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時価マイナス1000万
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2人は顔を見合わせた。一瞬の沈黙。
「それじゃ!」
「ああっ!!」
先に動いたのはノヴァだった。慌てて手を伸ばすがあっという間にドアの外に消えていってしまう。直ぐに「お待たせしましたあ」という甘い声が聞こえてきたのであの美しい男も居るのだろう。
アオイはオロオロと辺りを見回したが隠れるような場所もない。そうこうしている間に男が入ってきた。
「こんばんは、アオイ」
瞬き1回、アオイはあっという間に不安気な表情を消し去ると、代わりに人好きのする笑みを浮かべた。
「こんばんは。――シリウス様?」
男は不思議そうに瞬きを繰り返すと、すぐに「ああ」と頷いた。
「残念、それは私の名前ではありません」
悪戯っぽく目を細める男に、アオイの胸が高鳴る。
(やった、良かった! 覚えていてくれた!)
アオイは安心したように微笑んだ。
「覚えていてくれたんですね」
「アオイのことなら忘れませんよ」
男は目尻を下げた。この顔で機転も利くうえにリップサービスも忘れないって一周まわって怖くなるな、とアオイは思った。男がここまで来るのに目も眩むような大金を払っていなければ詐欺を疑うところだ。もしかして、今からでも疑うべき?
「……どうぞおかけになって下さい、ベテルギウス様」
「どうもありがとう。そして残念、ハズレ」
「じゃあ五右衛門? お隣、失礼しますね」
「ゴエモン? 不思議な響きですね」
「あはは、でしょう? お酒、お注ぎします」
ボトルを持ち上げると、昨夜と同じように男が空のグラスを傾ける。琥珀色の酒を注ぎながら、アオイは、何度も繰り返される初夜って滑稽だなあ、と思っていた。男はこのままごとのような作法をどう思っているんだろう。
上目遣いで男を見ると、彼はふっとアオイから視線を外し、どこか遠くを見るような掴みどころのない表情を浮かべた。男の視線が迷うように揺れたのを見つけて、アオイは男が話し始めるのをじっと待った。
「……サロンでアオイを探しているとき、これで結構本気で焦っていたんです」
「......え?」
「もし、私以外の男に買われていたらと思ったら気が気じゃなくて」
男はアオイを見た。口元には微笑さえ浮かんでいなかったが、瞳の奥は確かに燃えている。
アオイはここでようやく確信を持つことができた。いいぞ、これは結構好かれてるやつ。ラッキー、と心の中で呟く。
男の視線は、アイドルとして生活していた頃によく向けられたそれだった。アオイしか見えないと言わんばかりの、熱心なファンのそれ。アオイが一番好きなものだ。
アオイはにこりと男に笑顔を向けた。
「実は僕も、貴方を待っていたんです」
貴方より都合のいい客は見つかりそうになかったし。
少々下品な本音は笑顔の下に隠し、アオイは頬を染め瞳を潤ませた。男が息を呑む気配がした。
「旦那様が僕の初めてのお客様で良かった」
アオイは、かつてステージ上で「愛してるよ!」と叫んだことを思い出した。万人に等しく向けられる愛の言葉は水素より軽い。でも、そのときのアオイは2階席後方、米粒のような彼ら彼女まで本気で愛していたのだ。
この一瞬が本物であればそれでいい。
アオイはずっとそう思って生きてきた。世界が変わっても変わらない。
男は目を細め、アオイの言葉に応えるように頷いた。
「私も、アオイと出会えて良かった」
男の言葉も、きっと嘘じゃない。あの時の歓声だって嘘じゃなかった。早ければ朝起きて歯を磨いたあたりで忘れさられてしまうだけで。それでいいと思っていた。
この一瞬が本物であればそれでいい。
アオイの考えは変わらない。しかし、アオイは「嬉しいです」と頬を染めながらどこか心が冷えていくのを感じていた。
男が怪訝そうにアオイの顔を見た。
「アオイ?」
「はい、旦那様。どうかなさいましたか?」
とはいえ考えても仕方ないことは考えないに限る。さっさと気持ちを切り替えたアオイは「見せたいものがあるんです」と微笑んだ。男の瞳がキラリと光る。
「ね、旦那様。旦那様は、魔法は使えますか?」
「……ええ、多少は」
唐突に変わった話題に男はぱちくりと目を瞬かせた。どこか警戒するようにぎこちなく頷く男に、これは多少どころかかなり使えるやつだと察する。
アオイは「残念ですが」とやや芝居がかった仕草で胸に手を当て眉を下げた。
「僕は魔法、使えないんです」
「使える人間の方が珍しいですから、落ち込むこともありませんよ」
「……慰めてくれるんですか?」
アオイは驚いたようにぱちくりと目を瞬かせた。男は何か?というように微かに首を傾げている。アオイは困ったように視線をさ迷わせると、呟くような小さな声で言った。
「旦那様は……その、優しい人ですね」
「……そうでもありませんよ。でも、そう感じるなら、それはきっとアオイだからです」
「そ、れは……ありがとうございます、嬉しいです。あ、いや、そうじゃなくて! 魔法は使えないけど、旦那様の心の中を覗けるし、物を消したり出現させたりできたら――それって、すごいと思いませんか?」
「……どういうことですか?」
男は怪訝そうに眉をひそめた。アオイは得意気に笑うと、テーブルの上に敷かれたクロスの端を持って男に見せるように広げて見せた。
「魔法の代わりに、タネと仕掛けを使います」
「タネと仕掛け?」
「その前に、僕、魔法のことは全然分からなくて……。人の心を覗いたり、物を消したり出現させたりする魔法はありますか?」
「ううん……。物を消したり出現させたりする魔法は、あることにはあります。術者はその場に留まる限定的な転移魔法のことですよね?」
「限定的な転移魔法?」
「興味がありますか? 私でいいなら教えましょうか」
「いいんですかっ?!」
アオイは目を輝かせて身を乗り出した。男の瞳が驚いたように見開かれる。慌てて座り直した。
「それじゃ!」
「ああっ!!」
先に動いたのはノヴァだった。慌てて手を伸ばすがあっという間にドアの外に消えていってしまう。直ぐに「お待たせしましたあ」という甘い声が聞こえてきたのであの美しい男も居るのだろう。
アオイはオロオロと辺りを見回したが隠れるような場所もない。そうこうしている間に男が入ってきた。
「こんばんは、アオイ」
瞬き1回、アオイはあっという間に不安気な表情を消し去ると、代わりに人好きのする笑みを浮かべた。
「こんばんは。――シリウス様?」
男は不思議そうに瞬きを繰り返すと、すぐに「ああ」と頷いた。
「残念、それは私の名前ではありません」
悪戯っぽく目を細める男に、アオイの胸が高鳴る。
(やった、良かった! 覚えていてくれた!)
アオイは安心したように微笑んだ。
「覚えていてくれたんですね」
「アオイのことなら忘れませんよ」
男は目尻を下げた。この顔で機転も利くうえにリップサービスも忘れないって一周まわって怖くなるな、とアオイは思った。男がここまで来るのに目も眩むような大金を払っていなければ詐欺を疑うところだ。もしかして、今からでも疑うべき?
「……どうぞおかけになって下さい、ベテルギウス様」
「どうもありがとう。そして残念、ハズレ」
「じゃあ五右衛門? お隣、失礼しますね」
「ゴエモン? 不思議な響きですね」
「あはは、でしょう? お酒、お注ぎします」
ボトルを持ち上げると、昨夜と同じように男が空のグラスを傾ける。琥珀色の酒を注ぎながら、アオイは、何度も繰り返される初夜って滑稽だなあ、と思っていた。男はこのままごとのような作法をどう思っているんだろう。
上目遣いで男を見ると、彼はふっとアオイから視線を外し、どこか遠くを見るような掴みどころのない表情を浮かべた。男の視線が迷うように揺れたのを見つけて、アオイは男が話し始めるのをじっと待った。
「……サロンでアオイを探しているとき、これで結構本気で焦っていたんです」
「......え?」
「もし、私以外の男に買われていたらと思ったら気が気じゃなくて」
男はアオイを見た。口元には微笑さえ浮かんでいなかったが、瞳の奥は確かに燃えている。
アオイはここでようやく確信を持つことができた。いいぞ、これは結構好かれてるやつ。ラッキー、と心の中で呟く。
男の視線は、アイドルとして生活していた頃によく向けられたそれだった。アオイしか見えないと言わんばかりの、熱心なファンのそれ。アオイが一番好きなものだ。
アオイはにこりと男に笑顔を向けた。
「実は僕も、貴方を待っていたんです」
貴方より都合のいい客は見つかりそうになかったし。
少々下品な本音は笑顔の下に隠し、アオイは頬を染め瞳を潤ませた。男が息を呑む気配がした。
「旦那様が僕の初めてのお客様で良かった」
アオイは、かつてステージ上で「愛してるよ!」と叫んだことを思い出した。万人に等しく向けられる愛の言葉は水素より軽い。でも、そのときのアオイは2階席後方、米粒のような彼ら彼女まで本気で愛していたのだ。
この一瞬が本物であればそれでいい。
アオイはずっとそう思って生きてきた。世界が変わっても変わらない。
男は目を細め、アオイの言葉に応えるように頷いた。
「私も、アオイと出会えて良かった」
男の言葉も、きっと嘘じゃない。あの時の歓声だって嘘じゃなかった。早ければ朝起きて歯を磨いたあたりで忘れさられてしまうだけで。それでいいと思っていた。
この一瞬が本物であればそれでいい。
アオイの考えは変わらない。しかし、アオイは「嬉しいです」と頬を染めながらどこか心が冷えていくのを感じていた。
男が怪訝そうにアオイの顔を見た。
「アオイ?」
「はい、旦那様。どうかなさいましたか?」
とはいえ考えても仕方ないことは考えないに限る。さっさと気持ちを切り替えたアオイは「見せたいものがあるんです」と微笑んだ。男の瞳がキラリと光る。
「ね、旦那様。旦那様は、魔法は使えますか?」
「……ええ、多少は」
唐突に変わった話題に男はぱちくりと目を瞬かせた。どこか警戒するようにぎこちなく頷く男に、これは多少どころかかなり使えるやつだと察する。
アオイは「残念ですが」とやや芝居がかった仕草で胸に手を当て眉を下げた。
「僕は魔法、使えないんです」
「使える人間の方が珍しいですから、落ち込むこともありませんよ」
「……慰めてくれるんですか?」
アオイは驚いたようにぱちくりと目を瞬かせた。男は何か?というように微かに首を傾げている。アオイは困ったように視線をさ迷わせると、呟くような小さな声で言った。
「旦那様は……その、優しい人ですね」
「……そうでもありませんよ。でも、そう感じるなら、それはきっとアオイだからです」
「そ、れは……ありがとうございます、嬉しいです。あ、いや、そうじゃなくて! 魔法は使えないけど、旦那様の心の中を覗けるし、物を消したり出現させたりできたら――それって、すごいと思いませんか?」
「……どういうことですか?」
男は怪訝そうに眉をひそめた。アオイは得意気に笑うと、テーブルの上に敷かれたクロスの端を持って男に見せるように広げて見せた。
「魔法の代わりに、タネと仕掛けを使います」
「タネと仕掛け?」
「その前に、僕、魔法のことは全然分からなくて……。人の心を覗いたり、物を消したり出現させたりする魔法はありますか?」
「ううん……。物を消したり出現させたりする魔法は、あることにはあります。術者はその場に留まる限定的な転移魔法のことですよね?」
「限定的な転移魔法?」
「興味がありますか? 私でいいなら教えましょうか」
「いいんですかっ?!」
アオイは目を輝かせて身を乗り出した。男の瞳が驚いたように見開かれる。慌てて座り直した。
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