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第2章 失われし絆、目覚めの時
第69話 ラウレンツ領へ
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朝の空は、雲ひとつなく澄み渡っていた。宿屋の前、柔らかな陽光が石畳を金色に染め、旅支度を終えた馬車が静かに待っている。
それは天蓋付きの中型馬車だった。後方には荷台があり、座席は向かい合わせに四人が乗れる作り。日除けの布もあり、長旅に備えた造りが施されている。
レオンは手早く荷を積み込みながら、荷台の固定具を調整していた。道中は五日。食糧、寝具、装備――すべて、しっかりと収められている。
「い、いよいよ……出発ですね」
声の主はリリア。緊張で背筋がぴんと伸びているが、頬はわずかに紅潮し、目元には旅立ちの高揚がにじんでいた。
レオンは積み込みを終え、馬車の扉を開けながら彼女に笑いかける。
「ああ。五日も旅するのは久しぶりだ。……準備はいいか?」
「は、はいっ!」
その後ろでは、セリナが尻尾をふわりと揺らしながら、馬車の周囲をひとまわりしていた。すでに旅支度を終えている彼女は、細かく馬具や車輪の状態を確認し終え、リリアに目を向ける。
「……走れる? 野営できる?」
唐突な問いかけに、リリアがぴくっと肩を跳ねさせる。
「ま、任せてください! ……多分……!」
セリナは何も言わず、尾を一度だけ揺らした。その仕草はどこか楽しげにも見えた。
サフィアがゆっくりとフードを整えながら、馬車の脇に立つ。
「気を抜かないようにしましょう。街道の治安は良くても、油断は禁物です」
「そうだな」
レオンは短く答え、最後に扉を確認してから馬車へ乗り込んだ。
全員がゆったりと座れる車内。ミリーは緊張した面持ちで座席に身を沈め、リリアは何度も荷物を確認しながら、背筋を伸ばしていた。
セリナは窓際で耳をぴくりと動かし、サフィアは静かに地図を広げる。
レオンが手綱を引くと、馬車はゆっくりと動き出した。
石畳の音が車輪に連なり、朝の街を抜けていく。
――これが、新たな旅の始まり。
仲間たちと共に、まだ見ぬ地へ。その先に待つのは、貴族の館と、杖の謎――そして、確実に忍び寄る何か。
「よし、出発だ」
その言葉とともに、馬車は静かにブルーヴェイルを後にした。
広がる草原と、時折現れる林のトンネルを抜けながら、馬車はのどかな街道を進んでいた。
風が草をなで、車輪の音が静かに風景へと溶け込んでいく。
レオンは手綱を握りながら、視線を前方の道に据えたまま、軽く息を吐いた。
街の喧騒を離れたこの道には、確かに静けさがある。だが、それは同時に警戒すべき隙でもあった。
馬車の横を、セリナの影がすっと駆け抜けていく。獣人の身のこなしは音もなく、林の陰から枝の上へと移動しながら、常に前方の安全を確認している。
何も言わないが、レオンはその気配を感じ取っていた。
「……初めて見る風景ばかりで、ちょっと怖いですが……不思議と心地いいです」
後部座席から、ミリーの声がやわらかく届く。彼女は窓の外に顔を向けたまま、目を細めていた。
「私も、こうしてパーティの一員として旅するの、ずっと憧れてたの」
隣に座るリリアが、笑いながらそう答える。その言葉には、ほんのりとした照れと、誇らしさが混じっていた。
「……でも、本当にこれでいいのかなって思う時もあります。私、戦えないし……皆みたいに格好良いわけでもないから……」
その一言に、レオンはふと手綱を緩め、肩越しに振り返った。
「リリア、無理はしなくていい。お前の役割は、俺たちを支えることなんだ」
それは、率直な思いだった。戦いだけが強さじゃない。誰かが笑顔で戻れる場所を守る。それもまた、旅の中で最も欠かせない役目だ。
リリアは一瞬だけ目を伏せたあと、ふわりと微笑んだ。
「……はい。ありがとう、レオンさん」
その声には、迷いのあとに灯る決意の色があった。
馬車の前方ではサフィアが交代の準備をしながら、遠くの空を見上げている。風の匂いを読むように、何かを感じ取ろうとしているのか――その横顔は静かで、強かった。
レオンは再び前方に目を戻す。
道はまだ長い。けれど、今のこの時間が、彼にとって確かなものを感じさせていた。
彼らは、今――同じ道を、確かに進んでいる。
二日目の夕暮れの色が完全に沈む頃、一行は小さな村の外れにある宿へとたどり着いていた。
石造りの質素な建物だったが、清潔感があり、玄関前に吊るされたランタンの灯りが温かさを醸し出していた。
村の規模を考えれば、これほど整った宿はむしろ上等だった。
馬車をつなぎ終えると、レオンは荷物を下ろして皆を促した。
「今夜はここに泊まろう。……野営にならずに済んでよかった」
「はい……」
ミリーは小さく返事をしながら、宿の部屋をきょろきょろと見渡していた。初めての旅先の宿に、少し緊張が混じっているのが目に見えてわかる。
それでもベッドの上に腰を下ろし、手に取ったブランケットを胸元でぎゅっと抱きしめた。
「このブランケット……暖かいです」
その笑顔に、レオンも少し肩の力を抜いた。
部屋の奥では、セリナとサフィアが地図を広げて、明日の行程を確認している。木炭で引かれた街道のラインに、サフィアが指を滑らせながら呟いた。
「この先は街道から外れる林道が増えますね。途中、地形が変わりやすい場所もあるわ」
「……水場、見つけた方がいい」
セリナは地図の隅に小さな池の記号を見つけると、尻尾を軽く揺らして頷いた。
「ベッド、硬い。でも我慢」
「ふふ……明日の野営に備えましょう」
サフィアがくすっと笑いながら返す。
一方、リリアは台所の方で、宿の女将と何やら談笑していた。湯気の立つ鍋を覗き込んで、時おり笑い声が漏れてくる。
レオンは壁にもたれ、薪の火に照らされる部屋の中を見渡した。旅の途中で、こうして全員が温かい部屋で揃っている――それだけで、ありがたい。
「……旅の途中のまともな宿だ。ありがたく寝よう」
彼の言葉に、ミリーが小さく「はい」と返し、ブランケットにくるまった。
外はもうすっかり夜になり、窓の外では虫の声が微かに聞こえ始めていた。長い道のりの途中で訪れた、束の間の安らぎ。
だがそれは、確かに守られていると感じさせる静けさだった。
三日目の夜、街道の脇に広がる林の縁で、レオンたちは野営を敷いていた。宿のある村からは離れすぎていたため、この夜は屋根のない空の下で過ごすことを選んだ。
焚き火の周りには簡易テントと寝袋。調理器具と乾燥食料の匂いが、わずかに空気に漂っている。
空は雲ひとつない。だが、それが逆に不安をかき立てる夜だった。
レオンは火の番をしながら、耳を澄ましていた。
そのとき――。
「……っ」
パチ、と音を立てて耳を動かしたのはセリナだった。焚き火の奥、闇の中へ目を細めて立ち上がる。
「来る……前方、三体」
レオンもすぐさま腰の剣に手をかけ、背後へ声を飛ばす。
「サフィア、右へ回ってくれ。セリナ、挟み撃ちにするぞ」
「了解。ミリー、後ろに下がって!」
サフィアが素早く詠唱の準備に入り、ミリーを背後へ導く。
茂みが揺れ、低い唸り声が漏れる。月明かりの中、獣型の魔物が姿を現した――牙を剥き、毛を逆立てた三体の魔物が、焚き火の光に赤く照らされる。
セリナが音もなく左から駆け、レオンは正面に踏み込む。斜めに突っ込んできた一体の首筋を狙い、剣が鋭く閃いた。
刹那、背後で閃光とともに雷の槍が走る。サフィアの魔法がもう一体の脇腹を正確に貫き、青白い稲光を伴って吹き飛ばした。
残る一体が逃げるように林に戻ろうとしたその時――。
セリナの短剣が闇を裂いた。乾いた音を立てて、魔物は崩れ落ちる。
静寂が戻る。
地面に伏した三体の魔物は、全て動かない。
焚き火の炎がわずかにその影を揺らしながら燃えていた。
「……終わったな」
レオンは剣を軽く振って血を払い、仲間たちの無事を確かめるように周囲を見渡す。
サフィアが魔法の残滓を消しながら息を整えており、セリナは音もなく焚き火の傍へ戻っていた。
そのとき、ふとレオンの目が寝袋の中のリリアに止まる。
彼女は眠っていたはずの体勢のまま、布の下で両拳をぎゅっと握りしめていた。瞼を閉じているが、その指先はわずかに震えていた。
きっと音で気づいていたのだろう。だが、彼女は動かなかった。動けなかったのか、動かなかったのかは分からない。
レオンは火を見つめ、ゆっくりと腰を下ろした。それぞれの役割と、それぞれの決意が交錯する夜だった。
そして、この先に進むにつれ――その重さは、さらに増していくのだと、彼は静かに感じていた。
◆◇◆◇
そして旅は四日目を迎えていた。
森を抜けた先、陽光を映したような泉が静かに水面を揺らしていた。その透き通る水に、少女たちの笑い声がやさしく響いていた。
サフィアは膝まで水に浸かりながら、泉の中心で髪をすくっているミリーを見つめる。旅装の下に隠れていた細い肩が、まぶしい陽の光を浴びていた。
「……こうして水に入るの、久しぶりですね」
ミリーがぽつりと呟く。声は小さいが、その表情は緩んでいた。
セリナはすでに泉の縁で水をはじかせており、リリアは頬を赤くしながらも後に続いて水に浸かっていく。
「サフィアさんのスタイル、羨ましいです……」
そう言ったリリアは、視線を逸らしながらもちらりとサフィアの身体を見た。
「ふふ、そんなことないわよ。セリナやミリーくらい胸があるほうが……女性らしいもの」
サフィアが柔らかく微笑むと、セリナが無表情のまま下を向き一言。
「これ、邪魔なだけ」
その即答に、リリアとミリーが同時に吹き出しかけた。
「せ、セリナさん……っ!」「わ、私……! そ、そんな……」
ミリーは泉の中で手をばたつかせながら、顔を真っ赤に染めている。
その様子を見て、サフィアは口元に手を添えてそっと笑った。
「でも、よかったわ。みんな、ちゃんと楽しめてるようで」
少女たちはそれぞれのやり取りを交わしながら、水音とともにその場の空気をやさしく揺らしていった。
森の奥、風にゆれる木々の隙間からこぼれる光が、水面にきらめきを散らしている。水しぶきとともに交わされる笑い声が、澄んだ泉に反響して消えていった。
◆◇◆◇
その遠く離れた木陰、泉から少し離れた場所で、レオンは馬の手綱を整えていた。ふと、笑い声に耳を傾け、目を細める。
「……楽しそうだな」
誰に語るでもなく呟いたその声には、わずかに柔らかい響きが混じっていた。
無防備になれる時間。それがどれほど貴重かを、彼はよく知っている。だからこそ――守る、と心の中で静かに誓うのだった。
西の空が、茜に染まりはじめていた。沈みかけた太陽が、草原の起伏を照らし、金色の光が街道の先へと道を伸ばしている。
風は穏やかで、旅路の疲れをほんの少しだけ癒してくれるようだった。
馬車の音はゆるやかに響き、車輪が乾いた土をかすめていく。
レオンは手綱を握ったまま、馬車を引く馬の横を歩いている。
前方に目をやると、少し先を歩くセリナの後ろ姿。揺れる銀の髪と尾、警戒を解かない姿勢。その小さな背が、妙に頼もしく見えた。
その横では、ミリーが摘んだ草花を両手に持ち、時折笑い声を漏らしている。旅のはじめとは別人のように、表情が明るい。
「……この旅の先に何が待ってるか、俺にはまだわからないけど……」
思わず、言葉がこぼれた。
遠くに、次の村の影が見えはじめている。街灯も、囲いもない小さな集落。それでも今の彼らにとっては、十分な目印だった。
「でも、きっと、大丈夫ですよね」
静かな声が隣から聞こえた。
リリアが、いつの間にかレオンの隣に並んで歩いていた。顔を上げ、どこか自分に言い聞かせるように微笑んでいる。
レオンも小さく笑った。
「ああ。俺たちなら――きっと、大丈夫だ」
その言葉に、リリアは少しだけ歩幅を広げ、風に揺れるスカートを押さえながら前へ進んだ。
空には、一番星がそっと瞬き始めている。沈む陽が道を照らすその先に、まだ見ぬ未来が待っていた。
それでも、彼らは確かに進んでいた。迷いも不安も、そのすべてを乗せながら。
確かな足取りで――旅は、続いていく。
それは天蓋付きの中型馬車だった。後方には荷台があり、座席は向かい合わせに四人が乗れる作り。日除けの布もあり、長旅に備えた造りが施されている。
レオンは手早く荷を積み込みながら、荷台の固定具を調整していた。道中は五日。食糧、寝具、装備――すべて、しっかりと収められている。
「い、いよいよ……出発ですね」
声の主はリリア。緊張で背筋がぴんと伸びているが、頬はわずかに紅潮し、目元には旅立ちの高揚がにじんでいた。
レオンは積み込みを終え、馬車の扉を開けながら彼女に笑いかける。
「ああ。五日も旅するのは久しぶりだ。……準備はいいか?」
「は、はいっ!」
その後ろでは、セリナが尻尾をふわりと揺らしながら、馬車の周囲をひとまわりしていた。すでに旅支度を終えている彼女は、細かく馬具や車輪の状態を確認し終え、リリアに目を向ける。
「……走れる? 野営できる?」
唐突な問いかけに、リリアがぴくっと肩を跳ねさせる。
「ま、任せてください! ……多分……!」
セリナは何も言わず、尾を一度だけ揺らした。その仕草はどこか楽しげにも見えた。
サフィアがゆっくりとフードを整えながら、馬車の脇に立つ。
「気を抜かないようにしましょう。街道の治安は良くても、油断は禁物です」
「そうだな」
レオンは短く答え、最後に扉を確認してから馬車へ乗り込んだ。
全員がゆったりと座れる車内。ミリーは緊張した面持ちで座席に身を沈め、リリアは何度も荷物を確認しながら、背筋を伸ばしていた。
セリナは窓際で耳をぴくりと動かし、サフィアは静かに地図を広げる。
レオンが手綱を引くと、馬車はゆっくりと動き出した。
石畳の音が車輪に連なり、朝の街を抜けていく。
――これが、新たな旅の始まり。
仲間たちと共に、まだ見ぬ地へ。その先に待つのは、貴族の館と、杖の謎――そして、確実に忍び寄る何か。
「よし、出発だ」
その言葉とともに、馬車は静かにブルーヴェイルを後にした。
広がる草原と、時折現れる林のトンネルを抜けながら、馬車はのどかな街道を進んでいた。
風が草をなで、車輪の音が静かに風景へと溶け込んでいく。
レオンは手綱を握りながら、視線を前方の道に据えたまま、軽く息を吐いた。
街の喧騒を離れたこの道には、確かに静けさがある。だが、それは同時に警戒すべき隙でもあった。
馬車の横を、セリナの影がすっと駆け抜けていく。獣人の身のこなしは音もなく、林の陰から枝の上へと移動しながら、常に前方の安全を確認している。
何も言わないが、レオンはその気配を感じ取っていた。
「……初めて見る風景ばかりで、ちょっと怖いですが……不思議と心地いいです」
後部座席から、ミリーの声がやわらかく届く。彼女は窓の外に顔を向けたまま、目を細めていた。
「私も、こうしてパーティの一員として旅するの、ずっと憧れてたの」
隣に座るリリアが、笑いながらそう答える。その言葉には、ほんのりとした照れと、誇らしさが混じっていた。
「……でも、本当にこれでいいのかなって思う時もあります。私、戦えないし……皆みたいに格好良いわけでもないから……」
その一言に、レオンはふと手綱を緩め、肩越しに振り返った。
「リリア、無理はしなくていい。お前の役割は、俺たちを支えることなんだ」
それは、率直な思いだった。戦いだけが強さじゃない。誰かが笑顔で戻れる場所を守る。それもまた、旅の中で最も欠かせない役目だ。
リリアは一瞬だけ目を伏せたあと、ふわりと微笑んだ。
「……はい。ありがとう、レオンさん」
その声には、迷いのあとに灯る決意の色があった。
馬車の前方ではサフィアが交代の準備をしながら、遠くの空を見上げている。風の匂いを読むように、何かを感じ取ろうとしているのか――その横顔は静かで、強かった。
レオンは再び前方に目を戻す。
道はまだ長い。けれど、今のこの時間が、彼にとって確かなものを感じさせていた。
彼らは、今――同じ道を、確かに進んでいる。
二日目の夕暮れの色が完全に沈む頃、一行は小さな村の外れにある宿へとたどり着いていた。
石造りの質素な建物だったが、清潔感があり、玄関前に吊るされたランタンの灯りが温かさを醸し出していた。
村の規模を考えれば、これほど整った宿はむしろ上等だった。
馬車をつなぎ終えると、レオンは荷物を下ろして皆を促した。
「今夜はここに泊まろう。……野営にならずに済んでよかった」
「はい……」
ミリーは小さく返事をしながら、宿の部屋をきょろきょろと見渡していた。初めての旅先の宿に、少し緊張が混じっているのが目に見えてわかる。
それでもベッドの上に腰を下ろし、手に取ったブランケットを胸元でぎゅっと抱きしめた。
「このブランケット……暖かいです」
その笑顔に、レオンも少し肩の力を抜いた。
部屋の奥では、セリナとサフィアが地図を広げて、明日の行程を確認している。木炭で引かれた街道のラインに、サフィアが指を滑らせながら呟いた。
「この先は街道から外れる林道が増えますね。途中、地形が変わりやすい場所もあるわ」
「……水場、見つけた方がいい」
セリナは地図の隅に小さな池の記号を見つけると、尻尾を軽く揺らして頷いた。
「ベッド、硬い。でも我慢」
「ふふ……明日の野営に備えましょう」
サフィアがくすっと笑いながら返す。
一方、リリアは台所の方で、宿の女将と何やら談笑していた。湯気の立つ鍋を覗き込んで、時おり笑い声が漏れてくる。
レオンは壁にもたれ、薪の火に照らされる部屋の中を見渡した。旅の途中で、こうして全員が温かい部屋で揃っている――それだけで、ありがたい。
「……旅の途中のまともな宿だ。ありがたく寝よう」
彼の言葉に、ミリーが小さく「はい」と返し、ブランケットにくるまった。
外はもうすっかり夜になり、窓の外では虫の声が微かに聞こえ始めていた。長い道のりの途中で訪れた、束の間の安らぎ。
だがそれは、確かに守られていると感じさせる静けさだった。
三日目の夜、街道の脇に広がる林の縁で、レオンたちは野営を敷いていた。宿のある村からは離れすぎていたため、この夜は屋根のない空の下で過ごすことを選んだ。
焚き火の周りには簡易テントと寝袋。調理器具と乾燥食料の匂いが、わずかに空気に漂っている。
空は雲ひとつない。だが、それが逆に不安をかき立てる夜だった。
レオンは火の番をしながら、耳を澄ましていた。
そのとき――。
「……っ」
パチ、と音を立てて耳を動かしたのはセリナだった。焚き火の奥、闇の中へ目を細めて立ち上がる。
「来る……前方、三体」
レオンもすぐさま腰の剣に手をかけ、背後へ声を飛ばす。
「サフィア、右へ回ってくれ。セリナ、挟み撃ちにするぞ」
「了解。ミリー、後ろに下がって!」
サフィアが素早く詠唱の準備に入り、ミリーを背後へ導く。
茂みが揺れ、低い唸り声が漏れる。月明かりの中、獣型の魔物が姿を現した――牙を剥き、毛を逆立てた三体の魔物が、焚き火の光に赤く照らされる。
セリナが音もなく左から駆け、レオンは正面に踏み込む。斜めに突っ込んできた一体の首筋を狙い、剣が鋭く閃いた。
刹那、背後で閃光とともに雷の槍が走る。サフィアの魔法がもう一体の脇腹を正確に貫き、青白い稲光を伴って吹き飛ばした。
残る一体が逃げるように林に戻ろうとしたその時――。
セリナの短剣が闇を裂いた。乾いた音を立てて、魔物は崩れ落ちる。
静寂が戻る。
地面に伏した三体の魔物は、全て動かない。
焚き火の炎がわずかにその影を揺らしながら燃えていた。
「……終わったな」
レオンは剣を軽く振って血を払い、仲間たちの無事を確かめるように周囲を見渡す。
サフィアが魔法の残滓を消しながら息を整えており、セリナは音もなく焚き火の傍へ戻っていた。
そのとき、ふとレオンの目が寝袋の中のリリアに止まる。
彼女は眠っていたはずの体勢のまま、布の下で両拳をぎゅっと握りしめていた。瞼を閉じているが、その指先はわずかに震えていた。
きっと音で気づいていたのだろう。だが、彼女は動かなかった。動けなかったのか、動かなかったのかは分からない。
レオンは火を見つめ、ゆっくりと腰を下ろした。それぞれの役割と、それぞれの決意が交錯する夜だった。
そして、この先に進むにつれ――その重さは、さらに増していくのだと、彼は静かに感じていた。
◆◇◆◇
そして旅は四日目を迎えていた。
森を抜けた先、陽光を映したような泉が静かに水面を揺らしていた。その透き通る水に、少女たちの笑い声がやさしく響いていた。
サフィアは膝まで水に浸かりながら、泉の中心で髪をすくっているミリーを見つめる。旅装の下に隠れていた細い肩が、まぶしい陽の光を浴びていた。
「……こうして水に入るの、久しぶりですね」
ミリーがぽつりと呟く。声は小さいが、その表情は緩んでいた。
セリナはすでに泉の縁で水をはじかせており、リリアは頬を赤くしながらも後に続いて水に浸かっていく。
「サフィアさんのスタイル、羨ましいです……」
そう言ったリリアは、視線を逸らしながらもちらりとサフィアの身体を見た。
「ふふ、そんなことないわよ。セリナやミリーくらい胸があるほうが……女性らしいもの」
サフィアが柔らかく微笑むと、セリナが無表情のまま下を向き一言。
「これ、邪魔なだけ」
その即答に、リリアとミリーが同時に吹き出しかけた。
「せ、セリナさん……っ!」「わ、私……! そ、そんな……」
ミリーは泉の中で手をばたつかせながら、顔を真っ赤に染めている。
その様子を見て、サフィアは口元に手を添えてそっと笑った。
「でも、よかったわ。みんな、ちゃんと楽しめてるようで」
少女たちはそれぞれのやり取りを交わしながら、水音とともにその場の空気をやさしく揺らしていった。
森の奥、風にゆれる木々の隙間からこぼれる光が、水面にきらめきを散らしている。水しぶきとともに交わされる笑い声が、澄んだ泉に反響して消えていった。
◆◇◆◇
その遠く離れた木陰、泉から少し離れた場所で、レオンは馬の手綱を整えていた。ふと、笑い声に耳を傾け、目を細める。
「……楽しそうだな」
誰に語るでもなく呟いたその声には、わずかに柔らかい響きが混じっていた。
無防備になれる時間。それがどれほど貴重かを、彼はよく知っている。だからこそ――守る、と心の中で静かに誓うのだった。
西の空が、茜に染まりはじめていた。沈みかけた太陽が、草原の起伏を照らし、金色の光が街道の先へと道を伸ばしている。
風は穏やかで、旅路の疲れをほんの少しだけ癒してくれるようだった。
馬車の音はゆるやかに響き、車輪が乾いた土をかすめていく。
レオンは手綱を握ったまま、馬車を引く馬の横を歩いている。
前方に目をやると、少し先を歩くセリナの後ろ姿。揺れる銀の髪と尾、警戒を解かない姿勢。その小さな背が、妙に頼もしく見えた。
その横では、ミリーが摘んだ草花を両手に持ち、時折笑い声を漏らしている。旅のはじめとは別人のように、表情が明るい。
「……この旅の先に何が待ってるか、俺にはまだわからないけど……」
思わず、言葉がこぼれた。
遠くに、次の村の影が見えはじめている。街灯も、囲いもない小さな集落。それでも今の彼らにとっては、十分な目印だった。
「でも、きっと、大丈夫ですよね」
静かな声が隣から聞こえた。
リリアが、いつの間にかレオンの隣に並んで歩いていた。顔を上げ、どこか自分に言い聞かせるように微笑んでいる。
レオンも小さく笑った。
「ああ。俺たちなら――きっと、大丈夫だ」
その言葉に、リリアは少しだけ歩幅を広げ、風に揺れるスカートを押さえながら前へ進んだ。
空には、一番星がそっと瞬き始めている。沈む陽が道を照らすその先に、まだ見ぬ未来が待っていた。
それでも、彼らは確かに進んでいた。迷いも不安も、そのすべてを乗せながら。
確かな足取りで――旅は、続いていく。
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弟子たちとの、のんびりとした穏やかな日々。
独身の彼は、そんな彼ら彼女らのことを〝家族〟のように感じており、「こんな毎日も悪くない」と思っていた。
が、ある日。
「お久しぶりです、師匠!」
絶世の美少女が家を訪れた。
彼女は、十年前に、他の二人の幼い少女と一緒に山の中で獣(とパーチは思い込んでいるが、実はモンスター)に襲われていたところをパーチが助けて、その場で数時間ほど稽古をつけて、自分たちだけで戦える力をつけさせた、という女の子だった。
「私は今、アイスブラット王国の〝守護精霊〟をやっていまして」
精霊を自称する彼女は、「ちょ、ちょっと待ってくれ」と混乱するパーチに構わず、ニッコリ笑いながら畳み掛ける。
「そこで師匠には、私たちと一緒に〝魔王〟を倒して欲しいんです!」
これは、〝弟子たちがあっと言う間に強くなるのは、師匠である自分の特殊な力ゆえ〟であることに気付かず、〝実は最強の実力を持っている〟ことにも全く気付いていない男が、〝実は精霊だった美少女たち〟と再会し、言い寄られ、弟子たちに愛され、弟子以外の者たちからも尊敬され、世界を救って英雄になってしまう物語。
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