怖いけど、彼を見上げた。そこには、私を包んでくれる眼差しがあった。


「それから?」


他の誰でもない彼に促され、私はありったけの勇気を出した。まるで、少女のように赤くなっている。


「温人君が好き……って、告白するつもりだった」


風が吹き、金木犀の梢を揺らす。オレンジ色の花房が、ぽとりと地面に落ちた。温人は腰を屈めて拾い、指先に挟んでくるくる回した。


「あの頃の俺はまったくの子どもで、嫌われたと思い込んでいた」

「え?」


花の香りをかぐと、彼は微笑む。少年のように明るく、熱を帯びた瞳に私が映っている。


「島村あずみ。俺も、君が好きだよ」


好きだよ――

好きだよ――


私の頭の中で、温人の声が反響する。信じられなくて、口をぽかんと開けたまま彼を見上げるばかり。


「同じビルで、初恋の彼女が働いていると気付いたのは先週のこと。俺は25階のオフィスに配属されたばかりだった」


金木犀を胸ポケットに挿すと、温人は歩き出した。いつの間にか私の手を取り、ゆったりとした歩調で。


「君を見つけた時、まさかと思った。でも、すらりとした体格も、ちょっと内気そうな横顔も、記憶の中にいる君のまま。俺のこと、憶えているだろうか。嫌われてたっていいじゃないか、思い切って声をかけよう……そう決心した今日、まさに運命の再会を果たす」


冗談っぽく言うけれど、手のひらから彼の緊張が伝わってくる。


「君にまた会えたこと。今の告白も、こうして傍にいることも、全部夢みたいだ」


そっと、彼の手を握り返した。皮膚が厚くて、男らしい感触に胸が高鳴る。


「私も……」


甘い香りが二人を包む。

秋が過ぎて、冬が訪れても、この香りはもう消え去りはしない。

私は今日、運命の人に巡り会えたのだ。
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