9 / 19
第2部:信仰の崩壊期
第9話「王女の奇跡」
しおりを挟む
朝の光が王城の庭園に降り注いでいた。侍女リーゼ・フォン・メルツは、少し離れた場所で王女フィリアを見守っている。朝の散策は王女の日課だったが、最近のフィリアは散策というより、祈りの時間としてこの場所を使っていた。
花壇の前で跪くフィリアの姿は、純白のドレスと相まって絵画のように美しい。しかしリーゼにとって、その姿は美しいというより――不気味だった。王女は毎朝、ここで勇者への祈りを捧げている。既に三十分以上が経過しているが、フィリアは微動だにせず、ただ祈り続けていた。
「勇者様、どうか我らを...」
フィリアの声が、静かな庭園に響く。リーゼは、その声を聞きながら胸の奥に重いものを感じていた。かつての王女は、こんなではなかった。明るく、聡明で、民のことを心から案じる優しい方だった。しかし今――彼女の全てが、勇者への信仰に捧げられている。
その時、庭園の小道から人影が現れた。リーゼは目を細めて確認する。黒い短髪、異界の衣服――勇者ハルだ。彼は散歩をしているのか、特に目的もなさそうに庭園を歩いていた。
「あ、王女さん。おはよう」
ハルはフィリアに気づくと、軽く手を振った。フィリアは祈りを中断し、振り向く。その瞬間、彼女の頬が僅かに赤く染まるのをリーゼは見逃さなかった。
「お、おはようございます、勇者様」
フィリアは立ち上がり、深く礼をする。ハルは花壇に目を向けた。
「花、キレイっすね」
彼は無邪気にそう言いながら、花壇の花に手を伸ばした。色とりどりの花が咲き誇る中、彼の手が一輪の白い花に触れようとする――その時。
ハルの手が、偶然にもフィリアの手に触れた。
ほんの一瞬の、軽い接触だった。ハルは花に手を伸ばしただけで、フィリアの手に触れるつもりはなかったのだろう。しかし、花を見ていたフィリアの手と、偶然重なってしまったのだ。
「あ、ごめん」
ハルはすぐに手を引き、気まずそうに笑った。そして特に気にした様子もなく、「じゃ、また」と言って去っていく。彼の足取りは軽く、まるで何事もなかったかのようだった。
しかし――フィリアは動かなかった。
リーゼは異変に気づき、急いで駆け寄った。
「王女様?」
フィリアは、自分の手を見つめていた。ハルが触れた右手を、まるで何か神聖なものでも見るかのように見つめている。その手は、小刻みに震えていた。
「王女様、大丈夫ですか?」
リーゼが肩に手を置くと、フィリアはゆっくりと顔を上げた。その目には――リーゼが見たことのない光が宿っていた。恍惚とした、どこか現実離れした光。
「リーゼ...」
フィリアの声は震えている。
「勇者様に...触れていただいたわ」
王女の部屋に戻る道すがら、フィリアは一言も話さなかった。ただ自分の右手を左手で包み込むようにして、大切に抱えている。その様子を見て、リーゼの不安はさらに深まっていった。
部屋に入ると、フィリアは侍女たちを下がらせた。リーゼだけを残し、他の者を全て部屋の外に出す。二人きりになると、フィリアは鏡台の前に座った。
「リーゼ」
フィリアは鏡に映る自分の顔を見つめながら言った。
「私...勇者様に、触れていただいた」
その声には、抑えきれない感情が滲んでいる。リーゼは慎重に言葉を選んだ。
「はい、拝見しました」
「これは...」
フィリアは右手を見つめる。
「奇跡だわ」
リーゼの背筋に、冷たいものが走った。
「王女様、しかしあれは偶然――」
「偶然?」
フィリアはリーゼの方を向いた。その目には、先ほどと同じ光が宿っている。いや、さらに強く、まるで炎のように燃えていた。
「いいえ、リーゼ。偶然などではないわ」
フィリアは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。朝の光が彼女を照らし、その姿はまるで聖画のようだった。
「これは神の御業よ。勇者様が、私を選んでくださったの」
「王女様...」
リーゼは何かを言おうとしたが、言葉が出てこなかった。フィリアは右手を胸に当てる。
「この手は、もはや普通の手ではない。勇者様の御手が触れた、聖なる手なのよ」
フィリアは目を閉じ、深く息を吸った。そして――微笑んだ。それは美しい笑みだったが、リーゼにはどこか不気味に見えた。
「私は...勇者様の御心を伝える者になるわ」
その宣言を聞いた時、リーゼは理解した。もう、王女は戻ってこない。かつての聡明なフィリアは、もうここにはいないのだと。
午後、フィリアは突然城下に出ると言い出した。リーゼが理由を尋ねても、フィリアは「皆に伝えなければならないことがある」とだけ答えた。護衛の騎士たちと共に、一行は城下町の広場へと向かった。
広場に到着すると、すぐに民衆が集まり始めた。王女が城下に来ることは珍しく、人々は興味津々でフィリアを囲む。リーゼは少し離れた場所に立ち、王女を見守っていた。
フィリアは広場の中央に立った。その姿勢は堂々としており、まるで演説家のようだった。民衆がさらに集まり、広場は人で埋め尽くされていく。
「皆様」
フィリアの声が、広場に響いた。ざわめきが止まり、全ての視線が彼女に集中する。
「お聞きください」
フィリアは右手を掲げた。白く細い手が、陽光に照らされて輝いて見える。
「今朝、私は勇者ハル様に触れていただきました」
広場がざわめいた。民衆が口々に何かを言い合っている。フィリアは続けた。
「その御手は、温かく、そして――神々しかった」
民衆の目が、さらに大きく見開かれる。フィリアの声は、情熱に満ちていた。
「私は感じました。勇者様の神力を。それは言葉では表現できないほど、崇高なものでした」
「これは奇跡です」
その言葉と共に、広場が爆発した。
「奇跡だ!」
「王女様が勇者様に!」
「神の御業だ!」
歓声が響き渡る。フィリアは右手を、さらに高く掲げた。
「この手は、もはや普通の手ではありません」
民衆が息を飲む。
「勇者様の御力が、宿っているのです」
その言葉を聞いた瞬間、広場の人々は一斉に跪いた。まるで何かに突き動かされたかのように、何百人もの民衆が地面に膝をつく。
「聖女だ!」
誰かが叫んだ。
「王女様は、聖女になられた!」
その声が、広場中に広がっていく。リーゼは、その光景を遠くから見ていた。民衆の熱狂、フィリアの恍惚とした表情、そして――誰も疑わない盲目的な信仰。
これは...狂気だ。
リーゼは心の中で呟いた。しかし、その声は誰にも届かない。
広場の端で、一人の老人がその光景を見つめていた。エドムント・フォン・ヴェルナー、かつて旧宗教の神官として三十年以上神に仕えた男は、今や教会を追われ、一介の民衆として生きている。
民衆の歓声が、彼の耳に届く。
「王女様は聖女だ!」
「勇者様の御力を受けた方だ!」
「我らも、王女様を通じて勇者様に祈ろう!」
エドムントは、拳を握りしめた。これは――宗教ではない。これは、集団的な狂気だ。しかし、誰もそれに気づいていない。いや、気づこうともしていない。
フィリアは民衆に向かって微笑み、祝福を与え始めた。
「勇者様の御名において、貴方に平安を」
その言葉を聞いた民衆は、涙を流して喜んでいる。次々と人々がフィリアに近づき、彼女に触れようとする。フィリアは一人一人に手を置き、祝福を与えていった。
エドムントは、その光景を見て――神に祈った。
神よ、これは正しいことなのですか。
しかし、答えは返ってこない。神は、もうこの国にはいないのかもしれない。
「あんたは...」
声をかけられ、エドムントは振り向いた。若い男が立っており、彼を見下ろしている。
「元神官だな」
エドムントは何も答えなかった。男は続けた。
「この奇跡を見ても、まだ古い神を信じるのか?」
エドムントは、男の目を見た。そこには、憐れみと――軽蔑があった。
「古い神など、もういらない。我らには、勇者様がいる」
男はそう言い捨てて、群衆の中に消えていった。エドムントは、一人取り残された。
広場では、フィリアへの称賛が続いている。旧宗教の神官であった自分は、もはやこの国に居場所がない。いや、旧宗教そのものが――完全に死んだのだ。
エドムントは、静かに広場を後にした。
夕刻、勇者神殿には数千人の民衆が集まっていた。宰相ヴァルクは王城の塔から、その光景を見下ろしている。神殿の前は人で埋め尽くされており、まるで祭りのような熱気に包まれていた。
今日、神殿では「聖女の儀式」が執り行われる。王女フィリアが、正式に勇者の御声を伝える者として認められる儀式だ。ヴァルクは、その知らせを聞いた時、深い絶望を感じた。もはや、王国は宗教国家になったのだと。
神殿の扉が開き、フィリアが姿を現した。彼女は純白のドレスに金の刺繍が施された衣装を纏っており、頭には花冠が載せられている。その姿は、まさに聖女だった。
民衆が歓声を上げる。フィリアは祭壇の前に進み、勇者たちの像を見上げた。
「本日より」
フィリアの声が、神殿中に響いた。
「私は勇者様の御声を伝える者となります」
民衆が跪く。ヴァルクは、その光景を冷静に観察していた。これは――もう止められない。
フィリアは勇者たちの像に向かって祈り始めた。
「勇者ハル様、レン様、ミカ様、クロウ様」
その名を一つ一つ、丁寧に呼ぶ。
「どうか、我らに御導きを。私は貴方方の僕として、御心を民に伝えます」
民衆が唱和する。
「勇者様、我らを導きたまえ」
その時――神殿の入口に、本物の勇者たちが現れた。
「お、なんか盛り上がってるな」
ハルの声が響く。民衆は一瞬静まり返り――そして、爆発的な歓声を上げた。
「神だ!」
「神が降臨された!」
「勇者様だ!」
レンは目を丸くして周囲を見回している。
「すげー人!」
ミカは相変わらず無関心な様子で、あくびをしていた。
「だるい」
クロウだけが、複雑な表情で民衆を見ていた。
フィリアは勇者たちを見ると、深く跪いた。
「勇者様方!どうか、御言葉を」
ハルは戸惑いながらも、民衆に向かって言った。
「えーと...みんな、ありがとう?」
その一言で、民衆は涙を流し始めた。
「神の御言葉だ!」
「我らに感謝してくださった!」
「なんと慈悲深い!」
ヴァルクは、塔の上でその光景を見ながら呟いた。
「もはや...国ではない。これは教団だ」
勇者たちの無邪気さと、民衆の熱狂的な信仰。その対比が、あまりにも鮮明だった。ヴァルクは拳を握りしめた。
止めなければならない。
しかし――どうやって?
夜、レオニス王は執務室で窓の外を見つめていた。神殿は松明に照らされ、光り輝いている。祭りは夜通し続いており、歓声と歌声が風に乗って聞こえてくる。
扉がノックされ、ヴァルクが入室した。
「陛下...」
レオニスは振り向かなかった。ただ、窓の外を見続けている。
「見たか、ヴァルク」
その声は、疲れ切っていた。
「娘が...」
言葉が続かない。ヴァルクは王の隣に立った。
「王女殿下は、もはや戻りません」
ヴァルクの言葉は冷たく、しかし真実だった。レオニスは目を閉じた。
「私は...父として、何もできなかった」
その声は震えている。
「王として、何もできなかった」
レオニスは窓に手をついた。ガラスは冷たく、その冷たさが彼の心にも染み込んでくるようだった。
娘を失った。
いや、娘はまだ生きている。しかし――もう、あの子ではない。純粋で、聡明だったフィリアは、もういない。今そこにいるのは、勇者への盲目的な信仰に支配された、狂信者だ。
「陛下」
ヴァルクが静かに言った。
「しかし我々には――まだ、やるべきことがあります」
レオニスは目を開け、ヴァルクを見た。宰相の目には、強い決意が宿っている。
「娘は...救えないのか」
レオニスの問いに、ヴァルクは首を横に振った。
「分かりません。しかし、今できることは――」
「国を守ることだな」
レオニスは自分で答えを出した。ヴァルクは頷く。
レオニスは再び、窓の外の神殿を見た。そこでは、娘が聖女として民衆に崇められている。父として、それを見るのは耐え難い苦痛だった。
しかし――。
「そうだな」
レオニスは深く息を吸った。
「もはや、後戻りはできぬ」
その目には、涙が浮かんでいる。しかし、声には決意が込められていた。
「娘を救えないなら――せめて、国を救う」
ヴァルクは深く頭を下げた。
「御意」
二人は、しばらく窓の外を見つめていた。神殿の光が、闇を照らしている。歓声が、途切れることなく響いている。
しかし、この執務室には――静かな覚悟だけがあった。
王は、娘を失った。
しかし、王としての責務は残っている。
たとえ心が引き裂かれようとも、前に進まなければならない。
レオニスは拳を握りしめた。
この国を守る。
娘が、そして民が、いつか正気に戻る日まで。
たとえそれが、どれほど遠い未来であろうとも。
窓の外では、祭りが続いていた。
花壇の前で跪くフィリアの姿は、純白のドレスと相まって絵画のように美しい。しかしリーゼにとって、その姿は美しいというより――不気味だった。王女は毎朝、ここで勇者への祈りを捧げている。既に三十分以上が経過しているが、フィリアは微動だにせず、ただ祈り続けていた。
「勇者様、どうか我らを...」
フィリアの声が、静かな庭園に響く。リーゼは、その声を聞きながら胸の奥に重いものを感じていた。かつての王女は、こんなではなかった。明るく、聡明で、民のことを心から案じる優しい方だった。しかし今――彼女の全てが、勇者への信仰に捧げられている。
その時、庭園の小道から人影が現れた。リーゼは目を細めて確認する。黒い短髪、異界の衣服――勇者ハルだ。彼は散歩をしているのか、特に目的もなさそうに庭園を歩いていた。
「あ、王女さん。おはよう」
ハルはフィリアに気づくと、軽く手を振った。フィリアは祈りを中断し、振り向く。その瞬間、彼女の頬が僅かに赤く染まるのをリーゼは見逃さなかった。
「お、おはようございます、勇者様」
フィリアは立ち上がり、深く礼をする。ハルは花壇に目を向けた。
「花、キレイっすね」
彼は無邪気にそう言いながら、花壇の花に手を伸ばした。色とりどりの花が咲き誇る中、彼の手が一輪の白い花に触れようとする――その時。
ハルの手が、偶然にもフィリアの手に触れた。
ほんの一瞬の、軽い接触だった。ハルは花に手を伸ばしただけで、フィリアの手に触れるつもりはなかったのだろう。しかし、花を見ていたフィリアの手と、偶然重なってしまったのだ。
「あ、ごめん」
ハルはすぐに手を引き、気まずそうに笑った。そして特に気にした様子もなく、「じゃ、また」と言って去っていく。彼の足取りは軽く、まるで何事もなかったかのようだった。
しかし――フィリアは動かなかった。
リーゼは異変に気づき、急いで駆け寄った。
「王女様?」
フィリアは、自分の手を見つめていた。ハルが触れた右手を、まるで何か神聖なものでも見るかのように見つめている。その手は、小刻みに震えていた。
「王女様、大丈夫ですか?」
リーゼが肩に手を置くと、フィリアはゆっくりと顔を上げた。その目には――リーゼが見たことのない光が宿っていた。恍惚とした、どこか現実離れした光。
「リーゼ...」
フィリアの声は震えている。
「勇者様に...触れていただいたわ」
王女の部屋に戻る道すがら、フィリアは一言も話さなかった。ただ自分の右手を左手で包み込むようにして、大切に抱えている。その様子を見て、リーゼの不安はさらに深まっていった。
部屋に入ると、フィリアは侍女たちを下がらせた。リーゼだけを残し、他の者を全て部屋の外に出す。二人きりになると、フィリアは鏡台の前に座った。
「リーゼ」
フィリアは鏡に映る自分の顔を見つめながら言った。
「私...勇者様に、触れていただいた」
その声には、抑えきれない感情が滲んでいる。リーゼは慎重に言葉を選んだ。
「はい、拝見しました」
「これは...」
フィリアは右手を見つめる。
「奇跡だわ」
リーゼの背筋に、冷たいものが走った。
「王女様、しかしあれは偶然――」
「偶然?」
フィリアはリーゼの方を向いた。その目には、先ほどと同じ光が宿っている。いや、さらに強く、まるで炎のように燃えていた。
「いいえ、リーゼ。偶然などではないわ」
フィリアは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。朝の光が彼女を照らし、その姿はまるで聖画のようだった。
「これは神の御業よ。勇者様が、私を選んでくださったの」
「王女様...」
リーゼは何かを言おうとしたが、言葉が出てこなかった。フィリアは右手を胸に当てる。
「この手は、もはや普通の手ではない。勇者様の御手が触れた、聖なる手なのよ」
フィリアは目を閉じ、深く息を吸った。そして――微笑んだ。それは美しい笑みだったが、リーゼにはどこか不気味に見えた。
「私は...勇者様の御心を伝える者になるわ」
その宣言を聞いた時、リーゼは理解した。もう、王女は戻ってこない。かつての聡明なフィリアは、もうここにはいないのだと。
午後、フィリアは突然城下に出ると言い出した。リーゼが理由を尋ねても、フィリアは「皆に伝えなければならないことがある」とだけ答えた。護衛の騎士たちと共に、一行は城下町の広場へと向かった。
広場に到着すると、すぐに民衆が集まり始めた。王女が城下に来ることは珍しく、人々は興味津々でフィリアを囲む。リーゼは少し離れた場所に立ち、王女を見守っていた。
フィリアは広場の中央に立った。その姿勢は堂々としており、まるで演説家のようだった。民衆がさらに集まり、広場は人で埋め尽くされていく。
「皆様」
フィリアの声が、広場に響いた。ざわめきが止まり、全ての視線が彼女に集中する。
「お聞きください」
フィリアは右手を掲げた。白く細い手が、陽光に照らされて輝いて見える。
「今朝、私は勇者ハル様に触れていただきました」
広場がざわめいた。民衆が口々に何かを言い合っている。フィリアは続けた。
「その御手は、温かく、そして――神々しかった」
民衆の目が、さらに大きく見開かれる。フィリアの声は、情熱に満ちていた。
「私は感じました。勇者様の神力を。それは言葉では表現できないほど、崇高なものでした」
「これは奇跡です」
その言葉と共に、広場が爆発した。
「奇跡だ!」
「王女様が勇者様に!」
「神の御業だ!」
歓声が響き渡る。フィリアは右手を、さらに高く掲げた。
「この手は、もはや普通の手ではありません」
民衆が息を飲む。
「勇者様の御力が、宿っているのです」
その言葉を聞いた瞬間、広場の人々は一斉に跪いた。まるで何かに突き動かされたかのように、何百人もの民衆が地面に膝をつく。
「聖女だ!」
誰かが叫んだ。
「王女様は、聖女になられた!」
その声が、広場中に広がっていく。リーゼは、その光景を遠くから見ていた。民衆の熱狂、フィリアの恍惚とした表情、そして――誰も疑わない盲目的な信仰。
これは...狂気だ。
リーゼは心の中で呟いた。しかし、その声は誰にも届かない。
広場の端で、一人の老人がその光景を見つめていた。エドムント・フォン・ヴェルナー、かつて旧宗教の神官として三十年以上神に仕えた男は、今や教会を追われ、一介の民衆として生きている。
民衆の歓声が、彼の耳に届く。
「王女様は聖女だ!」
「勇者様の御力を受けた方だ!」
「我らも、王女様を通じて勇者様に祈ろう!」
エドムントは、拳を握りしめた。これは――宗教ではない。これは、集団的な狂気だ。しかし、誰もそれに気づいていない。いや、気づこうともしていない。
フィリアは民衆に向かって微笑み、祝福を与え始めた。
「勇者様の御名において、貴方に平安を」
その言葉を聞いた民衆は、涙を流して喜んでいる。次々と人々がフィリアに近づき、彼女に触れようとする。フィリアは一人一人に手を置き、祝福を与えていった。
エドムントは、その光景を見て――神に祈った。
神よ、これは正しいことなのですか。
しかし、答えは返ってこない。神は、もうこの国にはいないのかもしれない。
「あんたは...」
声をかけられ、エドムントは振り向いた。若い男が立っており、彼を見下ろしている。
「元神官だな」
エドムントは何も答えなかった。男は続けた。
「この奇跡を見ても、まだ古い神を信じるのか?」
エドムントは、男の目を見た。そこには、憐れみと――軽蔑があった。
「古い神など、もういらない。我らには、勇者様がいる」
男はそう言い捨てて、群衆の中に消えていった。エドムントは、一人取り残された。
広場では、フィリアへの称賛が続いている。旧宗教の神官であった自分は、もはやこの国に居場所がない。いや、旧宗教そのものが――完全に死んだのだ。
エドムントは、静かに広場を後にした。
夕刻、勇者神殿には数千人の民衆が集まっていた。宰相ヴァルクは王城の塔から、その光景を見下ろしている。神殿の前は人で埋め尽くされており、まるで祭りのような熱気に包まれていた。
今日、神殿では「聖女の儀式」が執り行われる。王女フィリアが、正式に勇者の御声を伝える者として認められる儀式だ。ヴァルクは、その知らせを聞いた時、深い絶望を感じた。もはや、王国は宗教国家になったのだと。
神殿の扉が開き、フィリアが姿を現した。彼女は純白のドレスに金の刺繍が施された衣装を纏っており、頭には花冠が載せられている。その姿は、まさに聖女だった。
民衆が歓声を上げる。フィリアは祭壇の前に進み、勇者たちの像を見上げた。
「本日より」
フィリアの声が、神殿中に響いた。
「私は勇者様の御声を伝える者となります」
民衆が跪く。ヴァルクは、その光景を冷静に観察していた。これは――もう止められない。
フィリアは勇者たちの像に向かって祈り始めた。
「勇者ハル様、レン様、ミカ様、クロウ様」
その名を一つ一つ、丁寧に呼ぶ。
「どうか、我らに御導きを。私は貴方方の僕として、御心を民に伝えます」
民衆が唱和する。
「勇者様、我らを導きたまえ」
その時――神殿の入口に、本物の勇者たちが現れた。
「お、なんか盛り上がってるな」
ハルの声が響く。民衆は一瞬静まり返り――そして、爆発的な歓声を上げた。
「神だ!」
「神が降臨された!」
「勇者様だ!」
レンは目を丸くして周囲を見回している。
「すげー人!」
ミカは相変わらず無関心な様子で、あくびをしていた。
「だるい」
クロウだけが、複雑な表情で民衆を見ていた。
フィリアは勇者たちを見ると、深く跪いた。
「勇者様方!どうか、御言葉を」
ハルは戸惑いながらも、民衆に向かって言った。
「えーと...みんな、ありがとう?」
その一言で、民衆は涙を流し始めた。
「神の御言葉だ!」
「我らに感謝してくださった!」
「なんと慈悲深い!」
ヴァルクは、塔の上でその光景を見ながら呟いた。
「もはや...国ではない。これは教団だ」
勇者たちの無邪気さと、民衆の熱狂的な信仰。その対比が、あまりにも鮮明だった。ヴァルクは拳を握りしめた。
止めなければならない。
しかし――どうやって?
夜、レオニス王は執務室で窓の外を見つめていた。神殿は松明に照らされ、光り輝いている。祭りは夜通し続いており、歓声と歌声が風に乗って聞こえてくる。
扉がノックされ、ヴァルクが入室した。
「陛下...」
レオニスは振り向かなかった。ただ、窓の外を見続けている。
「見たか、ヴァルク」
その声は、疲れ切っていた。
「娘が...」
言葉が続かない。ヴァルクは王の隣に立った。
「王女殿下は、もはや戻りません」
ヴァルクの言葉は冷たく、しかし真実だった。レオニスは目を閉じた。
「私は...父として、何もできなかった」
その声は震えている。
「王として、何もできなかった」
レオニスは窓に手をついた。ガラスは冷たく、その冷たさが彼の心にも染み込んでくるようだった。
娘を失った。
いや、娘はまだ生きている。しかし――もう、あの子ではない。純粋で、聡明だったフィリアは、もういない。今そこにいるのは、勇者への盲目的な信仰に支配された、狂信者だ。
「陛下」
ヴァルクが静かに言った。
「しかし我々には――まだ、やるべきことがあります」
レオニスは目を開け、ヴァルクを見た。宰相の目には、強い決意が宿っている。
「娘は...救えないのか」
レオニスの問いに、ヴァルクは首を横に振った。
「分かりません。しかし、今できることは――」
「国を守ることだな」
レオニスは自分で答えを出した。ヴァルクは頷く。
レオニスは再び、窓の外の神殿を見た。そこでは、娘が聖女として民衆に崇められている。父として、それを見るのは耐え難い苦痛だった。
しかし――。
「そうだな」
レオニスは深く息を吸った。
「もはや、後戻りはできぬ」
その目には、涙が浮かんでいる。しかし、声には決意が込められていた。
「娘を救えないなら――せめて、国を救う」
ヴァルクは深く頭を下げた。
「御意」
二人は、しばらく窓の外を見つめていた。神殿の光が、闇を照らしている。歓声が、途切れることなく響いている。
しかし、この執務室には――静かな覚悟だけがあった。
王は、娘を失った。
しかし、王としての責務は残っている。
たとえ心が引き裂かれようとも、前に進まなければならない。
レオニスは拳を握りしめた。
この国を守る。
娘が、そして民が、いつか正気に戻る日まで。
たとえそれが、どれほど遠い未来であろうとも。
窓の外では、祭りが続いていた。
10
あなたにおすすめの小説
僕の秘密を知った自称勇者が聖剣を寄越せと言ってきたので渡してみた
黒木メイ
ファンタジー
世界に一人しかいないと言われている『勇者』。
その『勇者』は今、ワグナー王国にいるらしい。
曖昧なのには理由があった。
『勇者』だと思わしき少年、レンが頑なに「僕は勇者じゃない」と言っているからだ。
どんなに周りが勇者だと持て囃してもレンは認めようとしない。
※小説家になろうにも随時転載中。
レンはただ、ある目的のついでに人々を助けただけだと言う。
それでも皆はレンが勇者だと思っていた。
突如日本という国から彼らが転移してくるまでは。
はたして、レンは本当に勇者ではないのか……。
ざまぁあり・友情あり・謎ありな作品です。
※小説家になろう、カクヨム、ネオページにも掲載。
倒した魔物が消えるのは、僕だけのスキルらしいです
桐山じゃろ
ファンタジー
日常のなんでもないタイミングで右眼の色だけ変わってしまうという特異体質のディールは、魔物に止めを刺すだけで魔物の死骸を消してしまえる能力を持っていた。世間では魔物を消せるのは聖女の魔滅魔法のみ。聖女に疎まれてパーティを追い出され、今度は魔滅魔法の使えない聖女とパーティを組むことに。瞳の力は魔物を消すだけではないことを知る頃には、ディールは世界の命運に巻き込まれていた。
収納魔法を極めた魔術師ですが、勇者パーティを追放されました。ところで俺の追放理由って “どれ” ですか?
木塚麻弥
ファンタジー
収納魔法を活かして勇者パーティーの荷物持ちをしていたケイトはある日、パーティーを追放されてしまった。
追放される理由はよく分からなかった。
彼はパーティーを追放されても文句の言えない理由を無数に抱えていたからだ。
結局どれが本当の追放理由なのかはよく分からなかったが、勇者から追放すると強く言われたのでケイトはそれに従う。
しかし彼は、追放されてもなお仲間たちのことが好きだった。
たった四人で強大な魔王軍に立ち向かおうとするかつての仲間たち。
ケイトは彼らを失いたくなかった。
勇者たちとまた一緒に食事がしたかった。
しばらくひとりで悩んでいたケイトは気づいてしまう。
「追放されたってことは、俺の行動を制限する奴もいないってことだよな?」
これは収納魔法しか使えない魔術師が、仲間のために陰で奮闘する物語。
追放された俺の木工スキルが実は最強だった件 ~森で拾ったエルフ姉妹のために、今日も快適な家具を作ります~
☆ほしい
ファンタジー
ブラック企業で過労死した俺は、異世界の伯爵家の三男・ルークとして生を受けた。
しかし、五歳で授かったスキルは「創造(木工)」。戦闘にも魔法にも役立たない外れスキルだと蔑まれ、俺はあっさりと家を追い出されてしまう。
前世でDIYが趣味だった俺にとっては、むしろ願ってもない展開だ。
貴族のしがらみから解放され、自由な職人ライフを送ろうと決意した矢先、大森林の中で衰弱しきった幼いエルフの姉妹を発見し、保護することに。
言葉もおぼつかない二人、リリアとルナのために、俺はスキルを駆使して一夜で快適なログハウスを建て、温かいベッドと楽しいおもちゃを作り与える。
これは、不遇スキルとされた木工技術で最強の職人になった俺が、可愛すぎる義理の娘たちとのんびり暮らす、ほのぼの異世界ライフ。
勇者召喚に巻き込まれ、異世界転移・貰えたスキルも鑑定だけ・・・・だけど、何かあるはず!
よっしぃ
ファンタジー
9月11日、12日、ファンタジー部門2位達成中です!
僕はもうすぐ25歳になる常山 順平 24歳。
つねやま じゅんぺいと読む。
何処にでもいる普通のサラリーマン。
仕事帰りの電車で、吊革に捕まりうつらうつらしていると・・・・
突然気分が悪くなり、倒れそうになる。
周りを見ると、周りの人々もどんどん倒れている。明らかな異常事態。
何が起こったか分からないまま、気を失う。
気が付けば電車ではなく、どこかの建物。
周りにも人が倒れている。
僕と同じようなリーマンから、数人の女子高生や男子学生、仕事帰りの若い女性や、定年近いおっさんとか。
気が付けば誰かがしゃべってる。
どうやらよくある勇者召喚とやらが行われ、たまたま僕は異世界転移に巻き込まれたようだ。
そして・・・・帰るには、魔王を倒してもらう必要がある・・・・と。
想定外の人数がやって来たらしく、渡すギフト・・・・スキルらしいけど、それも数が限られていて、勇者として召喚した人以外、つまり巻き込まれて転移したその他大勢は、1人1つのギフト?スキルを。あとは支度金と装備一式を渡されるらしい。
どうしても無理な人は、戻ってきたら面倒を見ると。
一方的だが、日本に戻るには、勇者が魔王を倒すしかなく、それを待つのもよし、自ら勇者に協力するもよし・・・・
ですが、ここで問題が。
スキルやギフトにはそれぞれランク、格、強さがバラバラで・・・・
より良いスキルは早い者勝ち。
我も我もと群がる人々。
そんな中突き飛ばされて倒れる1人の女性が。
僕はその女性を助け・・・同じように突き飛ばされ、またもや気を失う。
気が付けば2人だけになっていて・・・・
スキルも2つしか残っていない。
一つは鑑定。
もう一つは家事全般。
両方とも微妙だ・・・・
彼女の名は才村 友郁
さいむら ゆか。 23歳。
今年社会人になりたて。
取り残された2人が、すったもんだで生き残り、最終的には成り上がるお話。
異世界に召喚されて2日目です。クズは要らないと追放され、激レアユニークスキルで危機回避したはずが、トラブル続きで泣きそうです。
もにゃむ
ファンタジー
父親に教師になる人生を強要され、父親が死ぬまで自分の望む人生を歩むことはできないと、人生を諦め淡々とした日々を送る清泉だったが、夏休みの補習中、突然4人の生徒と共に光に包まれ異世界に召喚されてしまう。
異世界召喚という非現実的な状況に、教師1年目の清泉が状況把握に努めていると、ステータスを確認したい召喚者と1人の生徒の間にトラブル発生。
ステータスではなく職業だけを鑑定することで落ち着くも、清泉と女子生徒の1人は職業がクズだから要らないと、王都追放を言い渡されてしまう。
残留組の2人の生徒にはクズな職業だと蔑みの目を向けられ、
同時に追放を言い渡された女子生徒は問題行動が多すぎて退学させるための監視対象で、
追加で追放を言い渡された男子生徒は言動に違和感ありまくりで、
清泉は1人で自由に生きるために、問題児たちからさっさと離れたいと思うのだが……
狼になっちゃった!
家具屋ふふみに
ファンタジー
登山中に足を滑らせて滑落した私。気が付けば何処かの洞窟に倒れていた。……しかも狼の姿となって。うん、なんで?
色々と試していたらなんか魔法みたいな力も使えたし、此処ってもしや異世界!?
……なら、なんで私の目の前を通る人間の手にはスマホがあるんでしょう?
これはなんやかんやあって狼になってしまった私が、気まぐれに人間を助けたりして勝手にワッショイされるお話である。
七億円当たったので異世界買ってみた!
コンビニ
ファンタジー
三十四歳、独身、家電量販店勤務の平凡な俺。
ある日、スポーツくじで7億円を当てた──と思ったら、突如現れた“自称・神様”に言われた。
「異世界を買ってみないか?」
そんなわけで購入した異世界は、荒れ果てて疫病まみれ、赤字経営まっしぐら。
でも天使の助けを借りて、街づくり・人材スカウト・ダンジョン建設に挑む日々が始まった。
一方、現実世界でもスローライフと東北の田舎に引っ越してみたが、近所の小学生に絡まれたり、ドタバタに巻き込まれていく。
異世界と現実を往復しながら、癒やされて、ときどき婚活。
チートはないけど、地に足つけたスローライフ(たまに労働)を始めます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる