酒の席での戯言ですのよ。

ぽんぽこ狸

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 ちくちくと針を進めていく。リディアがいくら婿取りをする爵位継承者なのだとしても、貴族のたしなみぐらいは心得ておく必要がある、ということで今日は母であるカレンが講師としてリディアに刺繍を教えていた。

 図案のうつされた布が刺繍枠に張られていて、リディアはものすごいスピードでちくちくちくちく縫っていた。

「……」

 テーブルを抜いて母子二人で向かい合って座っているので、リディアの素早い手の動きにカレンは圧倒されて注意するのを忘れていた。

 貴族の行う刺繍というのは、使う相手の事を想ってひと針ひと針丁寧に紡ぐものだ。

 決して職人のように素早く、クオリティー高く仕上げられるかを競っているのではない。

 貴族に宿る魔力は想いを込めて糸を縫い付けることによって、刺繍に宿り受けとった人間の事を守ると言われている。

 実際にはそんな魔力は微々たるもので価値などないという貴族もいるが、こういう物は想いがこもっているということが大切なのだ。

 それに想いのこもった刺繍を見て、受け取り手も送り主の事を思い出し、必ずまた会い戻るのだと決意を固めて命からがら戦地から無事に戻ったりもする。

 だからこそ気持ちがこもっているということが大切な物なのだ。

 それを説明してあったし、リディアもそのことをきちんと覚えていたが自分にできる最大限の速さで、針を進めていた。

 初心者向けの簡単な花の刺繍があっという間に完成して、後は結んで糸を止めるだけだ。

 ……よし、このまま仕上げてしまいましょう!

 そのまま急いで糸を結ぼうとすると、最後の最後で手元が狂ってリディアは自分の指先を刺した。

「っ」

 血液があふれてきて指先に留まっていたが、よほど深く刺してしまったのか、血はすぐに指先からつうっと落ちて、今しがた完成したばかりの刺繍に着地しじわっと広がった。

「あっ、あ、お母さまっ、血がついてしまいましたわ。せっかく完成したのに」

 これでは台無しになってしまうとリディアは焦ってカレンに助けを求めた。

 そこでカレンはハッと我に返って、水の魔法道具を取り出してリディアの指先に使いつつもしたり顔で娘に言った。

「リディア、私言ったでしょう? 刺繍は沢山出来ればいいという物ではないの、丁寧に想いを込めるのが大切なのよ」
「……」
「それにほら、急いでいたせいで最後に台無しになってしまったわ。これではせっかく早く出来てもその時間も無駄になってしまうでしょう?」

 言い聞かせるような言葉に、リディアは母の言葉はわかるけれどもなんとも言えない気持ちになった。

「ゆっくり渡す相手の事を考えて想いを込めるのですよ、リディア。そうすれば小さな刺繍でも、相手にはどれほど気持ちを込めたか伝わるわ」

 優しくて聞き心地のいい声で言うカレンのそのまなざしは、とても柔らかくて素敵な大人の女性らしい。

 リディアと同じ青い瞳に、カールかかった金髪をしているのにリディアとは違って穏やかで気品のある優しげな人だ。

 ……お父さまが惚れたのも納得の美しさですの。

 母を見ながらリディアはそんな風に思った。

 しかし、だからこそ、カレンと自分は違うのだとわかる。

「……最後に怪我をしないように気をつけますわ。次の図案の用意をしてきますね。治してくれてありがとう、お母さま」
「ゆっくりと想いを込めてやるのよ、リディア」

 再度念押しするように言った彼女にリディアは、それはできないし、やるつもりもないと伝えようと思った。

 しかし、優しい母の事だ、きっとリディアにさらに分かりやすく貴族の刺繍の意義を教えてくれるに違いない。

 けれどもそうではない。わかっている、だからこそリディアは時間がいくらあっても足りないような刺繍を送りたい。

 その理由を恥ずかしいけれど口にした。

「でも、お母さま、それだときっとわたくしの思いは伝わらないと思いますの」
「……? どういうこと」

 リディアの考えを理解しようとして、カレンは思案しつつ優しく聞いた。その声に頭の中を整理してリディアは答えた。

「だって、小さくて可愛く思いの籠った刺繍をお母さまのような男性に大切に思われる女性が送ったのなら、きっと事あるごとにわざわざ眺めては守るために戦地から戻ってこようという気力に繋がるのかもしれませんっ」
 
 リディアは力強くそう言って「でもっ」と付け加えた。

「わたくしのようなプライドが高く強情な女の事を心配して、何度も思いだすことが現実的にありますの?! 無いとは言いませんわ。しかし、多くないわ」

 言いながら刺繍枠を取り外して、血のついてしまった刺繍をはさみで切って糸を外していく。

「だったらもう、有り余らんばかりに刺繍を施して嫌でも目に留まるようにすれば強制的にわたくしの顔を思い浮かべるはずですの、そして元気が出るはずですわ!」
「……」
「そういうわけでわたくしは質より量をとるのよ。さあ、どんどん行きますわ」

 リディアはそういい放って、またテキパキと刺繍を始める準備をした。

 カレンはそんな娘に圧倒されて、この子はいつも常識と外れた方向へと突きと進むなぁ、と思った。この歳まで育ててきても未だに驚くことが多い。

 理屈っぽくて自分が納得できる筋が通ったこと以外は、受け入れない。

 そういう姿勢で頭が固いなんて言われることも多いが、納得できればどこまででも非常識なことをする子だ。

 それを止めるのが親の務めかもしれないが、カレンの中には生憎、大量の刺繍をやめさせる理屈が見つからない。

 そしてその被害に遭うのはリディアの夫であるロイだ。

 ロイにはいつも娘が迷惑をかけてばかりだ。

 刺繍だらけになって困惑する彼の姿を思い浮かべて、彼の給料をもう少しあげてほしいと夫のクラウディー伯爵にお願いしようと考えるのだった。



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