17 / 84
第1章 王位を捨てた理由
第17話 狩人たちの夜明け前
しおりを挟む
レオンとセリナが山の麓へ到着したのは、日差しが和らぎ始めた昼下がり。目的はコボルトの巣の偵察。Dランクのクエストとしてはそこそこの難易度があるが、セリナの隠密能力を活かせば危険度は抑えられるはずだ。
山道を進んだ先にある森林の奥――そこに巣を張っていると報告されたコボルト達の動向を探るため、夜明け前の奇襲も視野に入れつつ、まずは昼過ぎに現地へ入って偵察を行うことになった。巣の規模や警戒の様子を確認し、状況次第では掃討に踏み切る可能性もある。
ただ、具体的にどのように攻略するか、どれほどの数がいるのかを確認する必要がある。そこでセリナは、単独での偵察を申し出た。獣人ならではの身体能力と鋭い嗅覚、ナイフを用いた奇襲が彼女の得意分野であり、まさにこのクエストにうってつけだった。
山の麓にはまばらな草原が広がり、奥へ進むにつれて木々の密度が増していく。レオンとセリナは、小高い平地を仮の拠点とした。昼間のうちにこの地点を確保しておけば、夜間のキャンプも安全に行えるからだ。
風がさらりと吹き抜け、雑草がざわざわと音を立てて揺れる。木漏れ日が散らばり、森の虫たちがかすかに鳴き始めている。セリナは地図を広げ、周囲の地形を確認しながらレオンに説明する。
「ここまで来たら、わたし先に偵察行く。あなたは……ここで待ってて」
相変わらず口数は少ないが、セリナの目は真剣だ。レオンは周囲を見渡しながら頷き、彼女に向き直る。
「わかった。慎重にな。もし気づかれそうになったらすぐ戻ってきてくれ」
セリナはかすかに微笑み、フードを深くかぶった。すると、ふわりと漂う銀色の髪が隠れ、その人影が森の奥へ溶け込むように進んでいく。いつの間にか、その足音がぴたりと消えているのは獣人としての隠密能力なのか、慣れたスキルなのか。
(あいつ、本当に気配が消えるな……)
レオンは少し感心しながら息をつき、視線を森へ向けた。午後の陽射しは傾き始めたが、まだ心地よい暖かさが残っている。この時間帯なら、コボルトの活動はそこまで活発ではないかもしれない。コボルトは昼行性ではないため、夜になると活動が活発になる。しかし、巡回など最低限の動きは昼間でもあるはずだ。
セリナが偵察をしている間、レオンは近くの木陰で待機することにした。どれくらいで戻るかはわからないが、おそらく数十分から一時間ほどで足取りや巣の構造を確認してくるだろう。
待機と言っても、レオンがただぼんやり過ごしているわけではない。まずは周囲の地形をざっと把握し、緊急時の退路を確保しつつ、簡易的なキャンプを設営する。夜までには時間があるが、日が沈む前に焚火の準備をしておかないと暗闇の中で苦戦することになる。
適当な場所に石を並べて即席の炉を作ると、レオンは近くに落ちていた枯れ木や枝を集めてきた。火打石を使う手もあるが、魔法を使ったほうが手っ取り早い。レオンは手をかざし、小さく息を吐くと、指先に淡い光を灯した。
《スモールフレイム》
ぽっと、小さな火球が弾け、乾いた枝の上に落ちる。瞬く間に火が広がり、やがてパチパチと音を立て始めた。レオンは炎の大きさを慎重に調整しながら、薪の組み方を少し変えて空気の通りを良くする。
「よし、これでしばらくは持つな」
焚火の準備を終えると、やや離れた場所に小川が流れているのを見つけ、そこから水を汲んでくる。短いロープで木々に簡易棚を作り、食料や道具を整理する。こうした細々とした作業を進めるうちに、時間はあっという間に過ぎていく。
やがて、太陽が西の空に傾きかけたころ――セリナが音もなく木立の陰から姿を現した。フードを抜いてそのままレオンの方へ歩み寄る。
「……わかった。コボルト数匹、巡回。巣は……場所、確認できた。詳しくは夜、もう一度行く」
セリナの息は少し上がっているが、体調に問題はなさそうだ。獣人の身体能力なのか、さほど疲れている様子は見せない。レオンは一通りの準備を終えたキャンプスペースへ彼女を招き、いったん休憩しようと提案した。
「そうか、お疲れさま。とりあえず、軽く何か食べよう」
「……うん」
セリナは静かに頷き、レオンが作った即席炉のそばに腰を下ろした。辺りはまだ薄明るいが、森の陰影が深まると夜はすぐそこまで迫っている。
焚火にはまだ十分な薪がくべられ、細やかな赤い火の粉がはぜている。レオンは持参した干し肉や乾パン、乾燥した野菜などを取り出し、火で軽く炙ってからセリナに差し出した。
彼女は無表情のまま『ありがとう』とつぶやき、尻尾をわずかに揺らしながら、焼けた干し肉をじっと見つめた。
森の風がそよぐと、火の匂いと樹木の香りが混ざり合う。セリナは焚火を見つめたまま、ぽつりとつぶやいた。
「……レオン、強いの?」
あまりに唐突な問いだった。レオンは一瞬、どう答えるべきか迷い、苦笑いを浮かべる。
「自分では強いとは言えないな。魔物相手には慣れてきたし、小さい頃から対人戦の訓練を受けてきたから、それなりの経験はある。怪我をすることもあったが、今は無茶はしない……つもりでいる」
「ふぅん。なら、信じる」
セリナはそう言ってくるりと尻尾を巻くようにして、焚火の前に丸くなる。まるで小動物が安心できる場所を見つけたかのような態度だが、その無防備な姿勢にレオンは少し戸惑う。
「信じてくれるのはありがたいが、早すぎないか? 俺と組んでまだ大して時間も経ってないんだし」
セリナはちらりとレオンを見て、また焚火へ視線を戻す。
「あなたの匂い、嘘つきの匂いしない」
レオンはその言葉に一瞬息が詰まる。彼女は獣人特有の鋭い嗅覚で、人間の発する匂いからある程度の感情や真偽を察知できるのだろうか。だが、レオン自身が抱えている王族としての秘密は、匂いだけではわからないはずだ。
そう思うと同時に、微かな焦燥感が胸をかすめるが、それを表情に出さないように気をつける。
「そっか……嘘つきの匂いね。ま、とにかく俺はお互いに損をしない関係ならいいと思ってる。パーティを組むってのはそういうことだから」
セリナはふと焚火に木の枝をくべ、メラメラと炎が赤々と揺れる。その光が彼女の金色の瞳を照らし出すと、どこか幻想的ですらある。
「損をしない……そう。わたしも、あなたといると損じゃなくなるかも。……それ、悪くない」
その淡々とした言い方が、逆に彼女の本心を感じさせる。レオンは、これまであまり他人と関わることのなかった彼女の様子を思い浮かべながら、小さく安堵の笑みを浮かべる。
「ありがとう。それが本音なら嬉しいよ」
火を前に二人で食事をとりながら、簡単な雑談も交わす。セリナはあまり過去を語らないが、一人でやってきたという事実は確かなようで、彼女なりに長い孤独を抱えていた可能性がある。
レオンも王宮を出た身であり、秘密を抱えたまま冒険者としての日々を送る孤独を知っている。そのため、セリナの無言の背景にある何かを感じ取れなくもないが、彼女が詳細を語らない以上、深く踏み込むことはしない。
空はゆっくりと夕焼けから夜の色へと染まっていく。焚火の明かりが際立ち、遠くから響く獣の声や虫の音が、夜の静けさを彩るように広がっていく。
レオンは時計がなくても、星の位置と月の登り方を見れば、十九時を過ぎた頃だと見当をつける。セリナもふと夜空を見上げ、尾を微かに揺らした。
「もう少ししたら、また偵察。夜のコボルトは、昼とは動きが違う」
「そうだな。奇襲をかけるなら、まずは夜の巡回の動きを確認しないと」
レオンが頷き、焚火に薪をくべる。セリナはゆっくりと立ち上がり、一度大きく息を吸い込んだ。
「……それまで、休む?」
「だな。先に横になるといい。俺も気を抜いて眠るわけにはいかないが、体力は回復しておくにこしたことはないからな」
こうして二人は、簡単な交代制で休むことにした。セリナはふわりと尻尾を抱え込むようにして仮眠をとり、レオンは周囲を警戒しながら、時折目を閉じて短い休息をとる。
焚火がパチパチと音を立てる中、遠くの夜空にはうっすらとした星がまたたく。狼煙のような月の光は薄く、ここから見る山の稜線は漆黒のシルエットを描く。狩人たちの夜明け前――まさに今が、勝負の前の静かな緊張のときだった。
レオンの推測で時刻は二十一時頃。夜の冷たい風が少し強まり、焚火の炎が小さく揺れる。セリナが目覚めたのか、まばたきをしながら背伸びをして、尻尾をふわりと振った。
「起きたか?」
「うん……行く。偵察」
彼女は短い言葉だけで意思を伝え、フードをかぶりなおす。昼間よりも暗い夜の森林は、さらに彼女の隠密能力を活かせる環境だろう。レオンはわずかに心配を抱えながらも、ここまでの流れを信じることにする。
「気をつけろ。危なかったらすぐ戻ってきていいから」
セリナは小さく頷くと、焚火を見下ろし、ちらりとレオンに視線をやる。
「……大丈夫、任せて」
そう言うと、まるで獣のようなしなやかな足取りで森へ溶け込んでいった。レオンは再び、セリナの存在感が薄れるのを感じた。ここまで気配を消せるのは、獣人の感覚と独自の技術が相まっているからだろう。普通の人間には到底真似できない。
レオンは彼女の姿を見送ったあと、焚火を小さく保つように調整し、周囲の警戒を続ける。時折、夜の昆虫が羽を鳴らす音や、遠くで小動物が走る気配を感じるが、それ以上の脅威はなさそうだ。
闇が深くなるにつれ、冷気が肌にしみてくる。レオンは外套を少しだけ合わせて肩をすくめる。王宮時代に比べれば格段に不便な生活だが、今はそれが自分の生き方なのだと受け止めている。
やがて、三十分ほどした頃か、足音を殺した気配が再び現れ、レオンが振り向くとセリナがすでに近くに立っていた。心臓が跳ねるほど驚いたが、彼女はあっさり報告を始める。
「巡回コボルト……三匹。巣の中、十匹くらい。シャーマン、いない」
セリナは短文的な報告だが、要点は明確だ。どうやらコボルトの巣はそれほど大規模ではなく、合計十数匹が活動している模様。巡回が三匹ほどいて、シャーマンと呼ばれる魔法使いの個体はいないらしい。
「なるほど。巣が小規模なら、数としては十分倒せるな。……でも、夜に仕掛けるか、朝方に仕掛けるかが問題だ」
コボルトは夜行性と言われる一方、明け方まで活動する個体もいる。すでに夜深くなりつつある今、奇襲を仕掛けるには、こちらも暗闇での戦いを想定しなければならない。
セリナは焚火の明かりに照らされながら尻尾を揺らし、淡々と続ける。
「夜明け前がいい。いまはやや警戒してるけど、夜が長いとコボルトの集中力が下がる。夜明け直前が一番隙ができる」
レオンは彼女の言葉に頷く。王宮時代の魔物学の授業でも、コボルトは夜通し活動した後、明け方に最も動きが鈍ると学んだ記憶がある。
「なら、夜明け前に仕掛けるか。あとは、奇襲で一気に殲滅する。巡回の三匹をどう対処するか……セリナ、先にそいつらを仕留めてくれないか?」
「うん、それがいい。わたし、隠れて先に処理する。あとはあなたが巣へ突っ込む。わたしはナイフで援護」
話はまるで軍の作戦会議のように進んでいく。セリナの瞳は無表情ながら、その奥に燃えるような意志が宿っているのが見て取れる。彼女のしっぽの先がかすかに揺れている。興奮を抑えきれない証拠かもしれない。
「……わかった。じゃあ、少し時間を潰そう。今は二十三時くらいだろ? あと数時間、ここで休息を取って、仕掛けるときは一気に動く」
「うん、奇襲なら勝てる。……あなた、楽しそう?」
セリナは無表情で首を傾げながら、尻尾を振る。レオンは思わず吹き出しそうになりながら、冗談めかした口調で答える。
「いや、緊張してるさ。でもセリナはなんか楽しそうじゃないか?」
「あなたと組むの、悪くない。……だから、ちゃんと働いて」
さらりとした彼女の言葉に、レオンは思わず苦笑する。やはり変わった感性をしているようだが、その裏に一切の疑いのないパーティへの信頼があると感じる。こんな風に素直に言われると、少し照れくさいし、どこか責任感も生まれる。
レオンは再び焚火をかき立て、上で水を温めて簡単な飲み物を淹れる。夜はまだこれからが長い。軽く身体を休めながら明け方の突入に備え、両者が万全の状態で戦えるよう時間を使わなければならない。
時は深夜を回り、星々がいっそう輝くころ。山の麓には静寂が満ち、風も凍えるように冷たくなっている。焚火が徐々に小さくなり、レオンは追加で薪をくべるか迷いながらも、もうすぐ行動開始の時刻を迎えるため燃やし切る方向にした。
セリナは再度うたた寝のような状態で身体を休めていたが、レオンの動きに気づいたのか、すっと目を開く。その瞳には眠気などまるで感じられず、夜の狩人を思わせる鋭い光が宿っていた。
「そろそろ……行こう。時間、いいか?」
「うん、多分あと二時間くらいで夜明け。今が狙い目。巡回コボルト、先に片付けないと、巣に戻られると厄介だから」
話し合いはすぐにまとまり、二人は手早く装備を整える。レオンは鞄の中から道具屋で買ったポーションや毒消し薬をベルトポーチに移し、いつでも取り出せるようにする。セリナは何本ものナイフを腰のホルダーに差し込み、さらに短剣を太もものホルダーに固定した。
火を消す前に、軽く火の粉が飛び散らないよう焚火の周囲に土をかぶせ、完全に消火した。まばらな星明かりの下、二人は無言のまま森の奥へと踏み出していく。風の音が耳に響き、木々の根元がまるで洞穴のように闇を抱えている。
夜明け前の静寂――それは生命の息吹が密かに眠る時間帯でもあり、同時に闇を好むコボルトたちが油断する隙が生まれやすいとも言われている。この闇を味方につけるか、呑まれてしまうかは、二人の戦い方にかかっていた。
山道を進んだ先にある森林の奥――そこに巣を張っていると報告されたコボルト達の動向を探るため、夜明け前の奇襲も視野に入れつつ、まずは昼過ぎに現地へ入って偵察を行うことになった。巣の規模や警戒の様子を確認し、状況次第では掃討に踏み切る可能性もある。
ただ、具体的にどのように攻略するか、どれほどの数がいるのかを確認する必要がある。そこでセリナは、単独での偵察を申し出た。獣人ならではの身体能力と鋭い嗅覚、ナイフを用いた奇襲が彼女の得意分野であり、まさにこのクエストにうってつけだった。
山の麓にはまばらな草原が広がり、奥へ進むにつれて木々の密度が増していく。レオンとセリナは、小高い平地を仮の拠点とした。昼間のうちにこの地点を確保しておけば、夜間のキャンプも安全に行えるからだ。
風がさらりと吹き抜け、雑草がざわざわと音を立てて揺れる。木漏れ日が散らばり、森の虫たちがかすかに鳴き始めている。セリナは地図を広げ、周囲の地形を確認しながらレオンに説明する。
「ここまで来たら、わたし先に偵察行く。あなたは……ここで待ってて」
相変わらず口数は少ないが、セリナの目は真剣だ。レオンは周囲を見渡しながら頷き、彼女に向き直る。
「わかった。慎重にな。もし気づかれそうになったらすぐ戻ってきてくれ」
セリナはかすかに微笑み、フードを深くかぶった。すると、ふわりと漂う銀色の髪が隠れ、その人影が森の奥へ溶け込むように進んでいく。いつの間にか、その足音がぴたりと消えているのは獣人としての隠密能力なのか、慣れたスキルなのか。
(あいつ、本当に気配が消えるな……)
レオンは少し感心しながら息をつき、視線を森へ向けた。午後の陽射しは傾き始めたが、まだ心地よい暖かさが残っている。この時間帯なら、コボルトの活動はそこまで活発ではないかもしれない。コボルトは昼行性ではないため、夜になると活動が活発になる。しかし、巡回など最低限の動きは昼間でもあるはずだ。
セリナが偵察をしている間、レオンは近くの木陰で待機することにした。どれくらいで戻るかはわからないが、おそらく数十分から一時間ほどで足取りや巣の構造を確認してくるだろう。
待機と言っても、レオンがただぼんやり過ごしているわけではない。まずは周囲の地形をざっと把握し、緊急時の退路を確保しつつ、簡易的なキャンプを設営する。夜までには時間があるが、日が沈む前に焚火の準備をしておかないと暗闇の中で苦戦することになる。
適当な場所に石を並べて即席の炉を作ると、レオンは近くに落ちていた枯れ木や枝を集めてきた。火打石を使う手もあるが、魔法を使ったほうが手っ取り早い。レオンは手をかざし、小さく息を吐くと、指先に淡い光を灯した。
《スモールフレイム》
ぽっと、小さな火球が弾け、乾いた枝の上に落ちる。瞬く間に火が広がり、やがてパチパチと音を立て始めた。レオンは炎の大きさを慎重に調整しながら、薪の組み方を少し変えて空気の通りを良くする。
「よし、これでしばらくは持つな」
焚火の準備を終えると、やや離れた場所に小川が流れているのを見つけ、そこから水を汲んでくる。短いロープで木々に簡易棚を作り、食料や道具を整理する。こうした細々とした作業を進めるうちに、時間はあっという間に過ぎていく。
やがて、太陽が西の空に傾きかけたころ――セリナが音もなく木立の陰から姿を現した。フードを抜いてそのままレオンの方へ歩み寄る。
「……わかった。コボルト数匹、巡回。巣は……場所、確認できた。詳しくは夜、もう一度行く」
セリナの息は少し上がっているが、体調に問題はなさそうだ。獣人の身体能力なのか、さほど疲れている様子は見せない。レオンは一通りの準備を終えたキャンプスペースへ彼女を招き、いったん休憩しようと提案した。
「そうか、お疲れさま。とりあえず、軽く何か食べよう」
「……うん」
セリナは静かに頷き、レオンが作った即席炉のそばに腰を下ろした。辺りはまだ薄明るいが、森の陰影が深まると夜はすぐそこまで迫っている。
焚火にはまだ十分な薪がくべられ、細やかな赤い火の粉がはぜている。レオンは持参した干し肉や乾パン、乾燥した野菜などを取り出し、火で軽く炙ってからセリナに差し出した。
彼女は無表情のまま『ありがとう』とつぶやき、尻尾をわずかに揺らしながら、焼けた干し肉をじっと見つめた。
森の風がそよぐと、火の匂いと樹木の香りが混ざり合う。セリナは焚火を見つめたまま、ぽつりとつぶやいた。
「……レオン、強いの?」
あまりに唐突な問いだった。レオンは一瞬、どう答えるべきか迷い、苦笑いを浮かべる。
「自分では強いとは言えないな。魔物相手には慣れてきたし、小さい頃から対人戦の訓練を受けてきたから、それなりの経験はある。怪我をすることもあったが、今は無茶はしない……つもりでいる」
「ふぅん。なら、信じる」
セリナはそう言ってくるりと尻尾を巻くようにして、焚火の前に丸くなる。まるで小動物が安心できる場所を見つけたかのような態度だが、その無防備な姿勢にレオンは少し戸惑う。
「信じてくれるのはありがたいが、早すぎないか? 俺と組んでまだ大して時間も経ってないんだし」
セリナはちらりとレオンを見て、また焚火へ視線を戻す。
「あなたの匂い、嘘つきの匂いしない」
レオンはその言葉に一瞬息が詰まる。彼女は獣人特有の鋭い嗅覚で、人間の発する匂いからある程度の感情や真偽を察知できるのだろうか。だが、レオン自身が抱えている王族としての秘密は、匂いだけではわからないはずだ。
そう思うと同時に、微かな焦燥感が胸をかすめるが、それを表情に出さないように気をつける。
「そっか……嘘つきの匂いね。ま、とにかく俺はお互いに損をしない関係ならいいと思ってる。パーティを組むってのはそういうことだから」
セリナはふと焚火に木の枝をくべ、メラメラと炎が赤々と揺れる。その光が彼女の金色の瞳を照らし出すと、どこか幻想的ですらある。
「損をしない……そう。わたしも、あなたといると損じゃなくなるかも。……それ、悪くない」
その淡々とした言い方が、逆に彼女の本心を感じさせる。レオンは、これまであまり他人と関わることのなかった彼女の様子を思い浮かべながら、小さく安堵の笑みを浮かべる。
「ありがとう。それが本音なら嬉しいよ」
火を前に二人で食事をとりながら、簡単な雑談も交わす。セリナはあまり過去を語らないが、一人でやってきたという事実は確かなようで、彼女なりに長い孤独を抱えていた可能性がある。
レオンも王宮を出た身であり、秘密を抱えたまま冒険者としての日々を送る孤独を知っている。そのため、セリナの無言の背景にある何かを感じ取れなくもないが、彼女が詳細を語らない以上、深く踏み込むことはしない。
空はゆっくりと夕焼けから夜の色へと染まっていく。焚火の明かりが際立ち、遠くから響く獣の声や虫の音が、夜の静けさを彩るように広がっていく。
レオンは時計がなくても、星の位置と月の登り方を見れば、十九時を過ぎた頃だと見当をつける。セリナもふと夜空を見上げ、尾を微かに揺らした。
「もう少ししたら、また偵察。夜のコボルトは、昼とは動きが違う」
「そうだな。奇襲をかけるなら、まずは夜の巡回の動きを確認しないと」
レオンが頷き、焚火に薪をくべる。セリナはゆっくりと立ち上がり、一度大きく息を吸い込んだ。
「……それまで、休む?」
「だな。先に横になるといい。俺も気を抜いて眠るわけにはいかないが、体力は回復しておくにこしたことはないからな」
こうして二人は、簡単な交代制で休むことにした。セリナはふわりと尻尾を抱え込むようにして仮眠をとり、レオンは周囲を警戒しながら、時折目を閉じて短い休息をとる。
焚火がパチパチと音を立てる中、遠くの夜空にはうっすらとした星がまたたく。狼煙のような月の光は薄く、ここから見る山の稜線は漆黒のシルエットを描く。狩人たちの夜明け前――まさに今が、勝負の前の静かな緊張のときだった。
レオンの推測で時刻は二十一時頃。夜の冷たい風が少し強まり、焚火の炎が小さく揺れる。セリナが目覚めたのか、まばたきをしながら背伸びをして、尻尾をふわりと振った。
「起きたか?」
「うん……行く。偵察」
彼女は短い言葉だけで意思を伝え、フードをかぶりなおす。昼間よりも暗い夜の森林は、さらに彼女の隠密能力を活かせる環境だろう。レオンはわずかに心配を抱えながらも、ここまでの流れを信じることにする。
「気をつけろ。危なかったらすぐ戻ってきていいから」
セリナは小さく頷くと、焚火を見下ろし、ちらりとレオンに視線をやる。
「……大丈夫、任せて」
そう言うと、まるで獣のようなしなやかな足取りで森へ溶け込んでいった。レオンは再び、セリナの存在感が薄れるのを感じた。ここまで気配を消せるのは、獣人の感覚と独自の技術が相まっているからだろう。普通の人間には到底真似できない。
レオンは彼女の姿を見送ったあと、焚火を小さく保つように調整し、周囲の警戒を続ける。時折、夜の昆虫が羽を鳴らす音や、遠くで小動物が走る気配を感じるが、それ以上の脅威はなさそうだ。
闇が深くなるにつれ、冷気が肌にしみてくる。レオンは外套を少しだけ合わせて肩をすくめる。王宮時代に比べれば格段に不便な生活だが、今はそれが自分の生き方なのだと受け止めている。
やがて、三十分ほどした頃か、足音を殺した気配が再び現れ、レオンが振り向くとセリナがすでに近くに立っていた。心臓が跳ねるほど驚いたが、彼女はあっさり報告を始める。
「巡回コボルト……三匹。巣の中、十匹くらい。シャーマン、いない」
セリナは短文的な報告だが、要点は明確だ。どうやらコボルトの巣はそれほど大規模ではなく、合計十数匹が活動している模様。巡回が三匹ほどいて、シャーマンと呼ばれる魔法使いの個体はいないらしい。
「なるほど。巣が小規模なら、数としては十分倒せるな。……でも、夜に仕掛けるか、朝方に仕掛けるかが問題だ」
コボルトは夜行性と言われる一方、明け方まで活動する個体もいる。すでに夜深くなりつつある今、奇襲を仕掛けるには、こちらも暗闇での戦いを想定しなければならない。
セリナは焚火の明かりに照らされながら尻尾を揺らし、淡々と続ける。
「夜明け前がいい。いまはやや警戒してるけど、夜が長いとコボルトの集中力が下がる。夜明け直前が一番隙ができる」
レオンは彼女の言葉に頷く。王宮時代の魔物学の授業でも、コボルトは夜通し活動した後、明け方に最も動きが鈍ると学んだ記憶がある。
「なら、夜明け前に仕掛けるか。あとは、奇襲で一気に殲滅する。巡回の三匹をどう対処するか……セリナ、先にそいつらを仕留めてくれないか?」
「うん、それがいい。わたし、隠れて先に処理する。あとはあなたが巣へ突っ込む。わたしはナイフで援護」
話はまるで軍の作戦会議のように進んでいく。セリナの瞳は無表情ながら、その奥に燃えるような意志が宿っているのが見て取れる。彼女のしっぽの先がかすかに揺れている。興奮を抑えきれない証拠かもしれない。
「……わかった。じゃあ、少し時間を潰そう。今は二十三時くらいだろ? あと数時間、ここで休息を取って、仕掛けるときは一気に動く」
「うん、奇襲なら勝てる。……あなた、楽しそう?」
セリナは無表情で首を傾げながら、尻尾を振る。レオンは思わず吹き出しそうになりながら、冗談めかした口調で答える。
「いや、緊張してるさ。でもセリナはなんか楽しそうじゃないか?」
「あなたと組むの、悪くない。……だから、ちゃんと働いて」
さらりとした彼女の言葉に、レオンは思わず苦笑する。やはり変わった感性をしているようだが、その裏に一切の疑いのないパーティへの信頼があると感じる。こんな風に素直に言われると、少し照れくさいし、どこか責任感も生まれる。
レオンは再び焚火をかき立て、上で水を温めて簡単な飲み物を淹れる。夜はまだこれからが長い。軽く身体を休めながら明け方の突入に備え、両者が万全の状態で戦えるよう時間を使わなければならない。
時は深夜を回り、星々がいっそう輝くころ。山の麓には静寂が満ち、風も凍えるように冷たくなっている。焚火が徐々に小さくなり、レオンは追加で薪をくべるか迷いながらも、もうすぐ行動開始の時刻を迎えるため燃やし切る方向にした。
セリナは再度うたた寝のような状態で身体を休めていたが、レオンの動きに気づいたのか、すっと目を開く。その瞳には眠気などまるで感じられず、夜の狩人を思わせる鋭い光が宿っていた。
「そろそろ……行こう。時間、いいか?」
「うん、多分あと二時間くらいで夜明け。今が狙い目。巡回コボルト、先に片付けないと、巣に戻られると厄介だから」
話し合いはすぐにまとまり、二人は手早く装備を整える。レオンは鞄の中から道具屋で買ったポーションや毒消し薬をベルトポーチに移し、いつでも取り出せるようにする。セリナは何本ものナイフを腰のホルダーに差し込み、さらに短剣を太もものホルダーに固定した。
火を消す前に、軽く火の粉が飛び散らないよう焚火の周囲に土をかぶせ、完全に消火した。まばらな星明かりの下、二人は無言のまま森の奥へと踏み出していく。風の音が耳に響き、木々の根元がまるで洞穴のように闇を抱えている。
夜明け前の静寂――それは生命の息吹が密かに眠る時間帯でもあり、同時に闇を好むコボルトたちが油断する隙が生まれやすいとも言われている。この闇を味方につけるか、呑まれてしまうかは、二人の戦い方にかかっていた。
59
あなたにおすすめの小説
ひっそり静かに生きていきたい 神様に同情されて異世界へ。頼みの綱はアイテムボックス
於田縫紀
ファンタジー
雨宿りで立ち寄った神社の神様に境遇を同情され、私は異世界へと転移。
場所は山の中で周囲に村等の気配はない。あるのは木と草と崖、土と空気だけ。でもこれでいい。私は他人が怖いから。
爺さんの異世界建国記 〜荒廃した異世界を農業で立て直していきます。いきなりの土作りはうまくいかない。
秋田ノ介
ファンタジー
88歳の爺さんが、異世界に転生して農業の知識を駆使して建国をする話。
異世界では、戦乱が絶えず、土地が荒廃し、人心は乱れ、国家が崩壊している。そんな世界を司る女神から、世界を救うように懇願される。爺は、耳が遠いせいで、村長になって村人が飢えないようにしてほしいと頼まれたと勘違いする。
その願いを叶えるために、農業で村人の飢えをなくすことを目標にして、生活していく。それが、次第に輪が広がり世界の人々に希望を与え始める。戦争で成人男性が極端に少ない世界で、13歳のロッシュという若者に転生した爺の周りには、ハーレムが出来上がっていく。徐々にその地に、流浪をしている者たちや様々な種族の者たちが様々な思惑で集まり、国家が出来上がっていく。
飢えを乗り越えた『村』は、王国から狙われることとなる。強大な軍事力を誇る王国に対して、ロッシュは知恵と知識、そして魔法や仲間たちと協力して、その脅威を乗り越えていくオリジナル戦記。
完結済み。全400話、150万字程度程度になります。元は他のサイトで掲載していたものを加筆修正して、掲載します。一日、少なくとも二話は更新します。
役立たずと言われダンジョンで殺されかけたが、実は最強で万能スキルでした !
本条蒼依
ファンタジー
地球とは違う異世界シンアースでの物語。
主人公マルクは神聖の儀で何にも反応しないスキルを貰い、絶望の淵へと叩き込まれる。
その役に立たないスキルで冒険者になるが、役立たずと言われダンジョンで殺されかけるが、そのスキルは唯一無二の万能スキルだった。
そのスキルで成り上がり、ダンジョンで裏切った人間は落ちぶれざまあ展開。
主人公マルクは、そのスキルで色んなことを解決し幸せになる。
ハーレム要素はしばらくありません。
嫁に来た転生悪役令嬢「破滅します!」 俺「大丈夫だ、問題ない(ドラゴン殴りながら)」~ゲームの常識が通用しない辺境領主の無自覚成り上がり~
ちくでん
ファンタジー
「なぜあなたは、私のゲーム知識をことごとく上回ってしまうのですか!?」
魔物だらけの辺境で暮らす主人公ギリアムのもとに、公爵家令嬢ミューゼアが嫁として追放されてきた。実はこのお嫁さん、ゲーム世界に転生してきた転生悪役令嬢だったのです。
本来のゲームでは外道の悪役貴族だったはずのギリアム。ミューゼアは外道貴族に蹂躙される破滅エンドだったはずなのに、なぜかこの世界線では彼ギリアムは想定外に頑張り屋の好青年。彼はミューゼアのゲーム知識をことごとく超えて彼女を仰天させるイレギュラー、『ゲーム世界のルールブレイカー』でした。
ギリアムとミューゼアは、破滅回避のために力を合わせて領地開拓をしていきます。
スローライフ+悪役転生+領地開拓。これは、ゆったりと生活しながらもだんだんと世の中に(意図せず)影響力を発揮していってしまう二人の物語です。
40歳のおじさん 旅行に行ったら異世界でした どうやら私はスキル習得が早いようです
カムイイムカ(神威異夢華)
ファンタジー
部長に傷つけられ続けた私
とうとうキレてしまいました
なんで旅行ということで大型連休を取ったのですが
飛行機に乗って寝て起きたら異世界でした……
スキルが簡単に得られるようなので頑張っていきます
『収納』は異世界最強です 正直すまんかったと思ってる
農民ヤズ―
ファンタジー
「ようこそおいでくださいました。勇者さま」
そんな言葉から始まった異世界召喚。
呼び出された他の勇者は複数の<スキル>を持っているはずなのに俺は収納スキル一つだけ!?
そんなふざけた事になったうえ俺たちを呼び出した国はなんだか色々とヤバそう!
このままじゃ俺は殺されてしまう。そうなる前にこの国から逃げ出さないといけない。
勇者なら全員が使える収納スキルのみしか使うことのできない勇者の出来損ないと呼ばれた男が収納スキルで無双して世界を旅する物語(予定
私のメンタルは金魚掬いのポイと同じ脆さなので感想を送っていただける際は語調が強くないと嬉しく思います。
ただそれでも初心者故、度々間違えることがあるとは思いますので感想にて教えていただけるとありがたいです。
他にも今後の進展や投稿済みの箇所でこうしたほうがいいと思われた方がいらっしゃったら感想にて待ってます。
なお、書籍化に伴い内容の齟齬がありますがご了承ください。
【完結】腹ペコ貴族のスキルは「種」でした
シマセイ
ファンタジー
スキルが全てを決める世界。
下級貴族の少年アレンが授かったのは、植物の種しか生み出せない、役立たずの『種』スキルだった。
『種クズ』と周りから嘲笑されても、超がつくほど呑気で食いしん坊なアレンはどこ吹く風。
今日もスキルで出した木の実をおやつに、マイペースな学院生活を送る。
これは、誰もがクズスキルと笑うその力に、世界の常識を覆すほどの秘密が隠されているとは露ほども知らない、一人の少年が繰り広げる面白おかしい学院ファンタジー!
無能と言われた召喚士は実家から追放されたが、別の属性があるのでどうでもいいです
竹桜
ファンタジー
無能と呼ばれた召喚士は王立学園を卒業と同時に実家を追放され、絶縁された。
だが、その無能と呼ばれた召喚士は別の力を持っていたのだ。
その力を使用し、無能と呼ばれた召喚士は歌姫と魔物研究者を守っていく。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる