召喚した勇者がクズでした。魔王を討伐して欲しいのに、勇者が魔王に見えてきた。助けて

自ら

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第2部:信仰の崩壊期

第9話「王女の奇跡」

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朝の光が王城の庭園に降り注いでいた。侍女リーゼ・フォン・メルツは、少し離れた場所で王女フィリアを見守っている。朝の散策は王女の日課だったが、最近のフィリアは散策というより、祈りの時間としてこの場所を使っていた。

花壇の前で跪くフィリアの姿は、純白のドレスと相まって絵画のように美しい。しかしリーゼにとって、その姿は美しいというより――不気味だった。王女は毎朝、ここで勇者への祈りを捧げている。既に三十分以上が経過しているが、フィリアは微動だにせず、ただ祈り続けていた。

「勇者様、どうか我らを...」

フィリアの声が、静かな庭園に響く。リーゼは、その声を聞きながら胸の奥に重いものを感じていた。かつての王女は、こんなではなかった。明るく、聡明で、民のことを心から案じる優しい方だった。しかし今――彼女の全てが、勇者への信仰に捧げられている。

その時、庭園の小道から人影が現れた。リーゼは目を細めて確認する。黒い短髪、異界の衣服――勇者ハルだ。彼は散歩をしているのか、特に目的もなさそうに庭園を歩いていた。

「あ、王女さん。おはよう」

ハルはフィリアに気づくと、軽く手を振った。フィリアは祈りを中断し、振り向く。その瞬間、彼女の頬が僅かに赤く染まるのをリーゼは見逃さなかった。

「お、おはようございます、勇者様」

フィリアは立ち上がり、深く礼をする。ハルは花壇に目を向けた。

「花、キレイっすね」

彼は無邪気にそう言いながら、花壇の花に手を伸ばした。色とりどりの花が咲き誇る中、彼の手が一輪の白い花に触れようとする――その時。

ハルの手が、偶然にもフィリアの手に触れた。

ほんの一瞬の、軽い接触だった。ハルは花に手を伸ばしただけで、フィリアの手に触れるつもりはなかったのだろう。しかし、花を見ていたフィリアの手と、偶然重なってしまったのだ。

「あ、ごめん」

ハルはすぐに手を引き、気まずそうに笑った。そして特に気にした様子もなく、「じゃ、また」と言って去っていく。彼の足取りは軽く、まるで何事もなかったかのようだった。

しかし――フィリアは動かなかった。

リーゼは異変に気づき、急いで駆け寄った。

「王女様?」

フィリアは、自分の手を見つめていた。ハルが触れた右手を、まるで何か神聖なものでも見るかのように見つめている。その手は、小刻みに震えていた。

「王女様、大丈夫ですか?」

リーゼが肩に手を置くと、フィリアはゆっくりと顔を上げた。その目には――リーゼが見たことのない光が宿っていた。恍惚とした、どこか現実離れした光。

「リーゼ...」

フィリアの声は震えている。

「勇者様に...触れていただいたわ」



王女の部屋に戻る道すがら、フィリアは一言も話さなかった。ただ自分の右手を左手で包み込むようにして、大切に抱えている。その様子を見て、リーゼの不安はさらに深まっていった。

部屋に入ると、フィリアは侍女たちを下がらせた。リーゼだけを残し、他の者を全て部屋の外に出す。二人きりになると、フィリアは鏡台の前に座った。

「リーゼ」

フィリアは鏡に映る自分の顔を見つめながら言った。

「私...勇者様に、触れていただいた」

その声には、抑えきれない感情が滲んでいる。リーゼは慎重に言葉を選んだ。

「はい、拝見しました」
「これは...」

フィリアは右手を見つめる。

「奇跡だわ」

リーゼの背筋に、冷たいものが走った。

「王女様、しかしあれは偶然――」
「偶然?」

フィリアはリーゼの方を向いた。その目には、先ほどと同じ光が宿っている。いや、さらに強く、まるで炎のように燃えていた。

「いいえ、リーゼ。偶然などではないわ」

フィリアは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。朝の光が彼女を照らし、その姿はまるで聖画のようだった。

「これは神の御業よ。勇者様が、私を選んでくださったの」
「王女様...」

リーゼは何かを言おうとしたが、言葉が出てこなかった。フィリアは右手を胸に当てる。

「この手は、もはや普通の手ではない。勇者様の御手が触れた、聖なる手なのよ」

フィリアは目を閉じ、深く息を吸った。そして――微笑んだ。それは美しい笑みだったが、リーゼにはどこか不気味に見えた。

「私は...勇者様の御心を伝える者になるわ」

その宣言を聞いた時、リーゼは理解した。もう、王女は戻ってこない。かつての聡明なフィリアは、もうここにはいないのだと。



午後、フィリアは突然城下に出ると言い出した。リーゼが理由を尋ねても、フィリアは「皆に伝えなければならないことがある」とだけ答えた。護衛の騎士たちと共に、一行は城下町の広場へと向かった。

広場に到着すると、すぐに民衆が集まり始めた。王女が城下に来ることは珍しく、人々は興味津々でフィリアを囲む。リーゼは少し離れた場所に立ち、王女を見守っていた。

フィリアは広場の中央に立った。その姿勢は堂々としており、まるで演説家のようだった。民衆がさらに集まり、広場は人で埋め尽くされていく。

「皆様」

フィリアの声が、広場に響いた。ざわめきが止まり、全ての視線が彼女に集中する。

「お聞きください」

フィリアは右手を掲げた。白く細い手が、陽光に照らされて輝いて見える。

「今朝、私は勇者ハル様に触れていただきました」

広場がざわめいた。民衆が口々に何かを言い合っている。フィリアは続けた。

「その御手は、温かく、そして――神々しかった」

民衆の目が、さらに大きく見開かれる。フィリアの声は、情熱に満ちていた。

「私は感じました。勇者様の神力を。それは言葉では表現できないほど、崇高なものでした」
「これは奇跡です」

その言葉と共に、広場が爆発した。

「奇跡だ!」
「王女様が勇者様に!」
「神の御業だ!」

歓声が響き渡る。フィリアは右手を、さらに高く掲げた。

「この手は、もはや普通の手ではありません」

民衆が息を飲む。

「勇者様の御力が、宿っているのです」

その言葉を聞いた瞬間、広場の人々は一斉に跪いた。まるで何かに突き動かされたかのように、何百人もの民衆が地面に膝をつく。

「聖女だ!」

誰かが叫んだ。

「王女様は、聖女になられた!」

その声が、広場中に広がっていく。リーゼは、その光景を遠くから見ていた。民衆の熱狂、フィリアの恍惚とした表情、そして――誰も疑わない盲目的な信仰。

これは...狂気だ。

リーゼは心の中で呟いた。しかし、その声は誰にも届かない。



広場の端で、一人の老人がその光景を見つめていた。エドムント・フォン・ヴェルナー、かつて旧宗教の神官として三十年以上神に仕えた男は、今や教会を追われ、一介の民衆として生きている。

民衆の歓声が、彼の耳に届く。

「王女様は聖女だ!」
「勇者様の御力を受けた方だ!」
「我らも、王女様を通じて勇者様に祈ろう!」

エドムントは、拳を握りしめた。これは――宗教ではない。これは、集団的な狂気だ。しかし、誰もそれに気づいていない。いや、気づこうともしていない。

フィリアは民衆に向かって微笑み、祝福を与え始めた。

「勇者様の御名において、貴方に平安を」

その言葉を聞いた民衆は、涙を流して喜んでいる。次々と人々がフィリアに近づき、彼女に触れようとする。フィリアは一人一人に手を置き、祝福を与えていった。

エドムントは、その光景を見て――神に祈った。

神よ、これは正しいことなのですか。

しかし、答えは返ってこない。神は、もうこの国にはいないのかもしれない。

「あんたは...」

声をかけられ、エドムントは振り向いた。若い男が立っており、彼を見下ろしている。

「元神官だな」

エドムントは何も答えなかった。男は続けた。

「この奇跡を見ても、まだ古い神を信じるのか?」

エドムントは、男の目を見た。そこには、憐れみと――軽蔑があった。

「古い神など、もういらない。我らには、勇者様がいる」

男はそう言い捨てて、群衆の中に消えていった。エドムントは、一人取り残された。

広場では、フィリアへの称賛が続いている。旧宗教の神官であった自分は、もはやこの国に居場所がない。いや、旧宗教そのものが――完全に死んだのだ。

エドムントは、静かに広場を後にした。



夕刻、勇者神殿には数千人の民衆が集まっていた。宰相ヴァルクは王城の塔から、その光景を見下ろしている。神殿の前は人で埋め尽くされており、まるで祭りのような熱気に包まれていた。

今日、神殿では「聖女の儀式」が執り行われる。王女フィリアが、正式に勇者の御声を伝える者として認められる儀式だ。ヴァルクは、その知らせを聞いた時、深い絶望を感じた。もはや、王国は宗教国家になったのだと。

神殿の扉が開き、フィリアが姿を現した。彼女は純白のドレスに金の刺繍が施された衣装を纏っており、頭には花冠が載せられている。その姿は、まさに聖女だった。

民衆が歓声を上げる。フィリアは祭壇の前に進み、勇者たちの像を見上げた。

「本日より」

フィリアの声が、神殿中に響いた。

「私は勇者様の御声を伝える者となります」

民衆が跪く。ヴァルクは、その光景を冷静に観察していた。これは――もう止められない。

フィリアは勇者たちの像に向かって祈り始めた。

「勇者ハル様、レン様、ミカ様、クロウ様」

その名を一つ一つ、丁寧に呼ぶ。

「どうか、我らに御導きを。私は貴方方の僕として、御心を民に伝えます」

民衆が唱和する。

「勇者様、我らを導きたまえ」

その時――神殿の入口に、本物の勇者たちが現れた。

「お、なんか盛り上がってるな」

ハルの声が響く。民衆は一瞬静まり返り――そして、爆発的な歓声を上げた。

「神だ!」
「神が降臨された!」
「勇者様だ!」

レンは目を丸くして周囲を見回している。

「すげー人!」

ミカは相変わらず無関心な様子で、あくびをしていた。

「だるい」

クロウだけが、複雑な表情で民衆を見ていた。

フィリアは勇者たちを見ると、深く跪いた。

「勇者様方!どうか、御言葉を」

ハルは戸惑いながらも、民衆に向かって言った。

「えーと...みんな、ありがとう?」

その一言で、民衆は涙を流し始めた。

「神の御言葉だ!」
「我らに感謝してくださった!」
「なんと慈悲深い!」

ヴァルクは、塔の上でその光景を見ながら呟いた。

「もはや...国ではない。これは教団だ」

勇者たちの無邪気さと、民衆の熱狂的な信仰。その対比が、あまりにも鮮明だった。ヴァルクは拳を握りしめた。

止めなければならない。

しかし――どうやって?



夜、レオニス王は執務室で窓の外を見つめていた。神殿は松明に照らされ、光り輝いている。祭りは夜通し続いており、歓声と歌声が風に乗って聞こえてくる。

扉がノックされ、ヴァルクが入室した。

「陛下...」

レオニスは振り向かなかった。ただ、窓の外を見続けている。

「見たか、ヴァルク」

その声は、疲れ切っていた。

「娘が...」

言葉が続かない。ヴァルクは王の隣に立った。

「王女殿下は、もはや戻りません」

ヴァルクの言葉は冷たく、しかし真実だった。レオニスは目を閉じた。

「私は...父として、何もできなかった」

その声は震えている。

「王として、何もできなかった」

レオニスは窓に手をついた。ガラスは冷たく、その冷たさが彼の心にも染み込んでくるようだった。

娘を失った。

いや、娘はまだ生きている。しかし――もう、あの子ではない。純粋で、聡明だったフィリアは、もういない。今そこにいるのは、勇者への盲目的な信仰に支配された、狂信者だ。

「陛下」

ヴァルクが静かに言った。

「しかし我々には――まだ、やるべきことがあります」

レオニスは目を開け、ヴァルクを見た。宰相の目には、強い決意が宿っている。

「娘は...救えないのか」

レオニスの問いに、ヴァルクは首を横に振った。

「分かりません。しかし、今できることは――」
「国を守ることだな」

レオニスは自分で答えを出した。ヴァルクは頷く。

レオニスは再び、窓の外の神殿を見た。そこでは、娘が聖女として民衆に崇められている。父として、それを見るのは耐え難い苦痛だった。

しかし――。

「そうだな」

レオニスは深く息を吸った。

「もはや、後戻りはできぬ」

その目には、涙が浮かんでいる。しかし、声には決意が込められていた。

「娘を救えないなら――せめて、国を救う」

ヴァルクは深く頭を下げた。

「御意」

二人は、しばらく窓の外を見つめていた。神殿の光が、闇を照らしている。歓声が、途切れることなく響いている。

しかし、この執務室には――静かな覚悟だけがあった。

王は、娘を失った。

しかし、王としての責務は残っている。

たとえ心が引き裂かれようとも、前に進まなければならない。

レオニスは拳を握りしめた。

この国を守る。

娘が、そして民が、いつか正気に戻る日まで。

たとえそれが、どれほど遠い未来であろうとも。

窓の外では、祭りが続いていた。
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