糸と蜘蛛

犬若丸

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4章 闇底で交わす小指

カンダタ、生前 崩れる 8

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 理解が追いつかないまま、一先ず柵から離れようとするも少年が俺以上の膂力で阻止する。
 小さな子供に腕力で負けている。こちらは全身の筋力を使っているのに少年は片腕だけだ。
 ありえない状況に冷や汗が流れ、身体が緊張する。
 子供とは思えない形相をしていた。両眼が光り、八重歯を剥き出して、涎を垂らす。腕には黒い蝶の模様があった。
 人ではない。座敷牢にいるそれは猛獣そのものだ。
 猛獣から逃れようと掴んだのは燃える蝋燭であり、手を焼く熱さえ関係なく、握り締めると少年の方へと投げた。
 蝋燭の火は目蓋の上にあたり、俺を捕らえていた腕が緩む。少年の腕を振り払い、座敷牢から離れる。
 鼻から顎にまで垂れていた血を袖で拭う。それでも鼻血は絶え間なく流れてくる。
 手が痺れている。素手で蝋燭を掴んだせいだ。
 座敷牢の少年は暗闇の中に隠れた。しかし、興奮した猛獣の唸り声は煩く聞こえる。
 俺は暗闇に背を向け、逃げるようにして小屋を出た。
 引き戸に南京錠かけると安堵が押し寄せ、脚の力が抜ける。戸に背中を預け、その場で座り込む。
 見上げれば細い月が俺を嘲笑っていた。
 吹いた風が汗を冷やす。そうすると興奮していた頭が冴えられていく。
 あの少年はなんだったのか。
 思い浮かんだのは阿片や大麻といった類のものだ。昔、あれを吸った同輩が錯乱状態に陥ったのを目の当たりにしたことがある。あの少年もそれに近い状態ではないだろうか。
 これ以上考えても答えは見つかりそうにない。
 俺は溜め息をつき、細い月と星を眺めていた。夜空に黒い影がひらりひらりと舞う。黒い蝶が飛んでいた。
 虫が目覚めるには時期が早い。
 模様もない漆黒の蝶は悠々と夜空を飛んでいる。
 「星と月を人は美しいと言うのだろう?僕にはその感覚がわからないが」
 知らない男の声がした。そいつは友に話しかける態度で自然と俺の隣に立つ。
 話しかけられるまで全く気付かなかった。気配がなかった。
 男は指先で黒い蝶と戯れながら、視線をこちらに向ける。
 「君も美しいと思っているのかい?」
 こちらに笑みを向けられ、背筋が凍った。
 咄嗟に腰を引かせ、逃げる態勢になったのは蝶と戯れ、笑いかける男に悪寒があったからだ。畏怖を察知した本能的な行動に近い。
 そうした行動を予想していたのか、男は眉一つ動かさず俺の首根を捉えると戸に叩きつける。
 俺は奴に首を掴まれ、持ち上げられた。足が地につかず、呼吸が苦しい。
 「お、まえ、影弥?」
 見覚えのある顔に名前を零す。
 すぐに影弥ではないと確信する。顔は瓜二つだが、全くの別人だ。纏っている雰囲気が違う。
 この男には冷気がある。口角を上げ、目を細めているのに笑顔だと思えない。表情も仕草も作り物のようだ。首を絞めてくる手の冷たさが腹の底にまで伝わってくる。
 「影弥を知っているのか。会ったのかい?」
 首を絞める手がより一層強くなり、僅かな空気でさえ肺に届かない。これが単なる質問ではなく、尋問なのだと告げていた。
 「首を絞められても頷けるだろう。返答次第で君の対応が変わる」
 俺は首を縦にも横にも振らなかった。正直に答えたとしても開放はしてくれそうにない。
 沈黙を決めていたので男は絞めていた手を放す。
 予想外の行動だった。身体は地に落ち、崩れるようにして倒れた。絞められていた喉が咽せる。四つ這いになって男を睨む。
 「なに、も、のだ?」
 荒げる呼吸の合間に疑問を口にした。
 「そうだな。僕のことは蝶男と呼んでくれ」
 睨む俺とは対照に蝶男と名乗るそいつは余裕がある。
 「ついでに答えると紅柘榴の所有者だ。小屋にいたあれもね」
 その言い方が俺に火をつけた。冷やされていた怒りの火が再び灯る。
 感情の変化を蝶男は目敏く見逃さなかった。
 「彼女の身体を見たかい?いい肉付きをしているだろう。私が育てたんだ」
 一気に熱が上がった。冷静さを失い、蝶男を殴ろうと立ち上がる。
 拳を作り、蝶男の頬を狙う。相手は避けようもしなかったので当たるはずだった。
 俺の拳が届く前に蝶男の身体が無数の蝶となって霧散した。
 一瞬、それが目の錯覚なのではと疑った。しかし、俺の前にいた蝶男は姿を消し、黒蝶の群れが残る。
 唖然とした。すると後頭部に蝶男の手が添えられた。姿を消した奴は突然にして、俺の背後に現れた。
 添えられた手に力が篭り、頭を地面に落とされる。再び地面に倒れた。今度はうつ伏せだ。
 蝶男は片脚を俺の背中に乗せ体重をかける。そして髪を鷲掴みすると俺の頭だけを上げ、間髪入れずに地面に叩き、また上げる。額から一筋の血が流れ、口内は土と鉄の味で充満する。
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