糸と蜘蛛

犬若丸

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5章 恋焦がれ巡る地獄旅行

逃走の果て 4

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 あざとい笑顔を残して清音は顔を背ける。彼女の視線の先には鏡がある。
 赤眼の子があたしを睨んでいる。
 少年の短い髪は整えられず、はね放題で頬や腹にある青あざがやけに目立つ。そして、少年の肌にも黒い蝶が飛んでいた。
 輪郭は幼さがあって丸みがあるけれど、目や鼻などのパーツは父親譲りね。
 清音は赤眼の子の肩に腕を乗せ、その手は首に回される。彼女の爪は少年の柔らかな肌に引っかかり、静かにゆっくりと肉に食い込ませ、赤い線を引く。
 食い込ませた赤い線は痛々しいのに赤眼の子は人形のように表情がない。感情を語っているのは瞳だけで、それは痛みや悲しみではなく、赤黒に渦巻く怒りしかなかった。
「逃げれないよね?」
 清音の声がダンスホールの静寂に響く。あたしの目線は赤眼の子から清音へと移る。
 黒蝶が揺らめく頬は口角を化け物みたいに釣り上がらせて目を細め、笑い声を上げる。
「僕は知ってるよ。君は優しい子だって。だからこの子を見捨てられない」
 話す声も口調も清音のものじゃなかった。蝶男のものだった。
 急な変化に動揺し、狼狽する。蝶男の声色で話す清音は不気味で、あたしは肩を強ばらせた。
 怯んだその一瞬を蝶男は待っていた。赤眼の子から手を離す。
 襲ってくると危機感が働き、強張った身体は逃避を選択しようとしていた。
 それができなかったのは、清音の姿をした蝶男が目の前に迫っていたから。
 蝶男は一瞬であたしに詰め寄り、スカートのポケットから香水瓶が取り出されるとあたしの顔に甘ったるく臭い霧を吹きかけた。
 甘い霧が喉に引っかかり、咳き込む。2、3回の咳で済むはずなのに止む気配はなく、1回咳き込むたびに呼吸は荒く、咳が激しくなる。
 これはヤバいやつ。
 喉に熱を感じながらどこが冷静になっている自分がいる。
 激しくなる咳に加え、ハンマーで殴られているような頭痛。そして、咳と一緒に吐き出された血。これは黒蝶による拒絶反応だ。
 清音の甲高い声が遠くに聞こえる。目の前にいるはずなのに。
 突如、腹部に衝撃が走った。清音が甲高い嘲笑の声を上げながらあたしを殴ったのだと倒れてから気付く。
 唾液を吐いて蹲るあたしをハクが守るようにして覆い被さった。見下ろす清音に牙を剥き出す。
「あはは、私が弱いままだと思った?」
 声・口調は清音に戻っていた。
「いつか見返してやるってずっと思ってたんだよ」
 悦に浸り、鈴の音で笑う彼女はこれまでの屈辱を晴らす清々しさがあった。
「痛がって悔しがって悶える姿をずっと見たかったの」
 声・仕草は清音のもの。けれど、口から出る台詞は本人とは思えない残虐性があった。
 こいつはさっきまで蝶男の声で話していたのに清音のものに変わっている。なのに、清音の性格と合っていない。
「あんた、誰?」
 声を出せば蹴られた腹部に痛みが響いた。
「私は清音だよ?」
 当たり前だと清音は平然と答える。
「あの人がね、遠くから話しかけてくるの。あの人の考えに従ってあの人に同調して。そしたらね、あの人が私の中に入って混じったの」
 あの人とは蝶男のことを示している。いつからか清音と蝶男が繋がっていた。
 きっかけは演劇部虐殺事件の時ね。
「私は清音だよ。でもあの人の一部になった清音なの」
「何言ってるのかわかんない」
 理解できないわけじゃない。
 蝶男と混じったということは、清音の魂は黒蝶の侵食が深く根付いてしまっているから。
 黒蝶化が進んだ清音は胚羊水の封を解き、自らあの深淵に飛び込んだ。そこで同じく黒蝶化していた赤眼の子を回収。そこからずっと清音の傍にいたようだ。
 赤眼の子はあたしと清音にしか認識されていない。あの痛々しい頬の青あざは誰の手によってつけられたものか問い詰めなくてもわかる。
「瑠璃が悪いんだからね」
 あたしが責めるような目つきをしていたから清音は悪意や詫びれもなく言う。
「私が忠告したのにカンダタに告げ口しようとするから」
 あれは忠告じゃなくて脅しよ。
 そう言い返したいのに拒絶反応からくる吐血のせいで声が出せなかった。
 あたしが肥溜めで赤眼の子を認識した時、まだ10歳ぐらいだった。そんな子供を清音は蹴っていた。
 あの時は腹部を蹴られていたし、頬の痣はなかった。新しくできたものらしい。
「そんなことよりさ、ガールズトークの続きをしようよ」
 ハクは顔の皺を深くさせ、低く長い唸り声で威嚇する。
「瑠璃たちが知っているあれの場所。私にも教えて欲しいなぁ?」
 目を潤めて猫撫で声で聞かれても、これは拷問と変わりない。清音が可愛く甘えてきても、その裏にある残虐性が見え隠れする。
 ハンマーで殴られるような頭痛は激しくなり、今にも気絶してしまいそう。それでも口を一文字にきつく結んで呻き声一つも出さずに耐える。
「ふうん」
 高く甘ったるい声とはうって変わって、低く冷たさを孕んだ声になる。
 下顎に強い衝撃を受けた。
 覆い被さっていたハクをすり抜けて清音があたしの顔を蹴ってきた。
 蹲っていたあたしは凍りついた大理石に転がって這いつくばる。頭痛と下顎の痛みに耐えながら立ち上がろうとするあたしに清音は追い打ちをかける。
 あたしの肩を踏み清音は体重をかけて、冷徹な床に立ち上がれないよう押し付ける。あたしは痛みに耐えて震える。
「私だけ仲間外れね。寂しいなあ悲しいなあ」
 呑気に間延びした言い方になっても肩にのしかかる足は無慈悲に重みを増す。重みのある痛みを噛み締める。
 あたしを見つめる清音の瞳の奥には惨めなものに対する情けと恍惚さがある。
 尋問に答えても答えなくても、どっちでもいい。彼女はあたしを痛めつけたいだけ。
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