【第2章完結】王位を捨てた元王子、冒険者として新たな人生を歩む

凪木桜

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第2章 失われし絆、目覚めの時

第69話 ラウレンツ領へ

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 朝の空は、雲ひとつなく澄み渡っていた。宿屋の前、柔らかな陽光が石畳を金色に染め、旅支度を終えた馬車が静かに待っている。
 それは天蓋付きの中型馬車だった。後方には荷台があり、座席は向かい合わせに四人が乗れる作り。日除けの布もあり、長旅に備えた造りが施されている。

 レオンは手早く荷を積み込みながら、荷台の固定具を調整していた。道中は五日。食糧、寝具、装備――すべて、しっかりと収められている。

「い、いよいよ……出発ですね」

 声の主はリリア。緊張で背筋がぴんと伸びているが、頬はわずかに紅潮し、目元には旅立ちの高揚がにじんでいた。

 レオンは積み込みを終え、馬車の扉を開けながら彼女に笑いかける。

「ああ。五日も旅するのは久しぶりだ。……準備はいいか?」
「は、はいっ!」

 その後ろでは、セリナが尻尾をふわりと揺らしながら、馬車の周囲をひとまわりしていた。すでに旅支度を終えている彼女は、細かく馬具や車輪の状態を確認し終え、リリアに目を向ける。

「……走れる? 野営できる?」

 唐突な問いかけに、リリアがぴくっと肩を跳ねさせる。

「ま、任せてください! ……多分……!」

 セリナは何も言わず、尾を一度だけ揺らした。その仕草はどこか楽しげにも見えた。
 サフィアがゆっくりとフードを整えながら、馬車の脇に立つ。

「気を抜かないようにしましょう。街道の治安は良くても、油断は禁物です」
「そうだな」

 レオンは短く答え、最後に扉を確認してから馬車へ乗り込んだ。

 全員がゆったりと座れる車内。ミリーは緊張した面持ちで座席に身を沈め、リリアは何度も荷物を確認しながら、背筋を伸ばしていた。
 セリナは窓際で耳をぴくりと動かし、サフィアは静かに地図を広げる。

 レオンが手綱を引くと、馬車はゆっくりと動き出した。
 石畳の音が車輪に連なり、朝の街を抜けていく。

 ――これが、新たな旅の始まり。

 仲間たちと共に、まだ見ぬ地へ。その先に待つのは、貴族の館と、杖の謎――そして、確実に忍び寄る何か。

「よし、出発だ」

 その言葉とともに、馬車は静かにブルーヴェイルを後にした。


 
 広がる草原と、時折現れる林のトンネルを抜けながら、馬車はのどかな街道を進んでいた。
 風が草をなで、車輪の音が静かに風景へと溶け込んでいく。

 レオンは手綱を握りながら、視線を前方の道に据えたまま、軽く息を吐いた。
 街の喧騒を離れたこの道には、確かに静けさがある。だが、それは同時に警戒すべき隙でもあった。

 馬車の横を、セリナの影がすっと駆け抜けていく。獣人の身のこなしは音もなく、林の陰から枝の上へと移動しながら、常に前方の安全を確認している。
 何も言わないが、レオンはその気配を感じ取っていた。

「……初めて見る風景ばかりで、ちょっと怖いですが……不思議と心地いいです」

 後部座席から、ミリーの声がやわらかく届く。彼女は窓の外に顔を向けたまま、目を細めていた。

「私も、こうしてパーティの一員として旅するの、ずっと憧れてたの」

 隣に座るリリアが、笑いながらそう答える。その言葉には、ほんのりとした照れと、誇らしさが混じっていた。

「……でも、本当にこれでいいのかなって思う時もあります。私、戦えないし……皆みたいに格好良いわけでもないから……」

 その一言に、レオンはふと手綱を緩め、肩越しに振り返った。

「リリア、無理はしなくていい。お前の役割は、俺たちを支えることなんだ」

 それは、率直な思いだった。戦いだけが強さじゃない。誰かが笑顔で戻れる場所を守る。それもまた、旅の中で最も欠かせない役目だ。

 リリアは一瞬だけ目を伏せたあと、ふわりと微笑んだ。

「……はい。ありがとう、レオンさん」

 その声には、迷いのあとに灯る決意の色があった。

 馬車の前方ではサフィアが交代の準備をしながら、遠くの空を見上げている。風の匂いを読むように、何かを感じ取ろうとしているのか――その横顔は静かで、強かった。

 レオンは再び前方に目を戻す。
 道はまだ長い。けれど、今のこの時間が、彼にとって確かなものを感じさせていた。

 彼らは、今――同じ道を、確かに進んでいる。


 
 二日目の夕暮れの色が完全に沈む頃、一行は小さな村の外れにある宿へとたどり着いていた。
 石造りの質素な建物だったが、清潔感があり、玄関前に吊るされたランタンの灯りが温かさを醸し出していた。

 村の規模を考えれば、これほど整った宿はむしろ上等だった。
 馬車をつなぎ終えると、レオンは荷物を下ろして皆を促した。

「今夜はここに泊まろう。……野営にならずに済んでよかった」
「はい……」

 ミリーは小さく返事をしながら、宿の部屋をきょろきょろと見渡していた。初めての旅先の宿に、少し緊張が混じっているのが目に見えてわかる。
 それでもベッドの上に腰を下ろし、手に取ったブランケットを胸元でぎゅっと抱きしめた。

「このブランケット……暖かいです」

 その笑顔に、レオンも少し肩の力を抜いた。

 部屋の奥では、セリナとサフィアが地図を広げて、明日の行程を確認している。木炭で引かれた街道のラインに、サフィアが指を滑らせながら呟いた。

「この先は街道から外れる林道が増えますね。途中、地形が変わりやすい場所もあるわ」
「……水場、見つけた方がいい」

 セリナは地図の隅に小さな池の記号を見つけると、尻尾を軽く揺らして頷いた。

「ベッド、硬い。でも我慢」
「ふふ……明日の野営に備えましょう」

 サフィアがくすっと笑いながら返す。
 一方、リリアは台所の方で、宿の女将と何やら談笑していた。湯気の立つ鍋を覗き込んで、時おり笑い声が漏れてくる。

 レオンは壁にもたれ、薪の火に照らされる部屋の中を見渡した。旅の途中で、こうして全員が温かい部屋で揃っている――それだけで、ありがたい。

「……旅の途中のまともな宿だ。ありがたく寝よう」

 彼の言葉に、ミリーが小さく「はい」と返し、ブランケットにくるまった。

 外はもうすっかり夜になり、窓の外では虫の声が微かに聞こえ始めていた。長い道のりの途中で訪れた、束の間の安らぎ。

 だがそれは、確かに守られていると感じさせる静けさだった。


 
 三日目の夜、街道の脇に広がる林の縁で、レオンたちは野営を敷いていた。宿のある村からは離れすぎていたため、この夜は屋根のない空の下で過ごすことを選んだ。

 焚き火の周りには簡易テントと寝袋。調理器具と乾燥食料の匂いが、わずかに空気に漂っている。
 空は雲ひとつない。だが、それが逆に不安をかき立てる夜だった。

 レオンは火の番をしながら、耳を澄ましていた。

 そのとき――。

「……っ」

 パチ、と音を立てて耳を動かしたのはセリナだった。焚き火の奥、闇の中へ目を細めて立ち上がる。

「来る……前方、三体」

 レオンもすぐさま腰の剣に手をかけ、背後へ声を飛ばす。

「サフィア、右へ回ってくれ。セリナ、挟み撃ちにするぞ」
「了解。ミリー、後ろに下がって!」

 サフィアが素早く詠唱の準備に入り、ミリーを背後へ導く。

 茂みが揺れ、低い唸り声が漏れる。月明かりの中、獣型の魔物が姿を現した――牙を剥き、毛を逆立てた三体の魔物が、焚き火の光に赤く照らされる。

 セリナが音もなく左から駆け、レオンは正面に踏み込む。斜めに突っ込んできた一体の首筋を狙い、剣が鋭く閃いた。

 刹那、背後で閃光とともに雷の槍が走る。サフィアの魔法がもう一体の脇腹を正確に貫き、青白い稲光を伴って吹き飛ばした。
 残る一体が逃げるように林に戻ろうとしたその時――。

 セリナの短剣が闇を裂いた。乾いた音を立てて、魔物は崩れ落ちる。

 静寂が戻る。

 地面に伏した三体の魔物は、全て動かない。
 焚き火の炎がわずかにその影を揺らしながら燃えていた。

「……終わったな」

 レオンは剣を軽く振って血を払い、仲間たちの無事を確かめるように周囲を見渡す。
 サフィアが魔法の残滓を消しながら息を整えており、セリナは音もなく焚き火の傍へ戻っていた。

 そのとき、ふとレオンの目が寝袋の中のリリアに止まる。
 彼女は眠っていたはずの体勢のまま、布の下で両拳をぎゅっと握りしめていた。瞼を閉じているが、その指先はわずかに震えていた。

 きっと音で気づいていたのだろう。だが、彼女は動かなかった。動けなかったのか、動かなかったのかは分からない。

 レオンは火を見つめ、ゆっくりと腰を下ろした。それぞれの役割と、それぞれの決意が交錯する夜だった。
 そして、この先に進むにつれ――その重さは、さらに増していくのだと、彼は静かに感じていた。


 ◆◇◆◇
 そして旅は四日目を迎えていた。
 森を抜けた先、陽光を映したような泉が静かに水面を揺らしていた。その透き通る水に、少女たちの笑い声がやさしく響いていた。

 サフィアは膝まで水に浸かりながら、泉の中心で髪をすくっているミリーを見つめる。旅装の下に隠れていた細い肩が、まぶしい陽の光を浴びていた。

「……こうして水に入るの、久しぶりですね」

 ミリーがぽつりと呟く。声は小さいが、その表情は緩んでいた。
 セリナはすでに泉の縁で水をはじかせており、リリアは頬を赤くしながらも後に続いて水に浸かっていく。

「サフィアさんのスタイル、羨ましいです……」

 そう言ったリリアは、視線を逸らしながらもちらりとサフィアの身体を見た。

「ふふ、そんなことないわよ。セリナやミリーくらい胸があるほうが……女性らしいもの」

 サフィアが柔らかく微笑むと、セリナが無表情のまま下を向き一言。

「これ、邪魔なだけ」

 その即答に、リリアとミリーが同時に吹き出しかけた。

「せ、セリナさん……っ!」「わ、私……! そ、そんな……」

 ミリーは泉の中で手をばたつかせながら、顔を真っ赤に染めている。
 その様子を見て、サフィアは口元に手を添えてそっと笑った。

「でも、よかったわ。みんな、ちゃんと楽しめてるようで」

 少女たちはそれぞれのやり取りを交わしながら、水音とともにその場の空気をやさしく揺らしていった。
 森の奥、風にゆれる木々の隙間からこぼれる光が、水面にきらめきを散らしている。水しぶきとともに交わされる笑い声が、澄んだ泉に反響して消えていった。
 

 ◆◇◆◇
 その遠く離れた木陰、泉から少し離れた場所で、レオンは馬の手綱を整えていた。ふと、笑い声に耳を傾け、目を細める。

「……楽しそうだな」

 誰に語るでもなく呟いたその声には、わずかに柔らかい響きが混じっていた。

 無防備になれる時間。それがどれほど貴重かを、彼はよく知っている。だからこそ――守る、と心の中で静かに誓うのだった。


 
 西の空が、茜に染まりはじめていた。沈みかけた太陽が、草原の起伏を照らし、金色の光が街道の先へと道を伸ばしている。

 風は穏やかで、旅路の疲れをほんの少しだけ癒してくれるようだった。
 馬車の音はゆるやかに響き、車輪が乾いた土をかすめていく。

 レオンは手綱を握ったまま、馬車を引く馬の横を歩いている。
 前方に目をやると、少し先を歩くセリナの後ろ姿。揺れる銀の髪と尾、警戒を解かない姿勢。その小さな背が、妙に頼もしく見えた。

 その横では、ミリーが摘んだ草花を両手に持ち、時折笑い声を漏らしている。旅のはじめとは別人のように、表情が明るい。

「……この旅の先に何が待ってるか、俺にはまだわからないけど……」

 思わず、言葉がこぼれた。

 遠くに、次の村の影が見えはじめている。街灯も、囲いもない小さな集落。それでも今の彼らにとっては、十分な目印だった。

「でも、きっと、大丈夫ですよね」

 静かな声が隣から聞こえた。

 リリアが、いつの間にかレオンの隣に並んで歩いていた。顔を上げ、どこか自分に言い聞かせるように微笑んでいる。
 レオンも小さく笑った。

「ああ。俺たちなら――きっと、大丈夫だ」

 その言葉に、リリアは少しだけ歩幅を広げ、風に揺れるスカートを押さえながら前へ進んだ。

 空には、一番星がそっと瞬き始めている。沈む陽が道を照らすその先に、まだ見ぬ未来が待っていた。

 それでも、彼らは確かに進んでいた。迷いも不安も、そのすべてを乗せながら。

 確かな足取りで――旅は、続いていく。
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