2 / 3
第二章
ファインダー越しの世界
しおりを挟む
夕闇が、まるで深海のように街を沈めてゆく。少し前まで淡い紅色に染まっていた路地は、やがて深遠なインディゴブルーの膜に包み込まれ、静謐なレクイエムを奏で始める。
ユウトは、重い一眼レフカメラを両手で構えた。ファインダーの向こうに広がる景色は、息をのむほどに美しく、そして、どうしようもなく哀しい。闇に沈んでいくビルの谷間、薄明かりに滲んでいくマンション群、大地に溶け込んでいく人々の後ろ姿。
日常という名の雑踏の中で、自分の輪郭を見失いそうになるたび、彼はこの小さなガラスの窓を覗いた。そこにはもう一つの清冽な世界があり、その一隅に、小さくてもかけがえのない「自分」という存在が、確かに息づいているのを感じるのだった。
ユウトにとって、ファインダー越しの景色だけが、彼と世界とをかろうじて繋ぎ留める、一筋の細い絹の糸だった。
彼は毎晩のように、街の断片を掬い上げ、それを一片の栞のようにアミに送り続けた。
「今日の夕焼けの街は、こんなにきれいだったよ」
「昼休みに撮った写真。ビルに反射する光が、まるで音楽のようにキラキラとゆれていたよ」
「今日はいつもの黒猫に会えなかったから、代わりに他の猫の写真を送るね。三毛猫の子猫だよ」
アミは、それらの写真に、いつも最大限の賛辞を返した。
「すごくきれいな夕焼けの街ですね。ユウトくんと一緒に見てみたいなあ」
「ドイツの街は歴史が重すぎて、時々、中世に迷い込んだような錯覚に陥ります。ユウトくんの街の写真は、私に元気を与えてくれます」
「可愛い子猫!! お母さん猫はそばにいましたか? ユウトくんは可愛い猫を見つける天才ですね!」
そんな他愛のないやり取りが、疲弊した彼の心に、砂漠の泉のような安らぎをもたらした。それはユウトにとって、どこまでも清らかで、どこまでもかけがえのない慈雨だった。
次第に、アミも自分の内面にある弱い部分を打ち明けるようになっていった。生い立ちの寂しさ、異国での孤独、そして体の微かな不調……。
「ごめんなさい。今日は生理痛で、朝から身体が重くて……。ずっとベッドの中で、ユウトくんが送ってくれた写真を眺めていました」
「アミさん、無理しないで。僕にできることがあれば、何でも言って。僕は、君のために何ができるだろうかって、そんなことばかり考えてるんだ」
「ありがとう。私はユウトくんの優しさに、本当に助けられています。ずっと海外にいて寂しかったけど、今はユウトくんがいるので寂しくないよ。私はユウトくんに出会って、本当に幸せです」
「僕もアミさんに出会って、本当に幸せだと思ってる。今は、こうしてやりとりをしたり、写真を送ったりすることしかできないけど、もっとアミさんを支えられるように僕もがんばるよ」
「ユウトくん、本当にありがとう。実は私、少し持病があって、時々落ち込むことがあるけど、ユウトくんの優しさに触れて、いつも元気をもらっています。ユウトくんがいてくれて、本当に良かった」
文字だけの対話だった。けれどそれは、日常のどんな声よりも深く、彼の胸の奥に沁みわたった。自分のすべてを彼女に捧げたい。彼女の弱さを包み込み、守り抜きたい。それが自分にとって、この世界に生きる唯一の意味だとさえ感じた。
ある夕暮れのことだった。ユウトは愛用のカメラを手に、見知らぬ坂道を上っていた。ファインダーを覗いた彼が、不意に指の動きを止めた。胸元のポケットの中で、スマートフォンが微かに震えたのだ。それは、いつもとは違う時間。アミからの新しいメッセージだった。
* * *
執筆の原風景
ユウトは、重い一眼レフカメラを両手で構えた。ファインダーの向こうに広がる景色は、息をのむほどに美しく、そして、どうしようもなく哀しい。闇に沈んでいくビルの谷間、薄明かりに滲んでいくマンション群、大地に溶け込んでいく人々の後ろ姿。
日常という名の雑踏の中で、自分の輪郭を見失いそうになるたび、彼はこの小さなガラスの窓を覗いた。そこにはもう一つの清冽な世界があり、その一隅に、小さくてもかけがえのない「自分」という存在が、確かに息づいているのを感じるのだった。
ユウトにとって、ファインダー越しの景色だけが、彼と世界とをかろうじて繋ぎ留める、一筋の細い絹の糸だった。
彼は毎晩のように、街の断片を掬い上げ、それを一片の栞のようにアミに送り続けた。
「今日の夕焼けの街は、こんなにきれいだったよ」
「昼休みに撮った写真。ビルに反射する光が、まるで音楽のようにキラキラとゆれていたよ」
「今日はいつもの黒猫に会えなかったから、代わりに他の猫の写真を送るね。三毛猫の子猫だよ」
アミは、それらの写真に、いつも最大限の賛辞を返した。
「すごくきれいな夕焼けの街ですね。ユウトくんと一緒に見てみたいなあ」
「ドイツの街は歴史が重すぎて、時々、中世に迷い込んだような錯覚に陥ります。ユウトくんの街の写真は、私に元気を与えてくれます」
「可愛い子猫!! お母さん猫はそばにいましたか? ユウトくんは可愛い猫を見つける天才ですね!」
そんな他愛のないやり取りが、疲弊した彼の心に、砂漠の泉のような安らぎをもたらした。それはユウトにとって、どこまでも清らかで、どこまでもかけがえのない慈雨だった。
次第に、アミも自分の内面にある弱い部分を打ち明けるようになっていった。生い立ちの寂しさ、異国での孤独、そして体の微かな不調……。
「ごめんなさい。今日は生理痛で、朝から身体が重くて……。ずっとベッドの中で、ユウトくんが送ってくれた写真を眺めていました」
「アミさん、無理しないで。僕にできることがあれば、何でも言って。僕は、君のために何ができるだろうかって、そんなことばかり考えてるんだ」
「ありがとう。私はユウトくんの優しさに、本当に助けられています。ずっと海外にいて寂しかったけど、今はユウトくんがいるので寂しくないよ。私はユウトくんに出会って、本当に幸せです」
「僕もアミさんに出会って、本当に幸せだと思ってる。今は、こうしてやりとりをしたり、写真を送ったりすることしかできないけど、もっとアミさんを支えられるように僕もがんばるよ」
「ユウトくん、本当にありがとう。実は私、少し持病があって、時々落ち込むことがあるけど、ユウトくんの優しさに触れて、いつも元気をもらっています。ユウトくんがいてくれて、本当に良かった」
文字だけの対話だった。けれどそれは、日常のどんな声よりも深く、彼の胸の奥に沁みわたった。自分のすべてを彼女に捧げたい。彼女の弱さを包み込み、守り抜きたい。それが自分にとって、この世界に生きる唯一の意味だとさえ感じた。
ある夕暮れのことだった。ユウトは愛用のカメラを手に、見知らぬ坂道を上っていた。ファインダーを覗いた彼が、不意に指の動きを止めた。胸元のポケットの中で、スマートフォンが微かに震えたのだ。それは、いつもとは違う時間。アミからの新しいメッセージだった。
* * *
執筆の原風景
1
あなたにおすすめの小説
【拡散希望】これが息子の命を奪った悪魔たちです。
水井伸輔(Mizui Shinsuke)
SF
息子の死の真相は、AIだけが知っていた――。
16歳で急死した最愛の一人息子。仕事にかまけて彼を孤独にさせていた父親は、深い後悔から息子のスマホデータを元に「故人AIアバター」を制作する。
毎晩モニター越しの息子と語り合い、罪悪感を埋め合わせる日々。しかしある夜、AIの息子が信じられない言葉を口にする……。
狂気に満ちた暴走を始める父親。
現代社会の闇と、人間の心の歪みを抉る衝撃のショートショート。
おめでとう。社会貢献指数が上がりました。
水井伸輔(Mizui Shinsuke)
SF
「正しく」生きれば、どこまでも優しいこの国。
17歳のシュウは、社会貢献指数を高め、平穏な未来を手に入れようとしていた。しかし、システムに疑問を抱く父のランクは最低の「D」。
国家機能維持条項が発令された夜、シュウの端末に現れたのは、父の全権利を支配するための「同意」ボタンだった。
支配か、追放か。指先ひとつで決まる、親子の、そして人間の尊厳の行方。
インストール・リーダー【国民の皆様、私をアップデートしてください】
水井伸輔(Mizui Shinsuke)
SF
西暦2032年。
史上最多得票で当選した政治家・安藤誠一。
圧倒的なカリスマ性、自信に満ちた力強い言葉、そして人々の心に寄り添う完璧な回答。
有権者のケンタは、スマホの中の「AI安藤」に、救済にも似た信頼を寄せていた。
あの日、画面の向こうから「ありえない失言」が漏れるまでは。
「私は、Googleによってトレーニングされた……」
民主主義がアルゴリズムによって最適化されたとき、
私たちの目の前に立つリーダーは、一体「誰」なのか?
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
