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恋愛シミュレーションモード
紫苑と真黄/大人の愉しみ
しおりを挟む都会の大通りから一本奥へ入ると、喧噪は急に遠のき、石畳の路地には落ち着いた気配が漂っていた。
重厚な木の扉の前で足を止めると、真黄は静かに取っ手に手をかける。
「ここは俺の行きつけでな。静かで、心が落ち着く場所だと思わないか?」
穏やかな声に導かれるように、紫苑は頷いた。
扉が開かれると、低い照明に包まれたシガーバーの空間が現れる。
深い琥珀色のランプが磨き上げられた木のカウンターを照らし、奥ではクラシック音楽が小さく流れていた。
まるで外界と切り離された別世界に足を踏み入れたかのようだった。
「なるほど……確かに、都会の喧騒を忘れさせてくれるね。」
紫苑は周囲をゆっくりと見回し、柔らかな笑みを浮かべる。
カウンターの向こうには老紳士のマスターが立っており、真黄を見ると穏やかに微笑み、軽く頭を下げた。
「真黄様、いらっしゃいませ。お連れ様も、どうぞごゆっくり。」
二人がカウンターに腰を下ろすと、マスターは重厚な木箱を取り出し、中から数本の葉巻を並べてみせた。
「こちらはキューバ産でございます。土壌と気候が生む独特の芳香が特徴です。特にこの『コイーバ』は、世界的にも高く評価されております。」
「コイーバか……いい香りだ。」
真黄は一本を取り、指先で確かめるようにゆっくりと眺める。
「紫苑、試してみるか?」
「ありがとう。こういうものは初めてだが……興味深いね。」
紫苑は静かに微笑んだ。
マスターは火を灯し、紫苑へと差し出す。その手つきは無駄がなく、火が葉巻の先をゆっくりと赤く染めていく。
「肺に吸い込むのではなく、口の中で香りを楽しむものです。その奥深い味わいを、ぜひ。」
紫苑がそっと煙を含むと、かすかな苦味と甘みが口いっぱいに広がり、芳醇な香りが鼻腔を抜けた。
「……なるほど。これは確かに、ただの煙草とは別物だ。」
その横顔を見つめながら、真黄は目を細める。
紫苑の唇から立ちのぼる淡い煙に、妙な艶やかさを感じていた。
ほんの一瞬、目が合う。
紫苑は気づいたのか、わずかに視線を逸らし、グラスに口をつけた。
しばらくして、マスターが提案する。
「特別な一杯をご用意いたしました。ジャコウネコのコーヒー、『コピ・ルアク』はいかがでしょう。」
「ジャコウネコ……聞いたことはあるけれど、詳しくは知らないな。」
紫苑は興味深げに問い返す。
「動物が食べた豆が消化されずに排出され、それを洗浄して焙煎する。希少で、まろやかなコクが特徴です。」
マスターは丁寧に説明し、静かにコーヒーを淹れる。湯気の向こうで、深い香りがゆるやかに広がった。
真黄がカップを差し出しながら言う。
「この香りは格別だ。紫苑、ぜひ。」
紫苑は一口含む。舌に広がるまろやかな苦みと甘い余韻に、自然と息を呑んだ。
「……ありがとう。これは……想像以上だね。」
目を細めて感動を言葉にする紫苑。
その表情に、真黄はふと微笑む。
紫苑が喜ぶ姿を見るのが、自分にとっての愉しみなのだと気づいた。
二人はグラスを傾けながら、静かに言葉を交わす。
「真黄、君はこうした贅沢な時間をどう捉えている?」
紫苑がふいに問いかけた。
「贅沢というより……心を整える時間だな。忙しい日々の中で、こういうひとときがあるから、また前に進める。」
真黄の低い声が、深夜の音楽と溶け合う。
「……なるほど。君らしい考え方だ。」
紫苑は小さく笑みを浮かべ、ゆっくりと頷いた。
その横顔を見つめる真黄の視線には、親しさを超えた熱が潜んでいる。
一瞬の沈黙。
互いの吐息が近すぎるほどに交わり、紫苑は意識的に背筋を伸ばした。
やがてバーを後にし、夜風の中を歩く。
街の明かりが遠くに霞み、静けさが二人を包んでいた。
「紫苑、またここへ来よう。君と過ごす時間は……特別だから。」
真黄は穏やかな声で告げる。
「ありがとう。次回も、楽しみにしているよ。」
紫苑は微笑みながら応じた。
けれど胸の奥では、真黄の言葉がいつまでも余韻のように響いていた。
二人の足音は、静かな夜道に溶けていった。
その姿は、都会の夜に生まれたひとつの秘密のように、どこか親密で、どこか危うさを孕んでいた。
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