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第9話 戦争準備と三人の女の子
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キッドは、ルルーをはじめとした紺の王国の幹部たちを王の間に招集した。
紫の王国が戦争準備に入っていることは、今日までにキッドの耳に入っており、その情報は幹部たちにも事前に伝えてある。ゆえに、緊急招集の報を受けた時点で、彼らは何が起こったのかを悟っていた。王の間に集まった者たちの顔には緊張の色が浮かんでいたが、それでも誰一人として動揺することはない。皆、すでに覚悟を決めた眼差しをしていた。
そんな戦う者の顔をした皆を見渡した後、キッドはルルー王女の許可を得て、静かに口を開く。
「紫の王国から兵が出た。国境付近で通行人を襲う一団に紺の王国が関与している、というのが彼らの大義名分のようだ。もちろん、そんなものは真っ赤な嘘だが……戦争に勝てば後から証拠はいくらでもでっち上げられる。今さらそれをどうこういっても意味はない」
不条理な開戦理由。しかし、それを非難する者はいなかった。黒の帝国が覇を唱えて以来、各地でこのような争いは幾度となく繰り返されている。もはや平和な時代は終わったのだ。
「相手の兵数はどの程度なのでしょうか?」
将校の一人が、硬い声で問いかける。
キッドは静かに頷いた。
彼の冒険者ネットワークは、冒険者による情報収集力だけでなく、魔法による光信号や、魔法で使役した鳥なども用いるため伝たち速度にも長けている。紺の王国が有している情報網よりも早く、そして正確だった。
「兵数はおよそ900。内訳は、騎兵50、重装歩兵700、魔導士150」
「魔導士150!?」
その数を聞いた瞬間、幹部たちの間にざわめきが広がった。
魔導士とは、戦場において遠距離から一方的に攻撃できる存在であり、その数が戦局を左右すると言われるほどだ。
その魔導士を、大国と呼ばれる黒の帝国や白の聖王国、青の王国あたりならともかく、小国に毛の生えた程度の紫の王国が150人も動員できるというのは、驚き以外の何ものでもない。
「それに対して、こちらが迎撃に出せるのは、歩兵450、騎兵100、魔導士50の計600といったところ。単純な兵数で相手は1.5倍。魔導士一人で兵5人分の戦力と言われているので、それを踏まえれば、戦力的には800対1500。二倍近い戦力差ということになる」
絶望に近い戦力差に、皆は言葉を失い、その顔には悲壮感が漂い始める。
だが、その中でただ三人――キッド、ルイセ、そしてルルーだけは、うつむくことなく前を向いていた。
「キッド様、勝算は?」
静寂を破ったのはルルーだった。その声音には迷いがない。彼女の瞳はまっすぐにキッドを見据えていた。
この場にいる誰もが聞きたくても、恐ろしくて口にできなかった問い。キッドは、あえて軽い口調で答えた。
「俺たちは勝つ。――そのために、俺はここに来た」
それは、まるで何を当たり前のことを聞いているのかと言わんばかりだった。
「皆さん、今の言葉を聞きましたね。我らが軍師が勝つと言ってくれました! この戦い、女神が微笑むのは私たちにです! 各自、至急出兵の準備に取りかかってください!」
大の男たちよりも、まだ少女というべきルルーの方が凛とし、よほど大きく見えた。
そして、彼女の顔には、軍師と同様に勝利への疑いが一切なかった。
王女のその姿に、その場の男たちは自らの焦りを恥じ、瞳に戦士の光を湛えて顔を上げる。
「はい!」
将校たちは、力強く王女に応えると、戦争の準備のため、意気軒高たる顔でそれぞれの場所へと散っていった。
皆が去ってから、キッドはルルー王女へと顔を向ける。
「ルルー王女、ありがとうございました。嘘でもあそこであなたが勝利を信じて疑わない姿を示してくれたおかげで、彼らもその気になってくれました」
事前に頼んでいたわけではない。不安がる将校たちを前に、彼女ならきっと、そういう態度を見せてくれるとキッドは信じていた。
「嘘でもと言われるのは心外ですよ。私は本当にキッド様なら勝利に導いてくれると信じているんですから」
微笑むルルーの瞳は真剣そのものだった。嘘偽りがないことは、その目を見ただけで伝わってくる。
「そりゃどうも……。そう言われると、ますます勝つしかないですね。……まぁ、負けるつもりはありませんが!」
キッドもとびきりの笑顔で応えると、自身も戦支度のために王の間から歩み出した。ルイセが静かにそれに続く。
その二人の背中に向けて、ルルーは静かにつぶやく。
「……頼みますよ。……さてと、私も準備しないとね」
戦に向けて、ルルーはキッドから何かを頼まれているわけではない。だが、彼女はなぜかやる気満々で自分の部屋へと向かっていった。
出兵準備は各隊の部隊長に任せておけばよい。キッドには、ほかにすべきことがあった。
王の間を出て、そのまま目的地に向かおうとした矢先、背後から静かな声がかかった。
「キッドさん、いいですか」
声の主はルイセだった。キッドは足を止め、振り返る。
「ん? 構わないが、手短に頼む」
軽い調子で応じるものの、ルイセの表情を見た途端、キッドは内心で気を引き締める。
彼女の顔には、冗談も軽口も入り込む余地がなかった。静かに、しかし揺るぎない意志を秘めた瞳が、真っすぐにキッドを見据えている。
「……戦力差は大きいです。作戦は理解していますが、苦戦は免れないでしょう」
「おいおい、一応軍師補佐なんだから、戦う前から弱気になるのはやめてほしいんだけどな」
キッドは少しおちゃらけたように肩をすくめてみせたが、ルイセは微動だにせず、ただ静かに言葉を続けた。
「……この戦いを、簡単に終わらせる方法が一つあります」
ルイセの様子から考えて、冗談を言っているようには見えなかった。キッドは静かに、彼女の次の言葉を待つ。
「相手の王が急死すれば、向こうの兵たちはすぐに引くでしょう。……キッドさん、あなたが紫の王国の王の暗殺を私に命じれば、この国の兵たちを戦わせる必要はなくなります」
その声には迷いもなければ、誇示するような響きもなかった。ただ、静かに、確信に満ちた事実を述べているだけのようだった。
キッドにはわかっていた。
彼女なら、やってのけるだろう。確実に、痕跡も残さず、完璧に。しかし、同時にキッドはもう一つの確信を抱いていた。
ルイセにその役目を命じたなら、彼女は二度と自分のもとへは戻らない。
それは理屈ではなく、ただの直感だった。それでもキッドはそう確信していた。
だからこそ、キッドの答えは決まっている。
「ルイセ、俺が君にそんな命令をすることはない。今だけじゃない。これから先も、絶対にだ」
その言葉には確固たる意志があった。キッドはさらに続ける。
「俺が仲間にしたのは、暗殺者シャドウウィンドじゃない。目の前の、ルイセという、少し斜に構えたところもあるけど、誰よりも真面目な女の子なんだから」
ルイセの顔に、今日初めて感情の色が浮かんだ。驚きと照れが混じったような、何とも言えないような感情の色が。
それは、今まで見せた彼女のどの表情よりも、人間らしく、女の子らしいものだった。
「……バカなんですか、あなたは」
彼女は小さくつぶやいた。かすれるほどの声量で。
「ん? 何か言ったか?」
「……いえ、何も」
「それより、ルイセもしっかり準備してくれよな。今度の戦いは、ルイセの働きが何より重要になってくるんだから」
「……わかっています。望むだけの働きはしてみせますよ、キッド君」
ルイセは踵を返し、迷いのない足取りで歩き出す。
「おう、頼むぞ」
見えなくなる背中に向けて、キッドは軽く手を上げる。彼女の働きに対する信頼と期待を込めて。
だが、ふと首をかしげ、眉をひそめた。
「ん? あいつ、俺のこと君付けで呼んでたっけ?」
戦場では敵の些細な戦意の変化すら敏感に察知するキッドだが、元暗殺者ルイセの心の機微には、まだ気づいてはいなかった。
ルイセと別れたキッドが向かった先は、ミュウの部屋だった。
彼女はこの国の者ではないため、先ほどの王の間には集められていない。そのため、状況を伝えるのはキッド自身の役目だった。紺の王国軍の情報とはいえ、軍師であるキッドが伝えるならば、誰も咎める者はいない。
だが、キッドがミュウの部屋に行くまでもなく、ミュウの方が彼を待ち構えていた。
軍師用執務室の前、扉に背を預け、腕を組んだままじっと佇むミュウ。その姿はどこか思索に沈んでいるようだった。
「ちょうどよかった! ミュウの部屋に行こうと思ってたんだ」
敢えて軽い調子で声をかけ、笑顔で手を上げる。しかし、ミュウは応えない。ゆっくりと視線を向けてきた彼女の表情には、笑みの欠片すらなかった。
「紫の王国が動いたのね」
キッドが伝えるまでもなく、ミュウは状況を察していた。紺の王国と紫の王国との間の緊迫した状況は、ミュウの緑の公国も掴んでいたのだろう。そこにきての、城内のこの慌ただしさだ。頭のいい彼女なら、何が起こっているのか理解するなど容易なことだった。
「ああ。兵数は600対900といったところだ」
「……私は手を貸せないよ」
ミュウの声は淡々としていたが、その瞳の奥には悔しさが滲んでいた。
「わかってるよ」
キッドの表情には、驚きも不満もない。むしろ、それを当然のこととして受け止めていた。
ミュウは緑の公国の使者であり、紺の王国の人間ではない。彼女が戦場に立てば、それは緑の公国が両国の戦争に介入したことを意味する。彼女の立場で、国の命を受けずに勝手な行動を取ることは許されない。そのことは、キッドも十分理解していた。
「騎士たちに訓練をつけてくれただけでも、ミュウには感謝している」
あの日以降も、ミュウは積極的に騎士たちへの訓練を続けていた。
もっとも、それは単なる好意からではない。彼女には、戦いが避けられないことがわかっていた。だからこそ、せめて戦力の底上げを図ろうとしていたのだ。
彼女の指導は的確だった。剣の振り方ひとつ、身体の重心の置き方、攻撃の流れを見極める勘――そのすべてが実戦的で、キッドの出る幕などないほどだった。そのおかげで、騎士たちの成長は目覚ましく、彼らはミュウに教わることを誇りに思っているほどだった。
「……することもなかったから、それはいいんだよ」
ミュウの声には、どこか不機嫌さが滲んでいた。
キッドはその理由を察している。緑の公国に連れ戻すはずだったキッドが、一人戦地に向かう上、自分はそばで守ることすらできない――そんな無力感を抱いているのだ。
そしてまた、訓練を通じて騎士たちに愛着を感じ始めていた彼女は、彼らの指揮を執れないことにも無力感を覚えていた。自分が采配を振るえば、被害を最小限に抑えられる――そんな確信めいた自信があるからこそ、余計にやるせないのだ。
「……変わってないな」
キッドは、そんな彼女の横顔を見つめ、懐かしげに微笑んだ。
ミュウは昔からそうだった。誰かを戦わせておきながら、自分は安全な場所にいるなど到底できない。戦場に立つ者としての覚悟が、その細身の身体の奥底に根付いているのだ。それをキッドは誰よりもよく知っていた。
キッドはわずかに息を吐き、次の瞬間、ある考えが閃いた。
「……そうだ!」
衝動に駆られるように、キッドはミュウの腕を掴んだ。
「ちょっと!? なに、急に!?」
驚く彼女を無視し、そのまま執務室の中へと引っ張り込む。
部屋の中央にある机には、紺の王国と紫の王国の地図が広げられていた。詳細に記された侵攻予想ルート、迎撃の布陣、補給線の流れ――すべてが緻密に計算され、書き込まれている。
「ミュウ、今から俺の戦略と、それに必要な補給について説明する。しっかり頭に叩き込んでくれ」
「え!? いきなり何を言いだすのよ!」
ミュウは困惑の色を濃くしながら、キッドを睨みつけた。
「私は紺の王国にとって部外者だよ!? そんな大事な話、私にしていいの?」
「大丈夫、城の中にいれば何をてたって、よそにはわからないから」
「それはそうかもしれないけど……」
彼女の声には戸惑いが混じる。それでもキッドは動じることなく、確信を突いた。
「ミュウにはこの城で、補給線維持の指揮をとってほしいんだ」
「――はぁ!?」
元々大きな目をさらに見開いて、ミュウが驚きの声を上げるのも当然だった。
補給線の確保は、戦争において最重要事項の一つ。それを他国の者に任せるなど、常識的に考えればあり得ない。そもそも、こんな地図を広げて作戦を教えること自体、情報漏洩になりかねない。
「俺もルイセも戦場に出る。だから、補給線が最大の懸念事項だったんだ。けど、ミュウに任せられるのなら何の心配もない!」
真剣な眼差し。冗談でも気まぐれでもないとわかるほどの、まっすぐな信頼。
ミュウは息を呑んだ。あり得ない頼み事。それはわかっている。だが、彼女の胸の奥で何かが疼いた。
尊敬する相手からの絶対的な信頼。それが、ただ嬉しくて、誇らしくて――
「どうして私が……」
言いながらも、その声には拒絶の響きはなかった。
青い瞳が地図をなぞる。地形、補給路、兵の配置――すべてを瞬時に読み解いていく。
「……城にある物資の一覧とかはないの? あと、補充可能な兵の数とかわかるものも」
「これに全部まとめてある」
キッドが差し出した書類を受け取り、ミュウは素早く目を通す。補給に使える兵の数、物資のストック、補給路が使えなくなった際の予備のルート――次々と情報が頭に流れ込み、思考が戦略へと変わっていく。
「さすがね……」
つぶやいた声には、感嘆の色が滲んでいた。
口ではなんだかんだ言いながら、彼女の中ではもう答えは決まっている。
たとえ国は違えど、ミュウは――キッドにとって、誰よりも頼れる存在だった。
紫の王国が戦争準備に入っていることは、今日までにキッドの耳に入っており、その情報は幹部たちにも事前に伝えてある。ゆえに、緊急招集の報を受けた時点で、彼らは何が起こったのかを悟っていた。王の間に集まった者たちの顔には緊張の色が浮かんでいたが、それでも誰一人として動揺することはない。皆、すでに覚悟を決めた眼差しをしていた。
そんな戦う者の顔をした皆を見渡した後、キッドはルルー王女の許可を得て、静かに口を開く。
「紫の王国から兵が出た。国境付近で通行人を襲う一団に紺の王国が関与している、というのが彼らの大義名分のようだ。もちろん、そんなものは真っ赤な嘘だが……戦争に勝てば後から証拠はいくらでもでっち上げられる。今さらそれをどうこういっても意味はない」
不条理な開戦理由。しかし、それを非難する者はいなかった。黒の帝国が覇を唱えて以来、各地でこのような争いは幾度となく繰り返されている。もはや平和な時代は終わったのだ。
「相手の兵数はどの程度なのでしょうか?」
将校の一人が、硬い声で問いかける。
キッドは静かに頷いた。
彼の冒険者ネットワークは、冒険者による情報収集力だけでなく、魔法による光信号や、魔法で使役した鳥なども用いるため伝たち速度にも長けている。紺の王国が有している情報網よりも早く、そして正確だった。
「兵数はおよそ900。内訳は、騎兵50、重装歩兵700、魔導士150」
「魔導士150!?」
その数を聞いた瞬間、幹部たちの間にざわめきが広がった。
魔導士とは、戦場において遠距離から一方的に攻撃できる存在であり、その数が戦局を左右すると言われるほどだ。
その魔導士を、大国と呼ばれる黒の帝国や白の聖王国、青の王国あたりならともかく、小国に毛の生えた程度の紫の王国が150人も動員できるというのは、驚き以外の何ものでもない。
「それに対して、こちらが迎撃に出せるのは、歩兵450、騎兵100、魔導士50の計600といったところ。単純な兵数で相手は1.5倍。魔導士一人で兵5人分の戦力と言われているので、それを踏まえれば、戦力的には800対1500。二倍近い戦力差ということになる」
絶望に近い戦力差に、皆は言葉を失い、その顔には悲壮感が漂い始める。
だが、その中でただ三人――キッド、ルイセ、そしてルルーだけは、うつむくことなく前を向いていた。
「キッド様、勝算は?」
静寂を破ったのはルルーだった。その声音には迷いがない。彼女の瞳はまっすぐにキッドを見据えていた。
この場にいる誰もが聞きたくても、恐ろしくて口にできなかった問い。キッドは、あえて軽い口調で答えた。
「俺たちは勝つ。――そのために、俺はここに来た」
それは、まるで何を当たり前のことを聞いているのかと言わんばかりだった。
「皆さん、今の言葉を聞きましたね。我らが軍師が勝つと言ってくれました! この戦い、女神が微笑むのは私たちにです! 各自、至急出兵の準備に取りかかってください!」
大の男たちよりも、まだ少女というべきルルーの方が凛とし、よほど大きく見えた。
そして、彼女の顔には、軍師と同様に勝利への疑いが一切なかった。
王女のその姿に、その場の男たちは自らの焦りを恥じ、瞳に戦士の光を湛えて顔を上げる。
「はい!」
将校たちは、力強く王女に応えると、戦争の準備のため、意気軒高たる顔でそれぞれの場所へと散っていった。
皆が去ってから、キッドはルルー王女へと顔を向ける。
「ルルー王女、ありがとうございました。嘘でもあそこであなたが勝利を信じて疑わない姿を示してくれたおかげで、彼らもその気になってくれました」
事前に頼んでいたわけではない。不安がる将校たちを前に、彼女ならきっと、そういう態度を見せてくれるとキッドは信じていた。
「嘘でもと言われるのは心外ですよ。私は本当にキッド様なら勝利に導いてくれると信じているんですから」
微笑むルルーの瞳は真剣そのものだった。嘘偽りがないことは、その目を見ただけで伝わってくる。
「そりゃどうも……。そう言われると、ますます勝つしかないですね。……まぁ、負けるつもりはありませんが!」
キッドもとびきりの笑顔で応えると、自身も戦支度のために王の間から歩み出した。ルイセが静かにそれに続く。
その二人の背中に向けて、ルルーは静かにつぶやく。
「……頼みますよ。……さてと、私も準備しないとね」
戦に向けて、ルルーはキッドから何かを頼まれているわけではない。だが、彼女はなぜかやる気満々で自分の部屋へと向かっていった。
出兵準備は各隊の部隊長に任せておけばよい。キッドには、ほかにすべきことがあった。
王の間を出て、そのまま目的地に向かおうとした矢先、背後から静かな声がかかった。
「キッドさん、いいですか」
声の主はルイセだった。キッドは足を止め、振り返る。
「ん? 構わないが、手短に頼む」
軽い調子で応じるものの、ルイセの表情を見た途端、キッドは内心で気を引き締める。
彼女の顔には、冗談も軽口も入り込む余地がなかった。静かに、しかし揺るぎない意志を秘めた瞳が、真っすぐにキッドを見据えている。
「……戦力差は大きいです。作戦は理解していますが、苦戦は免れないでしょう」
「おいおい、一応軍師補佐なんだから、戦う前から弱気になるのはやめてほしいんだけどな」
キッドは少しおちゃらけたように肩をすくめてみせたが、ルイセは微動だにせず、ただ静かに言葉を続けた。
「……この戦いを、簡単に終わらせる方法が一つあります」
ルイセの様子から考えて、冗談を言っているようには見えなかった。キッドは静かに、彼女の次の言葉を待つ。
「相手の王が急死すれば、向こうの兵たちはすぐに引くでしょう。……キッドさん、あなたが紫の王国の王の暗殺を私に命じれば、この国の兵たちを戦わせる必要はなくなります」
その声には迷いもなければ、誇示するような響きもなかった。ただ、静かに、確信に満ちた事実を述べているだけのようだった。
キッドにはわかっていた。
彼女なら、やってのけるだろう。確実に、痕跡も残さず、完璧に。しかし、同時にキッドはもう一つの確信を抱いていた。
ルイセにその役目を命じたなら、彼女は二度と自分のもとへは戻らない。
それは理屈ではなく、ただの直感だった。それでもキッドはそう確信していた。
だからこそ、キッドの答えは決まっている。
「ルイセ、俺が君にそんな命令をすることはない。今だけじゃない。これから先も、絶対にだ」
その言葉には確固たる意志があった。キッドはさらに続ける。
「俺が仲間にしたのは、暗殺者シャドウウィンドじゃない。目の前の、ルイセという、少し斜に構えたところもあるけど、誰よりも真面目な女の子なんだから」
ルイセの顔に、今日初めて感情の色が浮かんだ。驚きと照れが混じったような、何とも言えないような感情の色が。
それは、今まで見せた彼女のどの表情よりも、人間らしく、女の子らしいものだった。
「……バカなんですか、あなたは」
彼女は小さくつぶやいた。かすれるほどの声量で。
「ん? 何か言ったか?」
「……いえ、何も」
「それより、ルイセもしっかり準備してくれよな。今度の戦いは、ルイセの働きが何より重要になってくるんだから」
「……わかっています。望むだけの働きはしてみせますよ、キッド君」
ルイセは踵を返し、迷いのない足取りで歩き出す。
「おう、頼むぞ」
見えなくなる背中に向けて、キッドは軽く手を上げる。彼女の働きに対する信頼と期待を込めて。
だが、ふと首をかしげ、眉をひそめた。
「ん? あいつ、俺のこと君付けで呼んでたっけ?」
戦場では敵の些細な戦意の変化すら敏感に察知するキッドだが、元暗殺者ルイセの心の機微には、まだ気づいてはいなかった。
ルイセと別れたキッドが向かった先は、ミュウの部屋だった。
彼女はこの国の者ではないため、先ほどの王の間には集められていない。そのため、状況を伝えるのはキッド自身の役目だった。紺の王国軍の情報とはいえ、軍師であるキッドが伝えるならば、誰も咎める者はいない。
だが、キッドがミュウの部屋に行くまでもなく、ミュウの方が彼を待ち構えていた。
軍師用執務室の前、扉に背を預け、腕を組んだままじっと佇むミュウ。その姿はどこか思索に沈んでいるようだった。
「ちょうどよかった! ミュウの部屋に行こうと思ってたんだ」
敢えて軽い調子で声をかけ、笑顔で手を上げる。しかし、ミュウは応えない。ゆっくりと視線を向けてきた彼女の表情には、笑みの欠片すらなかった。
「紫の王国が動いたのね」
キッドが伝えるまでもなく、ミュウは状況を察していた。紺の王国と紫の王国との間の緊迫した状況は、ミュウの緑の公国も掴んでいたのだろう。そこにきての、城内のこの慌ただしさだ。頭のいい彼女なら、何が起こっているのか理解するなど容易なことだった。
「ああ。兵数は600対900といったところだ」
「……私は手を貸せないよ」
ミュウの声は淡々としていたが、その瞳の奥には悔しさが滲んでいた。
「わかってるよ」
キッドの表情には、驚きも不満もない。むしろ、それを当然のこととして受け止めていた。
ミュウは緑の公国の使者であり、紺の王国の人間ではない。彼女が戦場に立てば、それは緑の公国が両国の戦争に介入したことを意味する。彼女の立場で、国の命を受けずに勝手な行動を取ることは許されない。そのことは、キッドも十分理解していた。
「騎士たちに訓練をつけてくれただけでも、ミュウには感謝している」
あの日以降も、ミュウは積極的に騎士たちへの訓練を続けていた。
もっとも、それは単なる好意からではない。彼女には、戦いが避けられないことがわかっていた。だからこそ、せめて戦力の底上げを図ろうとしていたのだ。
彼女の指導は的確だった。剣の振り方ひとつ、身体の重心の置き方、攻撃の流れを見極める勘――そのすべてが実戦的で、キッドの出る幕などないほどだった。そのおかげで、騎士たちの成長は目覚ましく、彼らはミュウに教わることを誇りに思っているほどだった。
「……することもなかったから、それはいいんだよ」
ミュウの声には、どこか不機嫌さが滲んでいた。
キッドはその理由を察している。緑の公国に連れ戻すはずだったキッドが、一人戦地に向かう上、自分はそばで守ることすらできない――そんな無力感を抱いているのだ。
そしてまた、訓練を通じて騎士たちに愛着を感じ始めていた彼女は、彼らの指揮を執れないことにも無力感を覚えていた。自分が采配を振るえば、被害を最小限に抑えられる――そんな確信めいた自信があるからこそ、余計にやるせないのだ。
「……変わってないな」
キッドは、そんな彼女の横顔を見つめ、懐かしげに微笑んだ。
ミュウは昔からそうだった。誰かを戦わせておきながら、自分は安全な場所にいるなど到底できない。戦場に立つ者としての覚悟が、その細身の身体の奥底に根付いているのだ。それをキッドは誰よりもよく知っていた。
キッドはわずかに息を吐き、次の瞬間、ある考えが閃いた。
「……そうだ!」
衝動に駆られるように、キッドはミュウの腕を掴んだ。
「ちょっと!? なに、急に!?」
驚く彼女を無視し、そのまま執務室の中へと引っ張り込む。
部屋の中央にある机には、紺の王国と紫の王国の地図が広げられていた。詳細に記された侵攻予想ルート、迎撃の布陣、補給線の流れ――すべてが緻密に計算され、書き込まれている。
「ミュウ、今から俺の戦略と、それに必要な補給について説明する。しっかり頭に叩き込んでくれ」
「え!? いきなり何を言いだすのよ!」
ミュウは困惑の色を濃くしながら、キッドを睨みつけた。
「私は紺の王国にとって部外者だよ!? そんな大事な話、私にしていいの?」
「大丈夫、城の中にいれば何をてたって、よそにはわからないから」
「それはそうかもしれないけど……」
彼女の声には戸惑いが混じる。それでもキッドは動じることなく、確信を突いた。
「ミュウにはこの城で、補給線維持の指揮をとってほしいんだ」
「――はぁ!?」
元々大きな目をさらに見開いて、ミュウが驚きの声を上げるのも当然だった。
補給線の確保は、戦争において最重要事項の一つ。それを他国の者に任せるなど、常識的に考えればあり得ない。そもそも、こんな地図を広げて作戦を教えること自体、情報漏洩になりかねない。
「俺もルイセも戦場に出る。だから、補給線が最大の懸念事項だったんだ。けど、ミュウに任せられるのなら何の心配もない!」
真剣な眼差し。冗談でも気まぐれでもないとわかるほどの、まっすぐな信頼。
ミュウは息を呑んだ。あり得ない頼み事。それはわかっている。だが、彼女の胸の奥で何かが疼いた。
尊敬する相手からの絶対的な信頼。それが、ただ嬉しくて、誇らしくて――
「どうして私が……」
言いながらも、その声には拒絶の響きはなかった。
青い瞳が地図をなぞる。地形、補給路、兵の配置――すべてを瞬時に読み解いていく。
「……城にある物資の一覧とかはないの? あと、補充可能な兵の数とかわかるものも」
「これに全部まとめてある」
キッドが差し出した書類を受け取り、ミュウは素早く目を通す。補給に使える兵の数、物資のストック、補給路が使えなくなった際の予備のルート――次々と情報が頭に流れ込み、思考が戦略へと変わっていく。
「さすがね……」
つぶやいた声には、感嘆の色が滲んでいた。
口ではなんだかんだ言いながら、彼女の中ではもう答えは決まっている。
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主人公ユウキに、剣や魔法の才能はない。ステータスは、どこをどう見ても一般人以下。だが、彼には、誰にも負けない最強の力があった。それは、女神ソフィアが側にいるだけで、あらゆる奇跡が彼の味方をする『女神の祝福』という名の究極チート! 彼の原動力はただ一つ、ソフィアへの一途すぎる愛。そんな彼の真っ直ぐな想いに、最初は呆れ、戸惑っていたソフィアも、次第に心を動かされていく。完璧で、常に品行方正だった女神が、初めて見せるヤキモチ、戸惑い、そして恋する乙女の顔。二人の甘く、もどかしい関係性の変化から、目が離せない!
旅の仲間になるのは、いずれも大陸屈指の実力者、そして、揃いも揃って絶世の美女たち。しかし、彼女たちは全員、致命的な欠点を抱えていた! 方向音痴すぎて地図が読めない女剣士、肝心なところで必ず魔法が暴発する天才魔導士、女神への信仰が熱心すぎて根本的にズレているクルセイダー、優しすぎてアンデッドをパワーアップさせてしまう神官僧侶……。凄腕なのに、全員がどこかポンコツ! 彼女たちが集まれば、簡単なスライム退治も、国を揺るがす大騒動へと発展する。息つく暇もないドタバタ劇が、あなたを爆笑の渦に巻き込む!
基本は腹を抱えて笑えるコメディだが、物語は時に、世界の運命を賭けた、手に汗握るシリアスな戦いへと突入する。絶体絶命の状況の中、試されるのは仲間たちとの絆。そして、主人公が示すのは、愛する人を、仲間を守りたいという想いこそが、どんなチート能力にも勝る「最強の力」であるという、熱い魂の輝きだ。笑いと涙、その緩急が、物語をさらに深く、感動的に彩っていく。
王道の異世界転生、ハーレム、そして最高のドタバタコメディが、ここにある。最強の力は、一途な愛! 個性豊かすぎる仲間たちと共に、あなたも、最高に賑やかで、心温まる異世界を旅してみませんか? 笑って、泣けて、最後には必ず幸せな気持ちになれることを、お約束します。
異世界転生した俺は、産まれながらに最強だった。
桜花龍炎舞
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主人公ミツルはある日、不慮の事故にあい死んでしまった。
だが目がさめると見知らぬ美形の男と見知らぬ美女が目の前にいて、ミツル自身の身体も見知らぬ美形の子供に変わっていた。
そして更に、恐らく転生したであろうこの場所は剣や魔法が行き交うゲームの世界とも思える異世界だったのである。
異世界転生 × 最強 × ギャグ × 仲間。
チートすぎる俺が、神様より自由に世界をぶっ壊す!?
“真面目な展開ゼロ”の爽快異世界バカ旅、始動!
クラス全員で転移したけど俺のステータスは使役スキルが異常で出会った人全員を使役してしまいました
髙橋ルイ
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「クラス全員で転移したけど俺のステータスは使役スキルが異常で出会った人全員を使役してしまいました」
気がつけば、クラスごと異世界に転移していた――。
しかし俺のステータスは“雑魚”と判定され、クラスメイトからは置き去りにされる。
「どうせ役立たずだろ」と笑われ、迫害され、孤独になった俺。
だが……一人きりになったとき、俺は気づく。
唯一与えられた“使役スキル”が 異常すぎる力 を秘めていることに。
出会った人間も、魔物も、精霊すら――すべて俺の配下になってしまう。
雑魚と蔑まれたはずの俺は、気づけば誰よりも強大な軍勢を率いる存在へ。
これは、クラスで孤立していた少年が「異常な使役スキル」で異世界を歩む物語。
裏切ったクラスメイトを見返すのか、それとも新たな仲間とスローライフを選ぶのか――
運命を決めるのは、すべて“使役”の先にある。
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※表紙のイラストはAIによるイメージです
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